白日夢
1.「ねぇ、猫、知らない?」
コロコロと転がる白球に、そっと伸ばされた手。その甲の白さは、白球に負けないくらい白かった。八月の暑さで、意識が朦朧としていた僕は、それに魅入られたように釘付けになった。マネキンに似た、作りものみたいな手が、ぎこちなくボールを掴む。ギッと音がしそうなほど、不自然な指の動き。
このひとはピッチャーには向いてない、途切れ途切れの意識の中でそんなことを思う。
ゆったりとした動きで持ち上げられ、僕の胸のあたりに差し出された。
「はい。どうぞ」
「......どうも」
僕は右手を伸ばした。目の前のその細い指は、かろうじてボールに引っかかっているという感じで、少しでも衝撃を加えるとポロリとこぼれ落ちそうだ。
「ねぇ、猫、知らない?」
さっきと全く同じ調子で、全く同じ質問を僕に投げかける。
僕はボールを受け取り、マネキンの手の先の先を、ゆっくりなぞるように辿ってみた。そのゴール地点は、白い女のひとだった。白い肌に真っ白なワンピースを着ていて、身体は針金みたいに細い。髪は茶色っぽく長くて、肩にかかるくらい。どこを見ているのかわからないような柔らかな瞳は、髪と同じ色をしていた。
昨日、こんなのをどこかで見たような気がする、唐突にそう思った。そうだ、昨日洗濯した時に、漂白剤に漬け込んだ練習着だ。漂白剤は、洗濯の時たまに使う。漬け終わった練習着は、気持ちいいくらい真っ白になる。
漂白お姉さん。
その白いお姉さんは、照りつける七月の午後の太陽の下で、不自然に浮いていた。まるで真っ昼間に、夜と間違えて出てきてしまった幽霊みたいだ。
「ねぇ、猫」
お姉さんの一方的な物言いに少しムッとしたものの、とりあえず「どんな?」と聞き返してみる。
「白い猫なの。まるまると太ってて柔らかい。毛は、普通の長さ」
「さぁ、知らない......」
「近所のおばさんが、青道の敷地内で見たって言ってたの。ここの用務員のおじいさんも見たって。だから、このあたりに絶対いるはずなの」
その言い方が意外に子供っぽくて、白いお姉さんがちょっとめんどくさいと思った。けど、僕は動物は好きなので話を聞くことにした。今は自主練中なので、途中で少し抜けても大丈夫だろう。
僕はそばの木の陰にお姉さんを案内した。お姉さんのためというより、僕がギラギラした強い日差しに耐えきれなくなったからだ。僕たちはグラウンドに背を向けて立った。
「シロっていうの」
「......そのまんまだね」
産まれた時、適当につけたんだろうな。白いからシロ。小さいからチビ、とか。
「大きさは、このくらい」
お姉さんはマネキンの両手を、包みこむように広げる。その大きさは、お姉さんのお腹の幅をゆうに超えていた。
「それ、ホントに猫なの?」
「猫よ。ちょっと甘やかせすぎちゃって」
太らせたことに、何ら後ろめたさを感じていない言い方だった。
いなくなったのがシロクマだったら、僕はもっと一生懸命になったかもしれないけど。ただ、この東京の暑さの中にシロクマが迷いこんだなんて、かわいそうすぎて想像するだけで悲しくなってくる。シロクマはやっぱり北極が似合う。でも、シロクマはネコ目クマ科クマ属だから、ネコとは全く関係ないとも言いきれないのか。
「なんで、いなくなったの」
お姉さんの長いまつ毛が悲しげに伏せられた。
「一週間前、とても暑い夜があったでしょう?」
「ああ......」
確かあの日はひどい熱帯夜だった。同室の先輩に、もっとクーラーの温度を下げてくれと頼んだが、これ以上は下げすぎだと怒られたんだ。僕はクーラーをがんがんに効かせた部屋で、タオルケットにくるまるのが好きだった。
お姉さんは汗ひとつかかない涼しい顔で続ける。
「シロは拾ってきた日から、一度も外へ出したことがないの。でもあの夜はとても暑くて、リビングの大きな窓を開けてしまったの。そのまま庭に出て、少し用事をしていたわ」
「......うん」
「それからリビングに戻ったら、もうシロはどこにもいなかったの。今まで窓を開けていても一度も外へ出たことなんかなかったのに」
僕はお姉さんのソプラノを聞きながら、動物図鑑で得たネコに関する知識を、がんばって引っ張りだそうとした。最近は、野球の知識で頭がいっぱいだったからうまくいかない。ああ、そうだ。
「ネコって、縄張り意識が強いんだ」
「ええ」
「ずっとうちで飼ってたんでしょ。だったら、縄張りのない外なんか出ないはずだよ」
「そうなの。じゃあ、どうしてシロは外へ出たのかしら?」
「......さぁ」
そんなこと僕に聞かれても。そこまでは図鑑に載っていない。何も知らないんだな、と思った。ネコを飼っているのに。大人なのに。
自分でもこんなにしゃべったのは久しぶりだったから、喉が渇いた。普段の練習の時は体は動かすけど、そんなに長くはしゃべらない。しゃべっても「はい」とか、「スタミナロール」とか。戻って何か飲みたかった。水分を摂らないと御幸先輩に怒られるし。
「......るや! 降谷!」
僕の心の声が届いたのか、遠くから御幸先輩の声がした。これは、たぶん怒ってる。
「もう戻らないと」
「そう......。ねぇ、あなた、名前は?」
「え、ああ......降谷、暁」
「暁くん......」
お姉さんは、ゆっくりと噛みしめるようにして呟いた。
「ありがとう、暁くん。じゃあ、」
「また」と、聞こえたような聞こえていないような。セミの鳴き声にかき消されてどっちかわからなくなってしまった。
お姉さんは音もなく静かに立ち去った。
僕はその後ろ姿をただ、ぼーっと見送る。暑さで頭の動きがにぶい。名前を聞いたということは、また来るってことかな。でも、何度僕に聞いたってわかるわけでもない。僕は動物探しのプロじゃない。
「降谷! お前、何こんなとこでさぼってんだ!」
御幸先輩はやっぱり怒っていた。この間も、全然集中していないと怒られたばかりだ。
「......すいません。でもネコが......」
「はぁ?! ネコ?! 何言ってんだお前」
「............」
「なんだよ」
「......なんでもないです」
なんとなく秘密にしておこうと思った。御幸先輩は不機嫌な顔で僕を見ているけど気にしない。
その夜もとても蒸し暑かった。同室の先輩二人が、喉が渇いたというので、僕は外の自販機までジュースを買いに出た。自分の分を含めた計三本の冷たい缶ジュースが、腕に当たって気持ちいい。
その時、前方から誰かが歩いてきた。
「あ、降谷くん」
「あ」
春っちだった。手にバットを持っているから、素振りの帰りだろう。
「えっと、パシリ?」
「......違うよ。お使い」
「......そう」
春っちとすれ違う時、急に今日のことを思い出した。
「......ねぇ、このへんでネコ見かけなかった?」
「ネコ?」
僕がうなずくと、春っちは口元に手を当てて何か考えていた。
「あ、そういえば! ゾノ先輩が最近、寮の裏から、鳴き声みたいのがするって言ってたよ」
「......!」
「ネコがどうかしたの? 降谷くん」
「......なんでもない。ありがと」
きっとシロのことだ。早くお姉さんに知らせなきゃ。
不思議そうな顔をした春っちを残して、僕は部屋に戻った。先輩にジュースを渡して、僕の分は冷蔵庫に放り込む。棚の中に確かあれがあったはずだ。僕は先日実家から送られてきたほっきぶしを取り出した。苫小牧の名産のこれはとてもおいしい。きっとシロも気に入るはずだ。
部屋を出て食堂に寄り、皿を一枚借りた。そのままの足で寮の裏手へまわる。僕は一掴み分のほっきぶしを乗せた皿を、目立たない端のほうの地面に置いた。建物の陰に隠れてしゃがみ込み、その皿をじっと観察する。夏の夜の生暖かくて弱い風が、時々ほっきぶしをさわさわ揺らした。
そういえばシロってオスかメスかどっちなんだろう。聞いてなかったな。縁もゆかりもないネコだけど、僕は動物が好きなのでただ心配だった。だって今まで家の中しか知らなかったのに、急に外へ出て困ってるんじゃないかと思ったから。
でも、それから三十分くらい皿を監視していたけど、結局その夜シロが現れることはなかった。
次の日の朝、眠い目をこすりながら寮の部屋を出た。とりあえず食堂に皿を返さなければいけないので、回収のため寮の裏手に行ってみる。すると、遠目から見た皿は、その白さが際立っていた。
もしかして。
僕が歩を早めて皿に近づくと、案の定、ほっきぶしがきれいになくなっていた。あたりを見回すけど、別に何もいない。でも僕は確信した。シロは絶対、このあたりにいるんだ。
2. その日から僕は、夜の自主練が終わると寮の裏手へ行ってほっきぶしを置き、シロが現れるのを待った。次の日も朝が早いので最大三十分が限度だ。虫の音をぼんやり聞きながら、ほっきぶしをひたすら監視する。
昨日僕はシロのことを考えていたけど、なぜか今日は、あの白いお姉さんのことを考えていた。あの人は僕と話していても全然表情が変わらなかった。僕もよく無表情と言われるけど、心の中では結構いろいろ考えている。でもあのお姉さんは、心がないみたいだった。もしシロが見つかれば、お姉さんの心を取り戻せるかもしれない。
しばらくして携帯のディスプレイを見ると、もうとっくに三十分経っていた。今日もシロは現れなかったので、僕は重い腰を上げて部屋へ戻った。
けど次の日の朝も、皿の上のほっきぶしはきれいになくなっていた。これはもしかしたら長期戦になるかもしれない。ただでさえ僕はスタミナが足りないのに大丈夫かな。
そういえば、もしシロを捕まえたとしても僕はお姉さんの居場所を知らない。僕は、お姉さんが言ったかもしれない「また」を信じるしかなかった。
それからも毎晩皿を置いておくと、朝には決まってエサだけがきちんと食べられていた。でも僕は、未だにその犯人を捕まえることができずにいる。
皿を置きはじめてから五日後の夜だった。もう時間だったので部屋へ戻ろうと僕が立ち上がりかけた時、カサカサとわずかに草を揺らす音がした。僕は立て膝をついて、野生動物のように息を殺す。
視線の先に小さな影が見えた時、僕ははっと気づいた。そうだ、迂闊だった。もし本当にシロが現れたとして、僕は素手で捕まえる気なのか?もし引っかかれてケガでもしたら?僕は野球をやっている。前は一人だったけど今は一人じゃない、みんなとやっている。この僕のピッチャーの手は、今はチームのためのものなんだ。
どうしよう。手のひらが汗ばんだ。シロに出てきてほしいけど、出てきてほしくない。
小さな影が徐々に皿へと近づいていく。
僕は脇の下に嫌な汗が流れるのを感じながら、ただひたすらその影を見つめる。空気に溶け合うように気配を消し続けた。
でもなぜか、暗闇の中から現れたその影は、明るくなることなくそのままの色で皿の上のほっきぶしを食べはじめた。
変だな、と目を凝らしてじっと観察すると、その小さな影はどうやら黒猫のようだった。全体的に、野良独特の引き締まった体をしている。まるでシロとは正反対のタイプだった。
僕はそれを見て急に気が抜けてしまい、そのまま地面にへたりこんだ。なんだ、シロじゃなかった。たぶんあの黒猫が毎晩あれを食べてたんだろう。
僕はなんとなくバカらしくなってきてそのままグラウンドへ寄り、タイヤを引きながら三周ほど走った。なんだ、なんだ。
心臓のどくどくという音を聞きながら、次第に現実味を取り戻していく。
もしかしたら、あのお姉さんは夏の暑さが見せた幻だったのかもしれない。もしくは昼間に現れた幽霊か。もうどっちでもよかった。そうだ、夏大が迫っているのに僕はこんなことにかまけている余裕なんかないはずだ。
「......スタミナロール」
今はネコなんかよりこっちの方がよっぽど重要だ。
その次の日、部活の休憩時間に僕は前にお姉さんと話したあの木陰で、木にもたれかかり休んでいた。この日もひどく天気が良くて、僕はまたその暑さにやられてしまった。ここは穴場の休憩スポットで、一人になりたい時によく来る。
流れるに任せていた汗を肩にかけたタオルでぬぐい一息ついた。
「暁くん......」
背後からのその弱々しい声にはっとして振り返ると、急にそこへ現れたみたいに例の白いお姉さんがぼんやり立っていた。この間と同じ白のワンピース姿。思わず僕はお姉さんの足を確認する。その先には白い棒のような足がきちんと伸びていて、幽霊じゃないことを改めて自覚した。
「こんにちは」
「......こんにちは」
お姉さんは、前より白くなったように見えた。漂白しすぎたみたいだ。
「ねぇ、シロ、知らない?」
「さぁ、知らない......」
は五日間の自分の失態は言わなかった。だって結局シロじゃなかったんだから。
「そう......」
またお姉さんの顔に、まつ毛の濃い影が落ちる。
結局、寮の裏にいたネコはシロじゃなかったけど、僕は一瞬でもシロが現れることを拒否した自分に少し後悔していた。
お姉さんは沈んだ面持ちで僕を見下ろす。
「あれからずっと探しているけれど見つからないの」
「そっか......」
静かに草を踏みしめて僕のそばへ近づき、隣に屈み込んだ。そのまま地面に腰を下ろそうとしたので、僕は反射的にタオルを差し出していた。
「あの......これ」
「え? ああ、ありがとう」
なんとなくお姉さんの白いワンピースを汚してはいけない気がした。お姉さんはタオルを丁寧に折りたたみその上に腰を下ろす。
「シロのふわふわの白い毛も、今頃きっと黒く汚れてしまっているわね」
「たぶんね」
シロクマだったら、汚れた時は海に飛び込むからいつもあんなにきれいな毛を保っていられるんだろう。そう思うとネコは不便だな。
「シロクマみたいに水の中に入ればいいのに......」
「シロクマ?」
「うん」
「暁くん、シロクマ好きなの?」
僕は小さくうなずいた。
「へぇ、意外ね」
「......?」
お姉さんは僕の表情を見て続けた。
「だって、高校生の男の子がシロクマなんて」
「......お姉さんだって大人なのにネコ、ネコって言ってるじゃん」
「シロは家族だもの」
そう言い張るお姉さんはまるで小さな子供みたいだった。
「僕だってシロクマを尊敬してる......!」
お姉さんは一瞬表情を止めたのち、こらえきれずに笑い出した。でも、ワハハとかそういうのじゃなくて何というかもっと控えめな。僕はしばしその表現を考える。......ころころ?そう、ころころ笑った。その笑い声は僕の耳に心地よく響いて、なぜだかもっと聞いていたかった。
でもその声は長くは続かなくて、またお姉さんの表情が翳る。お姉さんの後ろの空は青く晴れ渡っているけど、今だけ大きな雲が太陽を覆ってしまっている。
「......今頃どうしているのかしら。お腹を減らしてないかしら」
「さぁ......」
「ねぇ、そういえばシロクマは何を食べるの?」
僕はよくぞ聞いてくれましたとばかりに知識を披露する。
「シロクマはアザラシを食べるんだ。あとは魚とか鳥とか......」
「......アザラシ? ずいぶんと残酷なのね」
わずかに眉をひそめたお姉さんに、僕は少しむっとした。そうやってかわいそうと言う人はいるけど、シロクマにとってそれは普通のことで、僕たちがご飯を食べるのと同じことなのだ。
「でも、シロだってお腹がすいたらネズミくらい食べるんじゃない?」
「......そう、そうね。ごめんなさい。それでシロが元気に生きていればそれでいいわ」
「うん」
「ねぇ、暁くんはこっちの人じゃないの?」
「......?」
「どこか遠くから出てきた人なのかと思って」
「ああ......」
"遠く”というのは東京以外のことだろう。近所なら当然、青道の野球留学の話は知っているだろうし。けど、お姉さんの口から発せられると、架空の世界のどこかみたいな響きを持っていた。
「今年、北海道から出て来たんだ」
「そう、なの。......暁くん淋しくない?」
「寮だから人はいっぱいいるし、大丈夫だよ。ちゃんと野球できるし......」
「そう......」
「......友達もいるし」
「友達」って言ってしまった。でもいいよね。春っちは友達だから大丈夫だよね。
「暁くんは広い世界を知ったのね」
「............」
"広い世界"
お姉さんの言ったその言葉について、僕はしばし考える。
お姉さんは僕の返事を特に期待する風でもなく、ぼんやりとその茶色い瞳に遠くの景色を映していた。
北海道は東京よりずっと広いけど、僕にとって確かに北海道は狭い世界だった。
一人で壁に向かってボールを投げ続けるむなしさ。今は受けた人それぞれの意思をもってボールが僕に投げ返され、僕はそれを受け取ることができる。何より僕自身がみんなと野球ができている。たったそれだけのことだけど、僕にとっては大きな進歩だった。
僕は返事変わりに一つうなずいた。お姉さんのさっきの言葉からずいぶん時間差があったと思うけど、お姉さんは「そう」とだけ言って微笑んだ。
しばらくしてお姉さんがタオルを手に静かに立ち上がった。
「タオル、洗って返すわね」
「......大丈夫。寮ですぐ洗えるから」
「そう?」
僕はお姉さんからタオルを受け取る。
「じゃあね。シロはまたしばらく探してみるわ」
「うん」
お姉さんの後ろ姿を見送ってからふと手元のタオルに視線を落とすと、僕はあることに気づいた。そうだ、お姉さんにタオルを預けていたら、もう一度お姉さんのあの声が聞けたかもしれないのに。
僕は黒く汚れてしまったタオルを眺めながら呆然と立ち尽くした。
3. それから数日経って、いよいよ大会も目前に迫った頃。いろいろとアクシデントが重なり、僕はシロのこともお姉さんのことも気にかける余裕がなかった。
けど、今日は天気が良すぎるからなんとなく予感がして、僕はまたあの木陰で休憩していた。手元のまだかすかに洗剤の匂いの残る白いタオルを見つめながら、早くシロが見つかればいいのにと思った。
「こんにちは」
やっぱり。僕はあいさつをしようと顔を上げた瞬間、思わず息をのんだ。
目の前のお姉さんは前に見た時よりも白く、可哀想なほどに痩せていて、目の下には隈ができていた。お姉さんは服のことなんて構わずに僕の隣へ腰を下ろす。
今日はいつもみたいに「ねぇ、シロ、知らない?」って聞いてくれなくて、僕はなんとなく胸がざわざわした。
「やっぱり見つからないわ」
「そう......」
こんな時なんて言えばいいんだろう。僕は本当に言葉を持たない。いつも一緒にタイヤを引いているアイツは、御幸先輩は、こんな時なんて言葉をかけるんだろう。人を勇気づける言葉はとても難しくて、改めてマウンドの僕に声をかけてくれる御幸先輩を尊敬した。
「シロは野生に戻ったのかしら。同じネコの世界で。だとしたら、狭いうちの中よりはいいかもしれないわね」
お姉さんは諦めたように小さく笑った。
「広い世界......」
ぽつりともらした僕の言葉に、お姉さんははっと目を見開いた。真剣な表情で僕に顔を近づけまっすぐに見つめる。
「ねぇ、暁くんは北海道を出て、広い世界を知ってどうだった?」
お姉さんの目は、今までに見たことがないくらい生気に満ちていた。木の葉の重なる影がお姉さんの右半分の顔を刺青みたいに覆っていて、その不気味さに僕は少しぞっとした。お姉さんの悲しみの原因のような暗い影が、お姉さんを徐々に蝕んでいるみたいだった。
それから恐る恐るお姉さんの茶色い瞳を覗きこむと、お姉さんの真意がなんとなくわかった。ああそうか、お姉さんは僕の向こうにシロを見ている。
でも、それでもいいんだ。
「......僕は、青道に来ていろんな人に会った。意地悪な人もいるし、きつい人もいる。......けど、狭い世界にいた時よりずっと」
僕とお姉さんの視線が交差する。けど、お姉さんの目に僕は映っていない。僕はそれでも構わず続けた。
「楽しい」
その瞬間。ぽたりと手の甲に温かい感触が降ってきた。それを見たあとお姉さんの方に顔を向けると、その原因がわかった。それは、しくしくとかわんわんとかそういうのじゃなくもっと......。僕は勉強が苦手だからうまい表現が見つからない。そうだ、コップに一杯になった水が容量を超えて溢れてしまうような、そんな感じだった。こんな風に泣く人に、僕は出会ったことがない。
お姉さんは溢れ出るのをそのままに、「そう」をひらすら繰り返した。僕はただ黙って隣にいることしかできなかった。
ひとしきりそうしたあと、お姉さんはすっと顔を上げ僕を見つめた。さっき溢れたものが、どこか柔らかく曇っていた印象の瞳を、きれいに洗い流したみたいだった。
「......暁くん」
「............」
「ありがとう」
お姉さんは立ち上がって、微笑みながら僕を見下ろした。そして、出会った時と同じく、幽霊のような静けさで僕の前から立ち去った。
僕はその白い後ろ姿を眺めながら、またしてもはっと気づいた。そうだ、今こそタオルを差し出すべきだったんだ。
僕は白いタオルをぎゅっと握りしめ、ただただ立ち尽くしていた。
それから慌ただしく大会が始まり、あんなに気にしていたお姉さんもシロも記憶の片隅へと追いやられた。シロは見つかったのか、あるいはお姉さんが諦めたのか、あの日以来お姉さんが僕の前に現れることはなかった。僕は僕で、広い世界で必死にもがいていたから。シロも今頃どこかでそうやってもがいていたらいいのに。
シロしか映していなかったお姉さんの茶色い瞳。泣いたあとのお姉さんの澄んだ瞳に、僕はちゃんと映っていたんだろうか。あの時、僕は怖くて確かめることができなかった。
4. 八月。事実上の夏が終わり、先輩たちは引退していった。今は新チームになり、前とは違うことで僕はまたもがいている。
今日は試合形式の練習で、僕は先発を任されていた。照りつけるような攻撃的な日差しが、マウンドの上の僕に、容赦なく襲いかかる。今は少しピンチの展開だった。僕は、いつものように指にふっと息を吹きかけ、ロージンを飛ばす。
その時だった。
ーー ニャ〜
僕は反射的に後ろを振り返った。けど、そこにはお姉さんもシロもいなかった。そして、僕に浴びせるような大声をかけていた伊佐敷先輩もいない。
「どうした降谷? 落ち着いて投げろよー」
僕は東条くんの言葉に小さくうなずく。そうだ、まだまだ暑い日が続くけど、もうあの時とは確実に何もかもが変わってしまったんだ。
額の汗を袖で拭う。頭がくらくらした。やっぱり僕には東京の夏は暑すぎる。
頭の靄を必死で振り払うかのように、あたりを見渡した。ベースも白、ラインも白、僕の足元に落ちているロージンバッグも白。ここには白が多すぎる。
なんとなく嫌気がさして空を見上げると、眩しすぎる太陽が僕の瞳を飲み込んだ。その光の白の白さに、お姉さんと想像のシロを見る。
僕はゆっくり目をつむり、瞼の裏をオレンジ色にして打ち消した。
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