笑ってみてほしい


宮地さんの冗談の度が過ぎるのはいつものことだけれど、これはちょっとシャレにならない、と思ってすぐに訂正する。いいや、ちょっと、どころじゃなくって、ずいぶん。頭の中では危険を知らせる赤いランプがピコピコうるさく鳴って、何で?だとか、どうして?といった疑問が混沌としてうまく働かない頭でも、ヤバいことは明確に分かる。ヤバい。超ヤバい。ヤバいってどれだけ語彙貧弱なのよ、でも、だって、これはヤバいとしか言えねえって。人間追い詰められると思考が働かなくなるものだ。

「あの〜……宮地さん、壁ドンって俺オンナノコじゃねーっすよ」
「知ってる」

機嫌を探るようにそろそろと言うと間髪入れずに宮地さんは答えた。知ってる、ってそりゃあね。そうだろうね。前後左右どっからどうみても俺は男だし、合宿で一緒に風呂にも入りましたしね。ハイ、そうですね。わかってますよね!じゃあ何で俺は精神的にも、物理的にも追い詰められているのだとやはり疑問が浮かぶ。
さあ帰ろうとロッカールームを出ようとしたら、少し話があるからと宮地さんに呼び止められた。真ちゃんへ先に駐輪場に行くように促し、何ですかーともちろん平素の軽い調子で蜂蜜色の瞳に訪ねたら、与えられたのはお話じゃなかった。突然肩を突かれ後ろによろけた間になんとまあ惚れ惚れするような見事な手際で壁と宮地さんにサンドされていたから意味がわからない。いやいやほんと、冗談キツいっすよ。カラカラの喉で、なんとか流されまいと普段のおちゃらけたノリで言ってみたのに、だから何だとさらりと返される。見下ろしてくる蜂蜜色の瞳から注がれた眼差しは至って真面目で、嫌みなほどに長い手足が逃走を適わなくさせてくる。
これが少女漫画ならものすごくドキドキする盛り上がるシーンなんだろうけれど(悔しいことに宮地さんはイケメンだし)ここは現実で、しかも宮地さんが捕らえてるのは男の俺で。いつもと変わらない汗臭いロッカールームで、この人は何を間違っちゃったんだろう。


「ちょ、近いっすよ」
「わざとやってんだよ」

何しれっと言ってんだ!な〜んて冗談でした〜!もー宮地さん俺動揺しちゃったっすよ〜って茶番を期待するのに、距離は詰められるだけで、とても据わりが悪くて困ってしまう。こうやって、真剣なまなざしを向けられると困ってしまう。息遣いが丸ごと拾える距離、宮地さんの気配が色濃い。例えば部活のストレッチだったり、悪ふざけで抱き付いてみたり、今までに触れ合ったことはたくさんあるのに、これは、確実に意味が違う。

「悪いけどもう限界なんだわ」
「……………」

何でだとかどうしてとか思うところは山のようにあるけれど宮地さんのくちびるが言うことや指先の求めることをなんとなく読み取ってしまって、ごくりと生唾を飲んだ。まさか。いやでも、……。色素の薄い瞳を見つめながら、しばし呼吸を怠ってしまった。

「真ちゃんが……緑間が、外で待ってるんすよ」
「知るかよ」

形のよい眉毛がぎゅうとひそめられて、吐き捨てるように言われた。やっぱり俺は困ってしまう。だって、どうでもいい風な口調なのに、宮地さんはひどく息苦しいような顔をするのだ。この人は今、本当に緑間のことなんてどうだっていいのだ。
肘が折り曲げられて、鼻先が触れ合いそうな距離で真っ直ぐ見つめる宮地さんの双眸は透明だった。もうわかってるんだろ、と、答えを待ってない問い掛けを落とされて、そうして顎先に指を掛けられて、思わずぱちぱち瞬きを重ねる。広い視界にたっぷり映るのは宮地さんで、香りも、いいや、たった今俺の五感を支配しているのは宮地さんで、まるで世界が切り取られたような心地さえするのだった。轢くぞ、と軽トラのキーを見せつけられたほうがずいぶん現実味がある。

「高尾、」

名前を呼ばれる。知らない呼ばれ方をされて心底が傾く。何でとかどうしてとかやっぱり思うけれど、真ちゃん怒ってるかな、って緑間のしかめっ面が頭をチラリと掠めたけれど、後回しでいいかなあ。今日はとても寒い日で、俺を待っているだろう緑間の大切な指先はすっかり冷え切っていることだろう、ただ、今温めたいのは目の前の、先輩の手指だった。怖くて、厳しくて、いつも自信たっぷりの宮地さんの、壁に突いた掌を、掴めないものを掴むようにぎゅうと丸める仕草や、縋るようがに指先を滑らす仕草を見せられたら応えないわけにはいかなかった。だって、限界って、ほんとうに死んでしまうかと思うほど厳しい練習のときだって絶望的な試合のときだって決して終わりを示す言葉を吐かなかった宮地さんが、限界って言った。限界って、もう無理ってそう言った。

「……何してた、って真ちゃんに聞かれたら一緒に言い訳してくださいね」

なあ高尾、お前、流されやすいって言われねぇ?ってさ、宮地さん、だってあの宮地さんが泣きそうな顔してるんですもん。もういいや!可愛くないしくちびるも胸も柔らかくないし、キスもたぶん下手くそだけれど、今ならできる限り何だってするからどうか泣かないで、轢くぞっていつもみたいに笑ってみせて。

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