サアアアッと、冷たい雨が降りはじめた。
水溜りの水を蹴り上げて走る足音や、屋根の上で跳ねる水滴の音。
雨の音に包まれてしまえば、残るは孤独な空間だけ。
孤独な空間に残された僕たちは、ただただ静かにお互いを見つめ合うだけ。
「ねぇ、郁。私のこと、愛してる?」
「っ…」
些細なことで、君を泣かせてしまった。
彼女の頬を濡らすのは雨か、それとも、涙か。
「バイバイ、郁」
大きな瞳に涙をいっぱい浮かべて、それでも無理矢理笑顔を作る名前。震える涙声は、僕の心に深く響き渡った。
今すぐ彼女を抱きしめなくちゃいけないのに。今すぐ、あの温かい手を取らなきゃいけないのに。
それなのに、一歩も動かない僕の足。
彼女が、名前が、僕に背を向けて走り出す。追いかけたいのに、追いかけることができない。プライドと、心に深く根付いた闇が、それを邪魔するから。
ねぇ、名前。僕は…僕は、君のことが…。
雨が降ると、よく姉さんのことを思い出した。
雨のせいで急激に下がった気温。その寒さから逃れるように、姉さんと一緒にベッドの中に潜り込んだっけ。時には、琥太にぃも一緒に。
ゆらゆら揺れる思い出は、窓についた水滴が流れ落ちるように、静かに僕の心の中に流れ落ちた。
「何か、考えごと?」
「…昔のことを、思い出していたんだ」
はい、と手渡されたのは彼女とお揃いで買ったマグカップ。コーヒーの香りと白い湯気が、寒さを少し和らげてくれた。
名前と同棲を始めて、もう1年くらいが経とうとしている。
こんな僕が、一人の女性と長く関係を続けているなんて誰もが驚くことだろう。だって今までの僕は、お世辞にも良いとは言えないふしだらな関係ばかり続けていたから。
だけど、彼女は違う。始まりはいつだったか覚えていない。気がつけば、彼女はいつも僕の隣で笑っていたから。
暖かい、春の陽だまりのような笑顔。その笑顔がなんだか姉さんと似ていて好きだった。冷め切ってしまっていた僕の心を、ゆっくりと溶かしてくれた。
「昔、雨が降るとよく姉さんと一緒にベッドの中に潜り込んだんだ」
「…郁が、昔のことを話してくれるなんて珍しい」
「…そうかな?」
マグカップに口をつけながら、「そうよ」と名前は言った。
そう、だね。僕が自分から姉さんのことを話題にするなんて珍しい。それくらい、彼女には気を許しているってことなのかな?
「私、雨が好きよ」
「僕は嫌いだな。寒いし、体調も崩れる」
「だけど、こうして郁の隣にいて雨の音を聞いていると、なんだか二人だけの世界にいるみたいじゃない?」
子どもっぽい悪戯な笑みを浮かべて笑う名前。ああ、その笑顔も好きだ。
僕と名前。二人だけの世界。もし、本当にそんな世界が存在したら君はどうする?
僕は、僕はね。そんな世界が存在するなら、その世界で僕の大嫌いなあの言葉を君に囁いてもいいと思うんだ。「愛してる」って君の耳元で。
普通の人にとっては、たった一言の簡単な言葉なのかもしれない。だけど、僕にとってその言葉は信じることのできない安っぽい言葉だった。
だけど、名前は違うよね。「愛してる」って言葉が本当はどんな意味を持つ言葉なのか、君は知っている。だから君は、僕からの「愛してる」を欲しがる。
そういえば、「私のこと愛してる?」が名前の口癖だった。そう言って戯れる君を僕は軽くあしらう。そうすれば、君は拗ねてしまう。まるで、お子様みたいに。だけど、そんな君と一緒にいるのは嫌じゃなかったよ。
誤魔化し続けた僕を、名前はいつも悪戯に笑うだけだった。そんな君が好きだった。…好きだったんだ。
気がつけば、雨に打たれながら名前と過ごした日々を思い出していた。
ねぇ、今ならまだ間に合うのかな?
やっぱり、僕は君の手を離したくない。
雨に濡れた身体が冷える。雨に濡れた服が水分を含んで重くなる。だけど、今はそんなことを気にしている場合じゃない。
雨に濡れた地面を蹴り上げて、僕は、走り出した。僕に背を向けて歩き出した名前を追いかけるように。
バシャバシャと、傘も差さずに走る僕の姿。その姿は、なんとも滑稽なものに見えたかもしれない。それでも、君を失うことに比べたらこれくらいどうってことないんだ。
つまらないプライドは捨てて、心の闇から抜け出して。たった一つの光を掴むために。
僕と同じように雨に濡れて歩く名前の姿。
ああ、やっと見つけた。
今度はもう、離さないから。
「名前!!」
「郁…?」
振り返った名前を、思いっきり抱きしめる。そして、僕は叫んだ。
「愛してる…!愛してるよ…!」
雨の音だけが支配するこの世界で、僕の声だけが響く。雨のせいか、それとも涙のせいかも分からずにぐちゃぐちゃに濡れた僕の顔。こんなみっともない姿、今まで誰にも見せたことがないのに。
どうしてだろう?君の前だと、僕はいつもの僕ではいられなくなる。
僕の濡れた頬に、名前の手が触れた。いつもは温かいはずのその手が、雨のせいで冷たくなっている。
それでも、その手の温もりにまた涙が零れた。
何も言わずに、柔らかく微笑む名前。そして彼女は、静かに目を閉じた。
それが合図だったかのように、僕は自分の唇を彼女の唇に重ね合わせた。二人の冷たい唇が、熱を求め合う。
キスをするだけなのに、どうして僕の身体はこんなにも震えているんだろう?これはきっと、雨で冷えた身体が寒さに震えているからじゃない。
…緊張しているんだ。柄にもなく。
唇が離れて、ゆっくりと開かれた名前の瞳。そこには、子どものような泣き顔を浮かべた僕がいた。
「やっと、言ってくれた」
「…名前、僕、」
「ねぇ、郁。私のこと愛してる?」
雨と涙で濡れた顔で、また悪戯に笑う名前。本当、君には敵わないな。
「…この言葉は、僕がこの世で一番大嫌いな言葉だけど、君のためなら言うよ。…愛してる」
「私も、郁のこと愛してるよ」
不思議だね。「愛してる」って言葉を嫌う僕が、名前に「愛してる」って言われるとなぜか嬉しく感じてしまうんだ。
こんなの、矛盾しているよね。だけど名前は、こんな僕でも愛してくれる。だから僕も、こんな僕だけど、君のことを最後まで愛してみせるよ。
「愛してる…」
最後に小さく呟いた言葉は、もしかしたら降りしきる雨の音にかき消されてしまったかもしれない。
それでも、名前には届いた。
雨に包まれた二人だけの世界で、僕はやっと君を見つけ出すことができた。これからはもう、この手は絶対に離さない。だから最後に、もう一度だけ。
愛してる、よ。
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song:A.c.i.d B.l.a.c.k C.h.e.r.r.y / イ.エ.ス
14/02/25