※ 病んでいます
いい子でいなければならない。ずっと、そう思ってきました。
兄や姉のようなピアノの才能がない僕は、両親から愛されるためにはいい子でいなければならなかった。だけど、いい子でいても僕は両親から愛されなかった。愛されないどころか、いない者として扱われた。
いつしか、僕の誕生日は祝われなくなった。
いつしか、僕の名前は呼ばれなくなった。
いつしか、僕は必要とされない人間になった。
僕は、誰かに必要とされたい。それだけを願って生きてきた。そのために僕は、周囲の望む立ち振る舞いをするように気を遣ってきた。自分の思いを口にせず、誰にも不快な思いをさせないように。そしていつしか、本当の自分の思いがどれなのか分からなくなっていた。
だけど、そんな僕を必要としてくれる人が現れた。
彼女は、いつも僕に優しく微笑みかけてくれる。僕が弾くピアノの音色を、とても美しいと言ってくれる。僕が頭を撫でると、照れた顔ではにかんでくれる。そして彼女の大きな黒い瞳で、僕だけを映してくれる。
でも彼女の魅力は、それだけじゃない。
彼女の小さな唇は、まるで神にでも縋るかのように僕だけの名前を呼ぶ。彼女の瞳から零れる涙は、僕のためのもの。時折、狂ったように僕の名前を泣き叫ぶ彼女は、僕が奏でる音色よりも美しかった。
「颯斗…。颯斗っ…!」
「おやおや。どうしたのですか?」
ポロポロと大粒の涙を零しながら、名前さんは僕の名前を呼ぶ。
そういえば、ここ最近、彼女の口から僕以外の名前を聞くことがない。彼女の口は、まるで僕の名前を呼ぶためだけにあるみたいだ。
「小鳥を…殺したの」
「小鳥を?名前さんがそんなことをするとは思えませんが、何かあったのですか?」
「っ、鳥の巣から、ねっ…落ちた小鳥を、助けって…あげっ…ひうっ」
僕の白いワイシャツに、彼女の涙がどんどん染み込んでいく。そして、縋るように握られたシャツに寄った皺がどんどん深くなっていく。
どうやら名前さんは、鳥の巣から落ちた小鳥を助けようとして木を登って小鳥を巣に戻したらしい。きっと、彼女の行いは間違っていない。なぜならそのとき、彼女は何も知らない無知だったのだから。
「その後に…っね?巣を見にっ行っ…た、ら…みんな、死んでた…の」
「名前さん…」
彼女は無知だった。穢れを知らない純白のベールのように、無知だった。だからこそ、こんなにも名前さんの心は傷ついてしまった。
鳥の巣から落ちた小鳥をまた巣に戻せば、どうなるか。僕にはそれが分かる。落ちた小鳥をまた巣に戻そうとするならば、人の手で戻してやらなければならない。そしてそのときに、その小鳥には人間の匂いが移ってしまう。それが一体、何を意味するのか。
人間の匂いが移ってしまった小鳥を、親鳥は見捨てる。それが、自然界の理。親鳥というものは、非情に天敵に敏感だ。だから、その小鳥を見捨てた。他にも何羽かいるであろう小鳥たちと共に。
親鳥に見捨てられた小鳥たちが、果たして自分達の力で生きていくことができるのだろうか。答えはきっと、誰にだって予想できる。小鳥達は、死んでしまったのだろう。親という庇護を失ってしまったのだから。
「私が、ころし…た」
「そうですか…」
大きな瞳を、さらに大きく見開いて苦しそうに顔を歪める名前さん。ああ、その顔。その顔が、いつも僕の心の奥底に眠る狂気を目覚めさせる。
「貴女のせいで、小鳥は死にました」
「っ…!?」
「きっと誰も、名前さんのことを許してくれないでしょうね」
「いや…っ。いや…!!」
激しく首を左右に振る彼女を見て、人は大げさだと思うだろう。だけど、彼女は本当に恐れているんです。人から、見捨てられることを。
たかが小鳥の死に、ここまで取り乱す人がいると思いますか?きっとこれが人の死なら、誰もが頷くことだったのでしょう。だけど名前さんは小鳥の死に、こんなにも取り乱してしまっている。まるで、狂った人形のように。
そう。彼女は、狂っている。
彼女が狂ってしまった理由なんて、とうの昔に忘れてしまった。だけど、原因が僕にあることだけは確かですね…。
「颯斗…私…!」
「ええ、大丈夫です。僕だけは、貴女を見捨てたりはしません」
「はやっ…と…」
「僕だけが、名前さんのことを愛してあげます」
「ありがとう…」
涙を流しながら、不器用な笑顔で彼女は笑う。そう。僕は、その笑顔が見たかったんですよ。僕だけを盲目に愛する、その笑顔が。
僕と彼女がいるこの場所は、誰にも知られることがない秘密の場所。きっと、今ごろ世間では僕達の捜索願が出ているのでしょう。一樹会長や翼くん、そして、月子さんも必死になって僕達を探しているはずだ。
だけど、僕達は見つからない。いや、見つからないように隠れているのだから、無理もない。
最初は、些細なことがきっかけだった。僕以外の誰かに優しく微笑みかける名前さんの笑顔を見て、僕の中で何かが生まれた。
どうして、あの笑顔が僕だけに向けられないのか。どうして、彼女の瞳には僕以外の人が映るのだろうか。どうして、彼女は僕だけのものにならないのか。
その狂気は、いつしか名前さんのことを壊してしまった。
だから僕は、彼女のことを攫った。彼女が、僕以外のものにならないように。彼女の瞳に、世の穢れた俗物たちが映らないように。そして、彼女が僕だけを必要としてくれるように。
壊れてしまった名前さんは、僕の思い通りになった。僕だけを必要としてくれて、僕だけを愛してくれる!!それが、僕にとってどんなに素晴らしい喜びであることか。きっと僕のこの気持ちは、誰にも理解することはできない。だけど、それでもいいと思っています。だって、名前さんはもう僕のものになったのだから。
「颯斗だけだよ…。私のことを、必要としてくれるのは…」
「そうですね。…だから、僕の傍から離れてはいけませんよ?」
「離れられないよ。離れたくない。颯斗が、必要なの!!」
名前さんの悲痛な叫びが、まるで静寂の空気を打ち壊すかのように響き渡る。ええ、もちろん。貴女のその叫び声、すごくそそります。
僕だけを求め、僕だけの名前を呼び、僕だけを愛してくれる。名前さんは僕にとって、理想そのものだ。僕が昔から、喉から手が出るほど欲しかったもの。それが、名前さんです。
「愛してますよ、名前さん」
「ああっ…颯斗!…颯斗、颯斗!私も、私も愛してる!!」
僕を押し倒すようにして抱きついてきた彼女の後頭部を掴み、貪るようなキスをする。そうすれば、彼女は必死に応えてくれる。まるで、打ち上げられた魚が水を欲しがるかのように。
これでまた、名前さんは僕から離れることができなくなった。どんどん、どんどん、僕に依存していく。それが、僕にとってたまらなく快感だった。
さて、ここで問題です。賢いあなたなら、もう分かっていると思います。
なぜ、小鳥は巣から落ちていたのでしょう?
答えが分かっても、名前さんに教えてはいけませんよ?もし、彼女に本当のことを教えようとするならば、たとえあなたであっても、僕は殺してしまうかもしれませんから。
約束ですよ?
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13/12/10