「そうですか・・・」
「うむ。・・・力になれんで、すまぬ」
「いいえ、翁。あなたには十分お世話になりました。これ以上を望んでは罰が当たるというもの」
言葉を聞いても緩やかに笑うアヤメを見やり、うちはの翁はしわくちゃの顔を悲しげに歪めた。
翁にとってうちはの若者は皆、翁の子供のように慈しんできた。その中でも忘れられないのが、アヤメの母にあたる女性のことだった。
彼女もとても美しい女性だった。色白で、大きな目は優しげに垂れ気味で、控えめな桜色の唇が奏でる声は楽器のようでもあった。当時のうちはの女衆の中でも片手に数えられるほどの美貌の持ち主で、アヤメは母である彼女の血を良く受け継いでいるようだった。しかしその良く受け継いだ血の中に、彼女の身を蝕んだ病と同じものが受け継がれてしまっているとは、翁にも想像だにしていなかったことだった。
その夫だったアヤメの父と子供たちは、彼女の死に至る病を受け入れた。受け入れるまでに相当な苦しみや悲しみがあったはずだが、しかし彼らはそれを他の誰にも見せることなく、そうして彼女は病でこの世を去り、彼もやがて戦で殉死した。
ある時、彼女にいつかこう言ったことがあった。
『私の力不足で、そなたを救うことができず、申し訳ない』
『いいえ、先生。私はあなたに感謝しかありません。申し訳ないだなんて、そんなこと思わないでくださいな』
技術さえあれば、その命は助かったかもしれない。そうすれば彼女は早い命を散らすこともなかったはずだし、彼女から愛する家族を奪うこともなかったはずだと。
たまらずそう言った翁に、当時の彼女は、形容しがたいほどに美しい笑みを浮かべて見せた。
『何をおっしゃいます。私に家族を与えてくれたのは他でもない、先生ではありませんか。先生のおかげで私はあの人との子供を二人も産むことができました。愛しい家族とも、こんなに一緒に過ごすことができました。すべては先生がいてくれたおかげです』
そう言った、彼女を思い出した。
あの時の彼女とは違って、アヤメはこれからを生きていくことができる。変化した時代がアヤメの命を救う術をもたらしたのだ。アヤメは明日を生きることができる。
もちろん明日だけではない、明後日も、一ヵ月先も、半年先も、来年も、その寿命が尽きるまで生きることができる。アヤメは自身の愛する人の側で共に生き、共に老い、そして共に死にゆくまで。
彼らはたった二人で、共に生きることができるようになったのだ。
***
病が快癒してからというもの、アヤメはこれまでの遅れを取り戻すように仕事に励み、その姿に刺激されたかのように扉間もまたよく仕事に励んだ。そのおかげか、二人の大きな仕事の一つだった学び舎が早々に開設された。
多くの氏族の子供たちが学び舎へ通い、一人前の忍となるべく日々励み、選ばれた教師たちは良く子供たちを指導し、アヤメもまたその一員として日々を務めていた。
「アヤメ先生、さようならー!」
「はい、さようなら。気を付けて帰るのよ」
今日も今日とて彼女が預かる子供たちへの指導が終わり、元気よく挨拶をして駆けていく子供を見送ったアヤメを呼び止める声があった。そちらへと顔を向けたアヤメは、そこに立っていた人物に驚いたように僅かに目を見張った。
「マダラ」
「今日の務めはこれで終わりか?」
「ええ、でもまだ明日の資料をまとめないと」
「待っていても?」
「うん、いいよ」
子供たちが帰って人気のない廊下をマダラと並んで歩いて職員室へと向かう。職員室にはもう数名程度の教師たちしか残っておらず、彼らはアヤメを見とめると一様にお疲れ様ですと声をかけた。アヤメも彼らに同じ言葉を返して、自身の机へと戻った。
職員室へは入らずに、引き戸の向かいの壁に寄りかかってマダラはアヤメを待った。その間にも帰宅するべく引き戸をくぐった他の教師たちが、里の指導者のうちの一人であるマダラの存在に驚いたように足を止め、小さく頭を下げて去っていく。
それを何人か見送ってしばらくしたところで、引き戸からようやく待ちかねた人物が姿を現した。
「お待たせ」
「いや、かまわんさ」
学び舎を出て、うちはの居住区のある方向へ並び立って歩くなか、今日の出来事を楽し気に話すアヤメの言葉にマダラは頷きながら耳を傾ける。ぽつりぽつりとマダラも言葉を返しながら、うちはの夫婦はのんびりと家路を辿る。
「あっ、アヤメせんせー!」
その最中、子供が一人アヤメの名前を呼びながらこちらへと駆け寄ってくる。無邪気な笑顔を浮かべたその少年は大きく手を振り、アヤメの側まで来ると足を止めた。子供特有の輝く目で少年はアヤメを見上げた。
「先生は今から帰るの?」
「ええ、そうよ。きみはおつかい?」
「ううん、母さんと一緒。買い物の荷物持ちなんだー」
「そう、偉いのね」
少年と視線を合わせるように腰を折って、アヤメは少年の頭を優しく撫でてやる。すると、アヤメに褒められたことに満更じゃないというような様子で笑みを浮かべた少年のかわいらしさに、アヤメもまた小さく笑みを浮かべた。と、アヤメの隣でかすかな衣擦れの音と共に同じように腰を折った人物に少年はようやく気付き、そしてその人物を見上げて固まったように動きを止めた。
「アヤメの生徒か」
低い声で紡がれたその言葉は少年に向けられたもののようで、しかし違う。アヤメはマダラへと顔を向けて頷いてみせると、うちはマダラの存在に息も忘れてしまったかのように動きを止めてしまった少年に今度は苦笑を浮かべた。
少年がこうなってしまうのも無理はない。うちはマダラは里の最高指導者であり、今や忍の神とも謳われている千手柱間の唯一無二の友であり、柱間と同等の力を有している忍なのだ。学び舎での座学で学ぶ雲の上の人物が今まさに目の前に存在しているのだと認識すれば、こうなってしまうのも仕方のないことだろう。
しかしそれを少年が自身を恐れてのことだろうと思ったマダラは、アヤメの頷きを横目で見てすぐに少年から目を離し、距離を取るように一歩下がる。
「・・・オレは離れていよう」
そう言ったマダラに、アヤメが返事をしようとしたよりも早く、口を開いたのは意外にも少年の方であった。
「マ、マダラ様!」
離れようとしたマダラを力強く呼び止める少年の声に驚いたように顔を向けたマダラの目に映ったのは、どうしてだか頬をほんのりと赤めた少年の目が真っ直ぐに自身を見上げている姿で。
「・・・どうした」
一歩下がった足を再びアヤメの隣に並べ、先ほどと同じように腰を折って少年と目線を合わせたマダラに、少年は固まっていた時とはうって変わって口元をもごもごとさせながらマダラを見つめ続ける。それからややあって、少年は意を決したように一呼吸をして口を開いた。
「あ、あの、おれ・・・一族の子供の中で一番、火遁が得意なんです。うちはの、特にマダラ様の火遁はとても強く、素晴らしいのだと聞いています。おれ、まだまだですけど、いつかマダラ様のような火遁使いの忍になりたいと思ってます・・・!」
きらきらと、憧れを宿した目がマダラを見上げ、そして興奮したような声色がマダラの耳に届く。それに他の人には分からないほどの小さな変化で目元を和らげたマダラが少年を見た。
「そうか、ならばオレもお前たちに恥じぬ忍であらねばならんな。・・・アヤメは良き師だ。よく励めよ」
「はい、マダラ様!」
至極柔らかな手つきでマダラが少年の頭を撫でてやれば、少年は照れたように、そして嬉しそうな笑みを浮かべて見せた。
そんな反応はマダラにとっては新鮮なものだった。これまでマダラは自身が人々にとって恐怖の対象で、まさしく死を具現化したような存在だと認識されていたのを自覚していた。しかしそれも気付かぬうちに変化しようとしているのかもしれない。
買い物を終えた母親らしき女性が少年を見つけて駆け寄ってくるのを、アヤメが笑みを浮かべているのを横目に見てから、マダラもまたその女性を見やった。
自分の子供がアヤメの教え子ということは知っていたのだろうが、まさか買い物の最中に少し目を離した隙に教師であるアヤメに、そしてさらにはその夫君であり里の指導者の一人であるマダラと共にいようとは思いもよらなかったのだろう。目を白黒させながらマダラたちへ会釈をした女性は、どこか窺うような視線を二人へと向けた。
「あの、うちの子が何か粗相をしませんでしたか?」
「とんでもない、私たちを見つけて挨拶に来てくれただけですよ」
「ああ」
アヤメと、言葉少なではあるが何もなかったと返した二人へと、母親は良かったと言わんばかりに大きく息を吐き出した。それから自身の息子である少年をちらりと見てから、母親は小さな笑みを浮かべる。
「うちの子ったら、学び舎がとても好きなようでして。特に、アヤメ様の授業が楽しいと毎日言っているんです」
「まあ、それはとても嬉しい」
「それにこの子、マダラ様のことを学び舎で教わってから、その、マダラ様のことをとても尊敬しているようでして・・・マダラ様とお会いできて、今日はこの子にとって良い日になりました」
「そうか・・・」
「ああ、ついついお話してしまってすみません。お二人もお帰りの途中ですよね。私たちはこれで失礼します」
それでは、と頭を下げる母親とは違い、元気よく手を振ってから母親について行く少年を二人は見送って、二人はようやく再び家路を辿る足を動かし始めた。
アヤメの歩幅に自身のそれも合わせながら、マダラはぼんやりと目の前に広がる風景に目を向けた。
あの戦いばかりだった日々から、もう随分と時が過ぎたものだ。戦禍の痕が多く残っていた人々の心も少しずつ癒え、憎しみしか生み出さなかった人間関係が正常な絆を結び始めている。血反吐を吐き、呪詛を吐き、命を奪い奪われるばかりの毎日は、もうとうに過去のものとなろうとしている。
ああ、と息を吐き出したマダラに気付き、アヤメがその美しい宵色の目を夕日に輝かせながら顔を上げた。
「マダラ、どうかしたの」
「・・・いいや」
そう返したマダラの表情が、ひどく安らかなものだったのを見たのはアヤメだけであった。
***
リリリ、と虫が小さく奏でる音がする。
マダラとアヤメの居の庭には、かつてのうちはの集落にあった家から運んできた木々や、アヤメが新しく世話し始めた花々が色づいていた。
春も終わろうとしているこの季節、何もせずに縁側で庭を眺めながら晩酌をしているだけでもじんわりと汗ばんでくる。こんな時分には良く冷やした清酒が良く合う。
普段なら忍という生業の関係上、マダラは酒を嗜むことはない。火急の報せとして、この里の防衛を担っているマダラが呼び出される可能性だって十二分にあるからだ。しかし今日は少しくらい良いだろうと珍しく強く促してきたアヤメに負けて、マダラは杯を傾けていた。
おそらく、アヤメは今日のマダラの胸中が複雑に揺らめいていることに気付いている。夕方、二人で帰る途中に出会った忍を目指す少年。その言葉がこれまでのマダラ自身の認識と大きくずれ、その差に戸惑っているのだと気付き、もやもやと纏まらないマダラを慮り、非日常的な状況でゆっくりと思考できるようにと、そう考えてのことだろうとマダラは妻の配慮にも気付いていた。
あの少年はマダラに憧れていると言った。誰もに、それこそ自分の守るべき同族からも疎まれ、恐怖されたこのマダラを尊敬しているとまで言ったのだ。
どこで、いつ、そのように思われるようになったのか。
マダラは自身をいつまでたっても変わらぬ、死と恐怖の象徴だと認識している。共に里を興した柱間は生命と光の象徴で、その存在に誰もが希望を見出した。しかし、その対極に存在するような自身は表に立つにはあまりに不相応で、だから里長になるつもりも無かったし、その代わりにこの存在が里の守りに役立つのであればと守護の長となった。
今でも必要であれば、マダラは自身の牙を揮うことに躊躇いはない。この里を脅かすのであれば、そしてマダラにとって唯一であるアヤメを脅かすのであれば、マダラは即座に地獄の業火で全てを焼き払ってやるつもりである。降りかかる火の粉は全て振り払わなければならない。そのために行使される力は必要だと認識しているし、しかしその力の使いどころを決して間違ってはいけないのだともマダラは知っている。
と、思考の海に潜っていたマダラの意識を、側で聞こえた衣擦れの音が浮上させる。目を向けるといつかのように、酒の置かれた盆を挟んだところに腰を下ろし、マダラと同じように庭へと目を向けているアヤメがいて。彼女が手にしてした杯にはなみなみと清酒が注がれており、それをアヤメは一息に呷る。ほう、と小さな息をついてから、アヤメは穏やかに微笑みを唇に浮かべる。
「少しは、気は晴れた?」
その視線は未だ庭へと向けられているのに倣って、マダラもまた庭の色彩へと再び視線を投げた。
「・・・いつから、ああいうようになったのか知ってるのか」
「そうね・・・多分、扉間のせいかもしれないわ」
「扉間だと?」
マダラに憧れていると、尊敬していると言い出したその理由を問えば、聞こえてきた予想外の名前にマダラの声が怪訝そうな音を乗せる。見ていなくとも、マダラがその声通りに怪訝そうに眉を顰めている表情が簡単に想像できたアヤメは小さく笑みをこぼしながら、月明かりに照らされている花々を見た。
「学び舎で、先の戦について講習することが何度かあったの。私や扉間、他の一族の教師たちが主観を加えずに、できるだけ事実を伝えられるようにしながら、何度かに分けて話したの。その中で、私たちうちはと、千手の話は忍の成り立ちにも関わってくるから、私と扉間がより多く話す機会があったわ」
マダラやアヤメからすればそう遠くはない先の戦。奪い、奪われるばかりの日々。血反吐を吐き、呪詛を吐き出すばかりだった陰鬱な時代。戦う理由なんて、あるようで無かったあの時代。ただ生きるため、奪われないためにも戦うしかなかった終わり無い地獄の時代。
そんな残酷な時代を終わらしたのが、他でもないマダラと柱間であったのだ。
うちはと千手というだけでも祖先から続く因縁により争い続け、それぞれの族長であった二人も多くをそれぞれによって奪われている。しかしそれでも絆を捨てなかったのは柱間で、愛を捨てなかったのはマダラだった。
絆を望んだ柱間は幼い頃のマダラの言葉を信じ、時には自身の一族から愚かだと言われたこともあった。失望したと言われたこともあった。それでも柱間はマダラとの絆を、二人で描いた未来を捨てなかったのだ。
愛を抱いたマダラは自身の一族の皆の愛を守ろうとした。すべての喪失と悲しみを背負い、愛するが故に絆に背いた。そのせいで戦が長引いたと、戦を好む鬼だと自身の一族に背かれたこともあったが、それでもマダラは全てを受け入れ、背負い、愛を捨てなかった。
二人の向かっていた先は本来同じものであったのに、それぞれが捨てられなかったものが二人を引き裂き、しかしそれらを捨てなかったからこそこの平和がある。
それを説いたのは他でもない扉間であった。
その中で、扉間は今や忍の神とも戦神とも呼ばれている兄の柱間ではなく、マダラの戦法や忍術を多く評価した。あの忍術を扱うことのできる忍は他の火遁に優れた一族でも届かぬ境地であろうと。そしてマダラの強さは、すべてを守ろうとして愛からになるものなのだと。ゆえに本来のマダラは死と恐怖の象徴なのではなく、慈しみと愛を体現した男なのだとも、そう言ったのだ。
それをアヤメから聞いたマダラは、なんとも言えない面映ゆさに顔を顰めた。果たして、あの仏頂面の扉間はどんな顔をして愛だの何だのと子供相手に言ったのだろうか。
そんなマダラの様子を自身の杯に酒を満たしながら見たアヤメは声をこぼして笑った。
「その話をして以来、子供たちの中では柱間殿とマダラがまるで英雄のような扱いよ。あの子供のように、火遁を得意にしている子供たちはマダラのような忍になりたいと言い出すし、うちはの子供はマダラに慈しんでもらえるうちはに生まれて良かったなんて言うしね」
ふふ、と笑ったアヤメは杯に映る月を見つめた。ゆらゆらと揺らめく月は美しく、優しくあるばかりで。そんな月を飲み干すように、再び杯を傾けた時だった。
「時代は変わるのだな」
胸中に浮かぶあの戦の日々と、今日改めて見つめた町に生きる人々の営み。怒号や呪詛ではなく、笑い声が響く日々。涙ではなく笑顔に満ちた人々。
それらすべてを詰め込んだような一言をマダラはぽつりとこぼした。そこに込められた万感の思いはきっとアヤメにも届いたのだろう。ただひたすらに穏やかに、柔らかな微笑みを浮かべたアヤメはじっと庭先を見つめている。その視線の先にあるのは、あの梔子だろうか。
アヤメの生家から、マダラとの家に移され、そしてこの里の家に移されたその木は、今も変わらず梔子の美しい花を咲かせている。アヤメの母が愛し、そしてアヤメも愛するその可憐な花は、まさにアヤメを象徴した花であった。
穏やかに、緩やかに流れる時間の中で、しばらく二人は静かに並んで庭を見ていた。風が吹き、木の葉や花が揺れて奏でる音、虫の音、香る梔子の花。それら全てを全身で感じていたマダラの耳に、自身を呼ぶアヤメの声が届いた。
「・・・ねえ、マダラ」
「どうした、アヤメ」
「これからも、ずっと二人でいましょう」
どこか物悲し気に、しかし緩やかに笑みを浮かべた愛しい女の言葉に込められた意味にマダラが気付かぬはずもない。
マダラは彼女のその言葉に特に大して驚いた様子も見せず、二人の間にあった盆に手の中にあった杯を置き、同じようにアヤメの手の中にあった杯も置く。そうしてからその盆を手で押しやって、マダラは妻の隣に身を寄せると、至極優しくアヤメの頬に手を当てると、親指で彼女の特徴的な左目尻の二つ並んだ黒子をなぞるように動かす。くすぐったそうに目を細めた彼女に笑いながら、マダラは彼女の左目尻に口づけてから、自分よりも随分と華奢な愛しい女を抱きしめた。
「オレは、アヤメがいてくれればそれでいい。もうそれだけで十分だ」
「・・・うん、ごめんね」
「謝ることはない。他でもない、お前がいるんだ」
「ありがとう、マダラ」
「ああ、アヤメ、二人で生きていこう」
「うん」
ほんの少し前にはアヤメすら失いそうになったのだ。これ以上は望むまいよ、というのはマダラの本心だった。
昔からマダラの望みは変わらない。
うちはアヤメが自身の側で生きていればいい。マダラの愛に満ち、マダラもアヤメの愛に満ち、そうして毎日を生きていければそれでいいのだ。何も知らぬかつては子供も欲しかったが、一度アヤメ自身を失いかけたマダラにとって、アヤメ以上に望むものは今後現れはしないだろう。
今でもマダラの身の内には鬼が潜んでいる。光の届かぬ深淵の底から、マダラが再び落ちてくるのを今か今かと待ち構えている。かつてはその闇に身を委ねかけたこともあった。深い悲しみと絶望は、マダラの器にもう十二分に満たされて、もうこれ以上受け入れることなどできない。溢れかえった悲しみと絶望はマダラを鬼にし、そうなればもうマダラは人には戻れない。
しかしその悲しみと絶望を、アヤメが共に受け止めてくれる。怒りも、呪詛も、涙も、アヤメが受け止めて、共に背負ってくれる。
うちはマダラは、うちはアヤメがいれば人でいられるのだ。うちはマダラとして生きていけるのだ。
***
その後、柱間などの自身たちと同じ時代に戦って生きてきた忍たちの子供が生まれるたび、うちはの族長夫婦は自分のことのように喜び、祝った。
彼らは立派に里を守護し、発展させ、見守り、導き、そして。
これまで身を、命を削って愛を分け与えてきたアヤメが先に旅立つと、マダラはかつての恐慌など無かったかのように葬儀を取り仕切った。二人で納得した終わりに、マダラは真っ直ぐにその終わりを受け入れ、愛した女の去った世界も変わらずに愛し続けた。
そして、アヤメのことが落ち着いてから幾年後、マダラは誰にも悟られずに静かにアヤメのもとへと旅立った。
彼を見つけたのは、アヤメの月命日に墓参りに足を運んだカガミであった。マダラの葬儀はうちは主催で執り行われ、その喪主には異例であったが柱間が選ばれた。葬儀の後、マダラの最期を終生の友として知りたがった柱間へと、カガミは穏やかに笑ってこう言った。
「とても、幸せそうでしたよ」
その日、マダラは朝早くアヤメの墓へ向かったのだという。それからマダラを里で見かけたものはいないので、そのままマダラは最愛の妻のもとへ旅立ったのだろう。アヤメ以外の誰も見たことがないような穏やかな表情を浮かべて、マダラはアヤメの墓前に座っていた。アヤメが愛し続けた、梔子の花を用意して飾り、アヤメの香りに包まれて旅立ったのだと、そうカガミは言った。
アヤメはマダラが望んで、かつてのうちはの集落から近い山中にある桜の近くに墓が築かれた。そこにマダラも共に葬られた。
まさしくうちはの愛を体現した夫婦は、死してなお共にあり続けるのだ。
愛を紡いで逝きましょう
2020/07/29
(2020/10/25)