息をしてみたらあなたで肺が満たされた


 朝、目覚めたマダラはまず真っ先に、隣で眠っているアヤメの様子を見るようにしている。それは、彼女の目の包帯も取れて久しいが、未だに闘病を続けるその身を案じてのことであり、千手の治療によってアヤメの病に終息が見えてきたとは言え、未だマダラの心中に巣食う不安は掻き消えることはない。
 なにせ、つい数ヶ月前まで他でもないアヤメ自身が、マダラから彼女を奪おうとしていたのだから。
 その事実を扉間からも聞かされた当時のマダラの焦燥と恐怖は、未だにこの胸中で燻り続けるほどに巨大で根深いものだった。


「・・・」


 健やかに、いつもと変わりなく寝息を立てているアヤメの様子に、誰とも知れずに顔を緩ませたマダラは、そのまま音もなく寝床から起き上がった。
 洗面所へ行って顔を洗い、身支度を整えていると、マダラとアヤメの住まうこの屋敷に他の人物の気配が入る。しかしそれは警戒するに及ばない、マダラもアヤメも見知った人物の気配であるので、何も気にした風も無くマダラは身支度を整える事を優先する。
 そうして身支度を整えたマダラは、第三者の気配のする厨の方へとその足で向かった。


「マダラ様、おはようございます」
「・・・おう。朝から悪いな」
「いえ」


 厨にて屋敷の主人たるマダラを出迎えたのは、かつてはマダラの父のタジマ率いる部隊長を経験し、そしてその後にはマダラ隊の纏め役として戦場を駆け抜けたその男であった。
 男は厨に姿を現したマダラに微笑んで一礼してから、慣れた様子で料理を進める。その男はアヤメが闘病のために床に臥せってからというもの、屋敷を一人で切り盛りしていたアヤメの代わりにこの屋敷を取り仕切っているのだ。男は齢五十もさしかかろうとする男で、幼少の頃から知る彼はマダラにとっては父にも代わる存在であった。事実、まだ子供と青年の境で父を失ったマダラやイズナを遠く支えていたのはこの男であり、またマダラとイズナとアヤメが三人でお互いを支え合っていたのを最も近くで見守ってきたのもこの男だった。
 男は未だに厨にて己の背を見つめるマダラの視線を感じつつも、まるで流れるような手つきで朝餉の準備を進めて行く。その手つきは何でもないように手慣れたもので、そういえばこの男は不慮の事故で奥方を失って久しいのだったと思い返した。
 そうして、一刻ばかりが過ぎた頃だろうか。
 料理もひと段落した男は料理の手を止めて、くるりとマダラへと振り返った。


「マダラ様」
「なんだ?」
「そろそろアヤメ様を起こしてください」
「ああ、もうそんな時間か」


 男の言葉に、寝ぼけていたわけでは無いが呆けていたらしいマダラは、意識を覚醒させるかのように数度瞬きを繰り返す。そんなマダラの姿に、幼き日のマダラの姿を重ねてしまって緩む頬を隠しもしない男は再びその名を呼びかける。すると黒曜石のようなマダラの目がこちらを見たことに、男は更に笑みを深める。


「昨日翁が言っておりましたが。アヤメ様のご様子が良いようでしたら、そろそろ湯治などに出掛けられるのも良いだろうとのことですよ」
「湯治か・・・」
「ええ。アヤメ様の目ももう良くなられたことですし、毎日臥せってばかりではアヤメ様も退屈なことでしょう」


 元来、アヤメとは働き者の気質である。のんびりとではあるがアヤメは休めと言われても動き続け、一つのところに留まっているような性格ではないのだ。木の葉の里が成ってからは殊更のこと、アヤメは里のため、うちはのために動く事を惜しみはしなかった。おそらく、その裏には病によっていずれ死んでしまうからこそ動き続けるとのアヤメの思いもあったのだろうが。しかしそれを抜きにしても、アヤメは何かと動くことを好む性格の女であった。
 いつだったか、日中仕事で屋敷を空けるマダラの代わりに、男がアヤメの食事や薬の世話をしている時に、アヤメがポツリと男に零したのだ。
 曰く、マダラに甲斐甲斐しく世話をしてもらうのも嬉しいのだけれど、毎日こんなの休んでばかりではそろそろつまらなくなってきた、と。その時は男はただ苦笑することしかできなかった。しかし昨晩、診療後に翁より不在のマダラに伝えて欲しいと頼まれた言伝。それがアヤメの外出を許可する内容であったことに、男もまた心より喜ばしいと感じたのだ。
 我が主であるマダラが慈しむものは、この男にとっても慈しむべき対象である。男もまた、うちはアヤメという女をマダラとは違った形で慕っていた。
 か弱き女の身でありながら、男どもと肩を並べて前線に立ち、多くの敵を屠ってきた類稀なるうちはの瞳術の使い手。そして孤高であるうちはマダラを支え、マダラを誰よりも最も深く理解する女。
 そんな彼女が己の命を諦めていたと知らされた時には、まるでこの世の終わりかのようにゾッとしたものであった。マダラの近くに控えることを許されていた者のみが知っているマダラの心の鬼。喪失を欠如に膨らみ成長したその鬼は、弟君であるイズナの死によってどうしようもなく大きくなり、それを抑えてマダラを人らしくたらしめ、そしてうちはの族長たらしめていたのが、何を隠そうアヤメであるということは男たち側近の中では周知の事実であったのだから。
 マダラの心の鬼の枷を担っていたアヤメを喪ってしまえば、その鬼はアヤメの喪失すらをも喰らって大きくなり、やがてマダラ自身を深淵の闇に引きずり込んでいた事だろう。闇に呑み込まれたマダラは最早うちはの族長でもなく、人ですら無かっただろう。あの千手柱間でさえ、そうなってしまったマダラを此の世に留めることは叶わないはずだ。


「・・・アヤメの様子が良ければ、昼から湯治に出るかもしれん」
「ええ、かしこまりました」


 どこか穏やかな色を含んでそう告げた主人の姿に、男は緩く笑って一つ頷く。
 ああ。やはりうちはマダラを、うちはマダラたらしめることのできる人物は此の世にたった一人のみであるのだと。己たちではマダラの武器たる刃になることはできても、うちはマダラという刃を納める鞘にはなり得ないのだと。
 まるで春の木漏れ日のような微笑みを浮かべる彼女の姿を思い浮かべ、男は緩く笑みを浮かべた。

***

 マダラが室に戻った時、アヤメは既に起き上がっていた。自分で開けたのであろう窓の外をぼんやりと眺めていたらしいアヤメであったが、マダラが室に戻ってきたのを知って上体を捻って振り返った。


「おはよう、マダラ」
「ああ、おはよう」


 緩く笑う彼女の頬には健康そうな赤みが差し込んでおり、どういう原理かは分からないが移植した後も今までと同じように宵色に輝く彼女の目は美しく煌めいている。そんなアヤメの姿にマダラは僅かに目を細めて、その場にて彼女を見つめた。
 それも束の間、マダラはアヤメの側へと腰を下ろして、今度はその位置からアヤメをじっと見つめた。まるで何か探るようにこちらを見るマダラの視線に、不思議そうにアヤメは首を傾げて見せてから、そうしてその口で夫の名を呼ぶ。


「なあに、マダラ」
「・・・アヤメ、今日の調子はどうだ?」
「そうね、とっても良いわ。良すぎて、臥せってばかりの毎日が退屈で仕方がないくらいには元気よ」


 千手の薬が良かったのか、アヤメの容態はみるみるうちに快方へと向かって行っていた。病もだいぶ良くなっており、アヤメの目も何の障りもなく機能している。まるで病もなかった頃の幼い頃のように、体は軽やかである。そんなものだから、アヤメは未だに臥せってばかりの毎日に飽き飽きとしていたのだ。
 だからちょっとくらい、臥せる毎日にばかりに嫌味を言ったとしても罰は当たらなだろう。と、アヤメは穏やかな笑みを浮かべながらさらりと嫌味を放つ。それにマダラが気付かないはずもなく、いつもであれば目を吊り上げて、どれほどお前の身を案じているのかと述べ始めるのがマダラの常であったのだが、どうも今日は様子が違っていた。
 マダラは目を吊り上げるようなこともなく、ただ黙って、窺うような目付きでじっとこちらを見てくるばかりで。やがて何か満足いったのか、マダラはその眼光を緩めて、いつものような柔らかな表情を浮かべた。


「本当のようだな」
「もう、あなたに嘘は言わないわ」
「ああ、そうだな」


 苦笑するマダラに、アヤメもまた苦笑を浮かべた。
 アヤメに前科があるせいで、マダラはこれまで以上にアヤメに対して過保護になってしまってる。あの時の壮絶な喧嘩を経てからというもの、アヤメは自身の調子についてマダラに偽ることはしていないのだが、未だ疑ってしまうマダラの心情も仕方ないだろうとアヤメは理解している。また、マダラがアヤメを信じてくれるようになるまで、何も言うまでもなくただ待つのみ。それで良いのだと、アヤメは思っている。
 緩く笑みを浮かべたマダラはすっと手を伸ばし、布団の上に乗せられていたアヤメの手をそっと握る。その手付きは、かつて彼女の手首を砕いた時とはうって変わった優しいもので。
 どうしたのかと首を傾げるアヤメを見やって、マダラは笑みを含んだ唇を動かした。


「アヤメ、昼からだが共に湯治にでも行かないか」
「え?わたし、もう外出してもいいの?」
「ああ、翁からの許可も出ている。・・・行くか?」


 穏やかで温かなマダラの声にアヤメはゆるゆると朗らかな笑みを浮かべて、こくりと頷く。


「もちろん」


 是と答えたアヤメに、当たり前だろうと言わんばかりの満足げな表情をして見せたマダラは、ではまず片付けなければならない問題がある、とマダラは室から望む庭へと降りた。そこで親指を噛んで地面にその手をつくと、小さく上がった白い煙。
 煙の向こうからばさりと羽ばたく翼の音が聞こえたかと思えば、その煙の中から影がマダラの肩へと飛び乗った。キーと小さく鳴いて、丸い目できょろきょろと見渡すそれは、マダラの契約する口寄せの鷹の中でも小柄な鷹だった。主に、伝令のために使われるその鷹を呼び出したことに、アヤメは不思議そうにマダラを見つめる。そんなアヤメの視線も気にせず、懐紙に何かを書き留めて、それを鷹の足に括り付けたかと思うと、何事かを伝えてマダラはその鷹を大空へと放った。
 小さくなる鷹の姿を、縁側に出てきて見ていたアヤメの隣に座ったマダラは、笑みを浮かべてアヤメの思っているだろう疑問に答えるべく口を開いた。


「柱間に連絡しといた。これで今日は一日、オレの仕事は全部あいつに回るだろう」
「・・・いいの?」
「いつもオレが何かとあいつの尻拭いしてやってんだ。たまには良いだろうよ」
「ふふ、うん、そっか」


 まるで子供のような笑みを浮かべるマダラに、アヤメは何も言うまでもなく同じように笑う。後でマダラに知られないようにこっそりと扉間に言伝を届けようと、アヤメは考えながらも、昼からの湯治に心が弾むのを隠すことはできなかった。
 少しして。
 千手の屋敷に届いたアヤメの口寄せである忍猫のよってもたらされた知らせに、扉間は盛大な溜め息を吐きながらも、アヤメが復帰した暁には容赦なく仕事を振ってやろうと考える。しかしそれをマダラが知れば、見た目によらず愛妻家であるあの男のことだ。何かしら文句を言ってくるだろうことは予想できるが、今回のことの借りを返してもらうとでも言えば、さしものあの男も口を噤むだろう。
 ああ、それにしても。アヤメは湯治に出られるほど良くなったのか。
 うちはの美しい花を思い浮かべて、扉間はその唇に薄い笑みを浮かべた。

2018/03/17
(2020/06/22)
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