深海魚は踊らない


 けほ、と。喉を乾いた咳が走る。
 それを皮切りにしたように噎せ上がる咳に、体を小さく丸め込むようにしてしゃがみこんだ。尚も止まらない咳に忙しなく胸は上下し、まともな呼吸すらもままならない。込み上がってくるものを我慢することすらも出来ずに、咳をどうにか抑えようと口に当てた手にそれは零れ落ちる。
 回数を重ねる度に、それを吐く量も増えてきた。咳もすぐに止まらなくなってきた。薬を飲んでも、大した薬効を得られることもなく、ただ僅かにその進行が遅くなるのみだという。
 ひゅうひゅうと耳障りな呼吸音と共に、ようやく咳が治ってゆく。口の端に未だ溢れる赤を指先で拭い取り、丸めていた体をようやく起こして眼前に立つ墓石を見つめる。


「まだ、そっちには行けないの」


 もうしばらく、そっちで待っていてほしい。
 今は亡き愛しい家族の笑顔を、瞼の裏にひっそりと思い浮かべた。

***

 らしくもない険しい表情をした男と、平常通りの難しい顔をした似ていない兄弟を前に、アヤメは瞬きを一つ。


「わたしを、ですか」
「ああ、そうだ。向こう側はお前を名指ししてきている。断るのは簡単だが、そうなると外交に影響が及ぶことにもなる」
「扉間。そういう言い方はよさぬか。アヤメ、この件にはお前が否と言うのであれば、オレはそれでも良いと思っておる。扉間はこう言うが、外交に及ぶ影響などたかが知れておる」
「兄者!何を言う!」


 アヤメに断るなと言葉少なに詰める扉間に対して、断っても良いのだと言い放つ柱間。そんな兄の言葉に眉間に皺を刻み込んで滅多なことを言うなと扉間が不快感を露わにしているのを、アヤメはその両目で見つめていた。
 事の発端はこうである。
 とある国の大名がうちはと千手が手を組み合い出来た木の葉の里に支援を行いたいと話を持ちかけてきた。その大名というのがあまり良い噂の無い曲者大名で、金にものを言わせて、とある忍一族私兵として抱え込んでいるというキナ臭い噂のある人物であった。そんな良くない噂の絶えない大名であるが、しかし創設してからまだまだ日も浅く、資金繰りにも苦労している里を支援してくれるのならば、諸手を挙げてとは言えなくともありがたい話でもあった。金だけはあるらしいその大名は、自身の出す条件さえ木の葉が受け入れれば木の葉への支援は限りなく惜しむことはないとさえ言うものだから、その大名の真意に注意しながらよくよくその条件というものを聞き出した。
 その条件というのが、うちはの女鬼と謳われ、うちは随一の美貌とも名高いうちはアヤメを木の葉までの護衛として派遣しろとのことであった。
 大名が住まうのは木の葉より忍が三日間丸々移動し続けて到着できる場所に居を構えている。そこまでアヤメを派遣させ、そしてその大名が木の葉に到着するまでの道中を護衛しろというのが条件である。
 実はこの大名、先に述べたキナ臭い噂以外にももう一つ良くない噂のある人物である。そのもう一つの噂というのが、金にものを言わせて女共を献上させ、その女共を甚振るのが趣味だという。
 その噂の真偽がどうであれ、そんな危険人物の側へと友の妻であるアヤメを行かせたくはないというのが柱間の本心であり、さらにもしも万が一友に知られてしまった時を危惧しているのだ。
 うちはアヤメの夫が、うちは一族の死の象徴たるうちはマダラであるということを知る者は、うちは一族以外の者たちでは未だ数少ない。アヤメとマダラがそれを故意に隠しているというわけでも無いが、二人はもう随分と前に祝言を挙げているものだから、最近里をあげて祝言を挙げた柱間のように大々的にその事実を知らしめる方法も無く、また外では淡白らしい二人は夫婦らしい雰囲気というものを全く醸し出さない。そのせいで多くの者がマダラとアヤメはそれぞれ独り身で、うちは族長たるマダラに縁談を申し込もうとする猛者や、火の国の大名や多くの一族の男からアヤメをという声も数多くあがり続けているのだ。
 今回の話も、アヤメが独り身であるとその大名が思っての指名であろうことは簡単に推測できた。何故なら、普通の感覚を持っている男であれば千手柱間のみが渡り合うことのできるうちはの鬼神をわざわざ敵に回すようなことはしない。アヤメはマダラの妻だと知った者は全員その手を即座に下ろすのだから。
 断ってくれという本心を見え隠れさせながらアヤメを仰ぎ見る柱間と、相変わらず険しい表情をして兄の向こうからこちらを見据えている扉間とを順番に見やってから、アヤメはようやくその口を開いた。


「扉間、その大名からはわたしのみという指定は無いのね?」
「ああ、そういった指定はないな」
「ならば、その大名からの依頼、このうちはアヤメが受けましょう」
「アヤメ!?何を言うんぞ!」


 扉間からの返答を聞いたアヤメは、いつもと変わらぬ緩やかな笑みを浮かべて柱間が断っても良いのだと言いのけていた依頼を受けるとはっきりと答えたのだ。それを聞いた柱間は慌てたように大声でアヤメの名を呼びながら、盛大な音をたてて椅子を転がしながら立ち上がる。机の上にバンッと両手をついて僅かに身を乗り出しながら、何を言っているのだとアヤメに詰め寄った。


「かの大名の噂はアヤメも聞いておるだろう!あの者がなぜそなたを指名したか、その真意が分からぬアヤメではないだろう!?」


 アヤメを大名が指名した真意とは。
 言ってしまえば、あのうちはの男共が何としても隠し続けていた美しきうちはの女を陵辱したいというものだ。
 それにまさかアヤメが気付いていないわけもないだろうと、気付いているのならば何故この依頼を受けるのかと柱間は声を荒立てている。そんな柱間の気迫に恐れる様子などおくびも見せずにアヤメは常の笑みを浮かべ続ける。


「柱間殿、かの男の話はわたしも聞いております」
「ならば尚の事、何ゆえぞ!」
「扉間に聞きましたが、かの男はわたしを指名しただけで、わたしのみと限定したわけではございませぬ。ならば、火影殿。わたしはこの度の依頼に際して、わたしと共に大名を護衛する忍を手配して頂きたく」
「な、なんと」
「そうですね。お許しいただけるのであれば、同じ女の身ということもあります、千手桃華をお貸しいただきたい」


 アヤメの言葉に柱間は思わず口を噤み、扉間はそんな兄の姿にやれやれと首を振った。扉間は当初よりこの形でこの依頼を受けさせるつもりであったので、アヤメに断るなと詰め寄っていたのである。
 大名からはアヤメを護衛にと指名されただけで、アヤメ一人を寄越せとは言われていないのである。ならば、アヤメを中心とした護衛小隊を組んで大名の任務に当たれば良い。そうすればアヤメの身の安全も守れるだろうし、依頼も達成できて里にとっては損はない。
 それにやっと思い至ったらしい柱間は力を抜くように息を一つ吐き出してから、立て直した椅子に再び腰を落ち着かせてアヤメを見る。その顔には先程までの緊迫した険しさは一切取り払われていた。


「もちろん。桃華を同行させることを許可しようぞ」
「ありがたく」


 柱間の許可の言葉に、アヤメはニコリと笑って小さく頭を下げた。
 出立は明後日。千手桃華と共にうちはアヤメは件の大名の元へと立つこととなった。急ではあるがそれまでに心身共に万全として欲しいと言った柱間に微笑んで頷き、それからアヤメは火影の執務室を出て行った。
 そんなアヤメの背を見ながら柱間は小さく溜め息を吐き出して、ちらりと今は主の居らぬもう一つの執務机へと目を向けた。そんな兄の仕草に気付いたらしい扉間が、ポンと手を柱間の肩に乗せた。


「この任務の件、決してマダラにはバレぬようにしろ」
「ああ、そうだな・・・」


 やけに真剣な声色でそう言った弟の言葉に柱間は鷹揚に頷いて、再び息を吐き出す。
 かの黒い噂の絶えない大名の話をマダラが知らぬはずもない。そんなマダラに今回の件が知られでもしてみろ。あの男のことだから、うちはの自身の小隊を率いて大名をそのお抱え忍一族諸共、うちはの豪火にて焼き払ってしまいかねない。
 友であるからこそマダラとアヤメの関係を知ってからというもの、他人には分からないマダラのアヤメに対する細やかな機敏の違いを柱間は見抜けるようになった。そんな柱間が見てきたかぎり、マダラは誰もが想像もできないくらいにアヤメのことを愛して慈しんでいる。


「決して、決して、な・・・」


 アヤメが帰ってくるまで、決してマダラに知られてはならない。しかしマダラはことアヤメに関する内容になると他に無いほどに敏感になるのだから、それを隠すとなるとなかなかに骨が折れる心地である。
 柱間はかくりとこうべを垂れながら、その言葉の重みと難しさを噛みしめるように繰り返した。

2018/01/03
(2018/08/16)
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