「おや、まるで遠距離恋愛の恋人に捨てられたような顔ですね」
鍵がかかっていないのをいいことに上がり込んできた帝統にそう言ってやると、彼は「あー」とも「おー」ともつかない微妙な返事をした。小生はキャスター付きの椅子を軋ませながら、捻った上半身を戻して机に向き直る。締め切りが近いのだ。時間を無為に消費するのも編集者を待たせるのも避けたい。手間を省くため、原稿を手書きするのも随分前にやめた。今やペンを走らせるよりタイピングの方が格段に速い。キーボードを叩く音の隙間を縫って、いつも聞くよりどこか力のない呟きが届く。
「完全に切れたわけじゃないけど、あながち外れてもねーかな」
台詞の途中で改行してしまった。削除キーを押して、考えることは続く文ではなく背後の男に返す言葉だった。帝統も隅に置けませんね、そのような相手がいたなんて初耳ですよ、むしろ今までよく愛想尽かさずにいてくれましたね。言えることはいくらでも浮かぶ。本心の乗らない上っ面だけの言葉を並べるのはいつものことだ。俺もこの部屋も普段と何一つ変わらない。しいて言うなら急に寒くなったくらいだ。おかげで指先は冷たいし表情筋の動きも硬くなっている。明日からは風が入らないよう玄関の戸締りをきちんとしなければ。
時間を惜しんでいたはずが、とんだお笑い種だ。ようやく歪めた唇は、煙に巻くための微笑みよりも無様をさげすむ嘲笑に近い形をしているだろう。わかっていても、今の自分に対してこれ以上に優しい顔などする気も起きない。己の心ひとつ誤魔化せないなんて、嘘つきが聞いて呆れる。ああ、いっそオペラ座の怪人のように仮面をつけたまま過ごしていたら! そう思った瞬間、まるで合わせるように、勢い良く手を打ち鳴らす音が聞こえた。ぱぁん、という音は小気味よかったが、一度きりのそれは喝采には程遠い。当然か。ここは舞台でも劇場でもなく、俺は演者としての振る舞いを投げ出している。
踊らせていた指先を止めて振り返ると、いるはずの帝統が見当たらなかった。視線を下げると、べたりと平伏した青髪が拝むように両手を合わせている。フローリングとの間に三角形を作った腕の隙間から、最近すっかり聞き慣れてしまった声がした。
「お願いします夢野先生! メシ食わせて、できれば泊めてください!」
表情筋だけでなく頭の回転まで固まった。体感では三秒ほどだったが、実際はもっと長かったかもしれない。ともあれ帝統はその間動かなかったし、少なくとも三秒は沈黙しておきながらこちらが返せたのは「は?」の一言だけだった。その芸の無さをからかいもせず、帝統はべらべらと話し始める。ここに至る経緯を説明しているらしかったが、あまり変わり映えのない展開が予想できたので聞き流す。知り合ってこの方、彼が訪ねてくるのはそう珍しくもなくなってきているが、やたらと饒舌になるのはひどい負け方をしたときと相場が決まっている。大勝ちして羽振りの良い場合もあるにはあるが、儲けた日より無一文の日の方が圧倒的に多い。つまるところ今日もそうなのだろう。ギャンブルに明るくない身にはわからない部分も多い口上からでも察せられることはある。
「……つまり、幸運の女神にこっぴどく振られた、と」
「こっぴどくは余計だし振られたってほど縁切れてねえよ」
顔を上げた帝統がじろりと睨んでくる。つくづく土下座が板についた男だ。まだ二十歳だというのにこれかと思うと情けない気持ちになる。それが彼への同情や憐れみであるならまだよかったが、そうではないから性質が悪い。
「ふむ。ならば、もう一度振り向かせるあてでもあると?」
「女神は気まぐれだからな。今日はたまたまだ」
「泊めてあげた翌日に『今日は勝てる』と出ていって、結局また負けて連泊になったのはそう前のことではないはずですが」
痛いところを突かれたのか、帝統は「うっ」と呻いて言葉を詰まらせた。ああ情けない。吐き出した溜め息は、同情でも憐れみでもなく呆れだった。こんなどうしようもない男が自分だけのものであってほしいと思うなんて、本当にどうかしている。
「……まあいいでしょう。他に行くところもないようですし」
嘘だ。乱数にしろ別の誰かにしろ、妙に人懐っこい帝統に宿を貸す者はいくらでもいるだろう。ただ、彼はギャンブルで生計を立てている割に駆け引きの定石を無視しがちな、平たくいえば単純なところがあるので、僕がこう言ってしまえばそれを真実にしてしまう。もちろん彼とてまるっきり阿呆というわけではないが、一晩の宿を確保できるという事実の前には続けた言葉などすべて些事になるという確信があった。はたして帝統はすぐさま上体を跳ね起こして小生の膝に縋りついてくる。
「ありがてえ……! 神様仏様幻太郎様!」
いつも口にする神とやらは存外あっさりと地に堕ちるらしい。まったく現金な男だ。施錠の決意を三分と経たずに反故にしている自分も大概かもしれないが。そう思えば僕たちも破れ鍋に綴じ蓋だろうか。困ったことに悪い気がしない。やはり性質が悪い。単純なのは一体どちらか。
いつの間にか温度を取り戻していた指で、灰緑色の上着の袖に触れた。唇は至極なめらかに笑みを刻む。それもこれも部屋が暖かいせいで、帝統に他の蓋がないらしいことに思うところなど一つもない。そう、断じて何もない。すべてを誤魔化して煙に巻く、普段通りの小生だ。
「女神の前髪を逃したからといって、余の服を掴むのはやめたまへ」