※バトルシーズンのCD発売前に書きました
※独歩さんが喫煙者


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 灰皿に見慣れない銘柄が入っている。よく行動を共にする後輩は非喫煙者だ。不本意ながら助手席に乗せることの増えた極道とも違う。灰にまみれてひしゃげた白と黄土色が重なり合い積もる中で、フィルター部分まで白一色の煙草は骨のように目立つ。置いた当人は街に出ればあっさりと埋没するほど地味だというのに。
 その凡庸な男は、外でスマートフォンを耳に当てて相槌を打っている。アームレストの上でビニール袋ががさりと鳴った。彼の買った缶コーヒーをドリンクホルダーに挿してやり、自分のボトル缶を口に運ぶ。ふだん買っているものより高いコーヒーを選んだのは、支払いが独歩だからだ。「海が見たい」と唐突に連絡を寄越し、日曜の混んだ道を走らせたことへの迷惑料と考えれば、袋に突っ込まれたままの煙草一箱を足しても安いくらいだろう。
 ボトルの蓋を閉めたところで助手席のドアが開いた。シートに滑り込んだ独歩の表情は、日暮れが近付きフロントガラスから入る光が弱くなり始めているのを差し引いても、コンビニを出た数分前より格段に疲れている。元々そういう雰囲気の漂う男ではあるが、今の電話がそれを悪化させたことは明白だった。
「あのハゲ課長……」
 地上数センチを匍匐前進するような声に、銃兎は一瞥だけくれてやる。さっさとシートベルトをしろという無言の命令はすぐに伝わった。パチンという音とともにベルトを固定した手がホルダーの缶を引き抜き、プルタブを開ける。揺れでコーヒーをこぼされたら面倒だ。発進は中身がもう少し減るまで待たなければいけない。銃兎はハンドルに触れていた手を離す。
「呼び出しか」
「今じゃないけど。明日の出社が早まった。一時間」
「それは面倒だ」
 警察官と会社員。仕事内容はかけ離れているが、昼夜も休日もなく呼び出しを食らう可能性があることは共通していた。同情はするものの、今は意地の悪い愉快さの方が勝っている。その気持ちが、銃兎の口の端を引き上げさせた。
「上司に使える切り札を持ってない奴は大変だな」
「持ってる奴の方が少ないだろ。お前とは違う」
「当然だ。作りが違うからな」
 人差し指でこめかみを叩いてみせると、独歩は心底うんざりという顔をした。
「……こんなのが警察とか、世も末だ」
「今更だろう? 世の中なんてとっくに終わってるんだ。H法案なんてもんが出来たあたりにな」
 独歩は答えなかった。ホルダーに再び缶が挿さる。それを横目で見ながら言を継ぐ。
「世紀末より終わってる世界で真っ当になんか生きられない。清く正しく健康で文化的な生活なんて夢物語だ。誰だってどこかしらブッ飛んでる。野生動物のうろつく森でサバイバルなんかしたり」
「は?」
「人の仕事上がりに『海が見たい』とか言ってきやがったり」
「それは……」
 気まずそうに泳いだ目は、続く言葉を見つけられなかったのかすぐに伏せられた。
「…………悪かったと思ってる。これで疲れたお前が事故起こしたら間違いなく俺のせいだし」
「起こさねえよ」
 激昂した極道に詰め寄られてさえ事故を回避したのだ。残り僅かな警察官としての矜持が、彼に安全運転を守らせている。
 独歩が懐から取り出した煙草に火を点けた。フィルター部分まで白一色の細い煙草。重いため息とともに、馴染みのない匂いの煙が運転席まで届く。銃兎はシフトレバーに手を掛けながら言った。
「まあ、折角そうまでした帰りにそんな電話がきたっていうのは災難だな」
「しかも人災だぞ。よけい性質が悪くて後始末に手間が掛かる」
 車は湾岸を直進する。見える景色は道路を境にまるで違う。夕日に晒されるビルの影は右側にしかなく、左を見ればただ色を濃くしていく海と空ばかりが広がっていた。独歩が今日の目的地だった公園の駐車場で「ヨコハマは空が高いな」と漏らしたのも、きっとそのためだ。物理的な高さはどこでも同じだと返すほど野暮ではない。遠出の理由を訊く無粋もしなかった。誰だって逃げ出したいときはある。銃兎の認識はそれ以上でもそれ以下でもなく、実際それだけで充分だった。
「本気で出社拒否したいなら適当な理由でしょっぴいてやろうか? 懲戒解雇なら辞表も書かなくて済むだろ」
「警察官の冗談はマジで笑えないからやめろ」
 短くなった白い煙草が灰皿に落ちる。放り込んだのは休日だというのに仕事用のスマートフォンを持ち歩いている男だ。どこまでも続くコンクリートジャングルに切り取られた空へ背を向けても、電話一本でまた戻っていく。終わっている世界でもかろうじて形を成している社会で生きるとはそういうことだ。逃げ出したいと願っても、様々なしがらみがそれを本当には叶えてくれない。ちょっとした散歩がせいぜいだ。だから銃兎はリード代わりに車を走らせ、シンジュクまで乗り換えなしで行ける駅へと送ってやる。それだけで、ちょっとした気分転換には充分だった。
 交差点の信号が変わる。既にいつもは通らない道だ。ハンドルを右に切る。車内が揺れ、摩天楼へ帰る男から切り離された骨は音もなく灰皿の奥深くに埋もれていった。




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