何故と訊かれてもそういう気分になったからとしか言いようがないが、目の前の身体へ無性に跡をつけたくなった。それを素直に口にすると、滅多にしないことだけに独歩くんも面食らったようだったが、服で隠れるところだけにするからと重ねれば戸惑いつつも頷いてくれた。いつも私の望みに応えようとしてくれる年下の恋人の従順さはとても可愛らしい。
 手始めに鎖骨の下へくちづける。強く吸い上げると程なくして赤い色が浮かぶ。それは新雪に足跡を残すようなものだ。子供じみた衝動とわかってはいるが、ひとつ付ければもうひとつ、またひとつと続けたくなる。その欲求に逆らうことなく、今度は胸の間、心臓の真上の肌を吸う。所有印とも呼ばれるそれはあくまで皮膚の上だけのものだが、見ているとまるでその内側にまで届いたような錯覚を起こす。そう思うのは私がそれを望んでいるからだとすぐに気付いてしまって内心苦笑した。人ひとりのすべてを自分のものにしたいなど、やはり子供じみている。
 だが、もし口に出したとしたら、彼はこの「望み」にも応えようとしてくれるのだろうか。ふとよぎった考えもまた幼い理屈に思えた。しかし切り捨てるにはあまりに魅力的な夢想だ。思わず綻んだ口元を隠すように今度はさらに下、みぞおちの辺りにくちづけた。


**


 跡をつけてもいいとは言ったが、こんなに多いなんて聞いてない。
 鎖骨に始まって胸や腹、腰まで来たと思ったら次は腕。先生は何をそんなに熱心にする必要があるのかというくらい執拗にこの行為を繰り返している。別に嫌というわけじゃない。いや、これは俺も大概だと思うが実際そうなんだから仕方ない。先生のしてくれることが嫌だったことなんて一度もなくて、だからこそ厄介だ。
 左の二の腕に先生の唇が降ってくる。それからかすかな痛み。もう何度目かもわからない刺激は俺の中の熱を着実に高めていく。だが一方で、違うんだと思う自分がいることもわかっていた。違う、こんなものじゃない。先生の唇が与えてくれる気持ちよさはもっとずっと上だってことを、俺はもうとっくに教え込まれている。
 腕にいったと思ったら戻ってきた。先生の唇が右胸の下に当たる。またひとつ先生のものだと主張される悦びに身体を震わせながら、その斜め上に触れてほしいと思う。期待に硬くなった先端を唇でやわらかく食んで、濡れた舌で包み込んでほしい。何度も受けた、それでいて慣れて鈍ることのない快感を、記憶はひとりでに蘇らせる。水音とともにあたたかい舌の上で転がされて、煽られた熱情で蕩けそうになったところに軽く歯を立てられる。甘い痺れが全身に走って、俺に先生を焼き付ける。あの瞬間が欲しくてしょうがない。
 先生は跡をつけたいと言った。俺の身体で満足してくれるなら好きなだけつけてほしいと思う自分と、早くいつもの快楽が欲しいと訴える自分がいて頭がおかしくなりそうだ。先生が動くたびに長い髪が脚をくすぐる。その感触にすら焦らされているように感じる。点々とつけられた欲の火はくすぶるばかりで、噴き上がることもなく腹の中で渦を巻く。
 唇が離れようとしたその一瞬、湿ったものが肌に触れた。ざらついた舌の先端。いつも俺を気持ちよくしてくれるもの。今日はまだキスでしか触れていない。ああ、あのときの温度はどんなだったか。俺の熱をかき混ぜてどろどろに融かしてくれないだろうか。いや、それよりも先に理性が。
「せん、せい」
 熱っぽい息とともに吐き出した声は、恥ずかしいほどに震えていた。


**


 さ、わって、ください。
 翡翠を溶かしたような瞳に思わず見惚れてしまい、言葉の意味を飲み込むのが遅れた。そのわずかな間に、独歩くんの目は私の視線を避けるように伏せられてしまう。むね、と続けられてようやく「触ってください」だと理解した。その顔は普段に比べて赤い。だが、それが羞恥からくるものだけでないことは察しがついていた。声は押し殺していたものの、皮膚を吸い上げるたびに小さく震える身体と浅くなる呼吸に気付かないはずはなかった。正直、それに刺激されなかったといえば嘘になる。
 改めて見下ろすと、彼の身体には我ながらよくぞここまでと思う数の赤い華が咲いていた。数日後には消えてしまうだろうが、それまで彼はシャツを脱ぐたびいたたまれない気持ちになるに違いない。それを申し訳ないと思いながらも、彼がその都度この情事を思い出すであろうことに喜びを覚えている自分がいる。醜い独占欲だ。その強さが跡の数に表れ、残すために時間をかけたのだろう。焦らしたつもりはなかったが、結果的には待たせすぎたようだった。
 独歩くんはもう一度わたしを見上げて「先生」と呼んだ。情欲が見え隠れする目と声はとても愛おしい。しかし同時に、もっと乱れさせたいとも思う。もっと快楽に溺れて、もっと私を求めてほしい。手付かずだった胸の先に触れようとした指先を寸前で止める。
「触る、だけでいいのかい?」
 彼は小さく息を呑んだ。そして上気した顔を俯け、しばらく躊躇したあとに言った。
「……いえ、その……くち、で」
 今度は私が驚く番だった。彼を前にすると、心の隅に追いやっていた独占欲や支配欲や征服欲といったものが次々と浮かび上がってくる。再び沈めることは難しいそれらを、彼はいつでも受け止めようとしてくれる。年下の恋人は、時にこちらが目を瞠るほどに健気だ。
 続く言葉は先程と違ってすぐに理解できた。きもちよくしてください。ああ、やはりとても可愛らしい。思わず浮かんだ微笑みを隠すことも放棄して、存在を主張する胸の飾りに唇を寄せた。




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