ふだん先生が着るものはハイネックが多く、いわゆるシャツ系の服はほとんど着ない。少なくとも俺は見たことがない。いつだったか服の好みの話になったときは、嘘か本当か「ボタンを付けるのが苦手だから最初から無いものを選ぶ」と言っていた。俺も得意というわけではないからその気持ちはわからないでもなかったが、営業という職種上そうもいかない。一週間の大半はスーツにワイシャツだ。ボタンが取れかかると一二三が目ざとく気付いて繕ってくれるものだから、自分で付け直す羽目になったことは今のところない。
そうはいっても仕事に直結するスーツが好きになれる筈もなく、シャツだって特に好きというわけじゃない。夏は暑いし冬は寒いしボタンをいちいち留めるのも面倒くさい。私服でも持っているが、それは襟のある服の方が他人に会った時まともに見えるからというだけで、本当は被るだけで済むものの方が断然楽でいいと思う。
だというのに俺はいま先生の家でネイビーのパジャマを着ている。先生とそういう仲になって、泊めていただくことも増えて、着替えを置いておくことを提案されたときに自分で選んだものだ。いつも家で着ているスウェットよりはこちらの方が見栄えは多分いい。選んだ理由はそれだけではないけれど。
「おいで、独歩くん」
静かな声に考え事を中断する。先生は俺がシャワーを浴びに行く前から変わらずソファーに座っていた。促されるまま、さっきまでと同じく隣に腰かける。先生の手が水気を含んだ髪を梳いたと思うと頬に添えられる。唇が触れて、離れて、深くなっていくのに紛れるようにもう一方の手がパジャマの生地越しに背骨を伝い下りていく。それだけで体の内側からぞくりとした疼きが這い上がってくる。
先生の指が好きだ。キスの間、絡む舌が口の中をかき回していく感触に夢中になっているといつの間にかボタンが外れている。何度も唇を重ねるうちにひとつ、またひとつと外される。合間にはだけた素肌を撫でられる。それらすべてを先生の長い指がしているのだ。そう思うとたまらなくなる。一番下まで外しきる頃には抱き寄せる腕に体を預けることしか出来なくなっている俺に、先生は触れるだけのキスをくれる。息が苦しくなるほどの幸福感と、もうこれだけじゃ物足りないという浅ましい欲とが同時に押し寄せて頭に霞がかかる。ただ「好きです」という言葉だけが胸から溢れた。
先生が好きだ。先生の与えてくれるすべてが好きだ。尊敬や信頼にとどめていれば美しかったのかもしれないが、俺はもう先生がくれる快楽まで覚えてしまった。どんな些細なものからでも、先生がその手を通して気持ちよくしてくれることを知ってしまった。
身動きするとネイビーの布が肌をかすめた。これだってそうだ。俺は一週間の大半をスーツにワイシャツで過ごす。この部屋に着替えなんて置いてなかった頃、俺は何度も仕事の後にここを訪れて、先生は何度も俺のネクタイを解きシャツのボタンを外した。キスの合間に胸元をうごめく指が、はだけた隙間から入る空気が、両肩を滑り落ちる布地の感触が、俺に今まで知らなかった感覚を叩き込んだのだ。そんなこと先生は知らないだろうし、俺も一生口に出さない。この部屋に持ち込んだ服がすべてシャツタイプである理由も、先生の手にひとつひとつ開かれる悦びも、俺だけがわかっていればいい話だ。
俺はいま人には言えない理由を抱えて先生の家でネイビーのパジャマを着ている。きっともうすぐ脱がされる。