腕の中の身体がびくりと震えた。目を開くと、闇の中で上下する肩が見えた。その動きはいつもより忙しない。耳に入る呼吸音も平生より早く、今の状態で確かめる術はないが心拍数も同様であることは想像できた。背を向けられているので表情は見えないが、おそらく独歩くんは起きている。というか今ので起きたのだろう。彼の睡眠は私が知る限り常に浅く、長く眠り続けることが難しい。眠るまでに時間がかかり、一度寝入ってもふとした拍子にまた目を覚ます。初めて患者としてやってきた彼の言葉や問診票に書かれた内容、それらを要約したカルテの文言が頭の奥でちらついた。
 いま出くわしているのも、そうした中途覚醒のひとつだろうか。その疑問はすぐに打ち消した。普段の彼に震えを伴う目覚めはまずない。それは診察室での訴えだけでなく、少なくない夜をともに過ごしてきた私自身の経験則でもあった。であれば、これは明らかに「いつものこと」ではないのだ。
 そう結論づけたのとほぼ同時に、彼の頭の向こうへ投げ出していた手に何かが触れた。何かといっても彼しかいない。考えを巡らせている間に呼吸の回数は大分おさまったようだ。彼の指先が私のそれに触れている。握りしめる力は成人男性のものとは思えないほど弱い。当然それは彼の筋力の問題ではなく、今の状態を「握る」と形容するのも間違っているのかもしれない。ため息が聞こえた。音としてとらえれば仕事や将来の不安について話すときに漏らすよりも軽いものだったが、内に込められている感情はそれと同じかさらに密度の高い苦しみ、あるいは嘆きのように思えた。
「独歩くん」
 向けられたままの背が、また大きくびくりと跳ねた。指先が離れたのを感じる。小さな衣擦れの音とともにゆっくりとした動きで首を動かし、そのままこちらを向くには無理があると悟ってようやく寝返りを打った。
「……すみません、先生。起こしましたよね……」
「元々起きていたから、気にする必要はないよ」
 私は事実を述べたのだが、彼がそれを信用したかどうかはわからなかった。優しい嘘だと思っただろうか。優しさなど、彼の憂いを晴らすに至らなければ無いに等しいのに。
 暗さに幾分慣れた目には、カーテンの隙間から入るわずかな明かりも十分な光源になる。濃い藍色に覆われたような視界に入る彼の表情は、先程から何一つ変わっていない。親に捨てられた子供に似て頼りなく、作品を壊された彫刻家に似て痛々しかった。濡れたように光るその目が、指先と同様に縋りつく色を宿して私を見る。決して強くはないのにどうしようもなく抗いがたい力で私を引き寄せる眼差し。
「どうかしたかい、独歩くん」
 間が空いた。困ったように眉根を寄せたまま何度もまばたきを繰り返す。返答を躊躇うときの彼の癖だ。しかし最後には必ず何かしら返してくれるので、こういうときは急かさず待つことにしている。
「……夢を、見たんです」
「夢。どんな、と、聞いてもいいのかな」
 無言。怯えたように上下する睫毛。私はまた急かさずに待つ。前の質問に対するよりもさらに長い沈黙の末に、彼は「いえ」と答えた。返事というよりは囁きに近い声だった。
「すみません……。でも」
「言いたくないことは無理に話さなくても構わないよ」
 普段の診察でもよく口にする言葉だったが、発したのは医師としての私ではなかった。それを示すように、伸ばした手を頬へ滑らせる。
「だが、夢はあくまで夢だ。どんなに幸せな夢も覚めれば消えてしまうように、悪い夢も脳が見せた幻にすぎない。それよりも、今ある現実に目を向けてほしいね。こうして今、私が君の傍にいるということに」
 掌の下で、こわばった肌が僅かにゆるむのを感じる。ふ、と細い息を吐いた独歩くんは、幾分やわらいだ目をして言った。
「……はい、先生」
 頬を伝って顎の先までなぞり、道を見失った手で彼の頭を撫でる。夜の空気に冷えてなお柔らかい髪が指の間を抜けていく。その感触に快いものを覚えていると、「先生」と遠慮がちな声が聞こえた。
「どうして、何も言わないのにわかったんですか」
「わかってはいないよ。けれど、推測できるくらいには君のことをみているからね」
 見ている、もしくは診ている。どちらでもあった。恋人として、患者として。だが、例によって彼は必要以上に後ろ向きに受け取ったらしい。その表情は瞬く間に曇り、口からは沈んだ声がぼろぼろと零れ落ちていく。
「そうですよね……。僕はずっと先生にお世話になって、迷惑ばかりかけて、それなのに大した恩返しもできずこうしてまた夜中に気を遣わせてしまって僕が眠れないせいで先生の睡眠まで妨げてしまって僕のせいで」
「独歩くん、少し落ち着こうか。またいつもの癖が出ているよ」
「っ……すみません……」
「すぐに謝るのもあまり良くないね。仕事の上では必要かもしれないけど、そうでない時はもう少し自分を甘やかしてもいい」
「…………はい」
 そうは言っても、今までしてこなかっただけにうまくイメージできないのだろう。悄然とした様子で目を伏せた。何故かそれがずいぶん遠いもののように見える。遠くにいるのは彼か、それとも私か。実体のない錯覚に意識を向けた束の間に、医師としての習慣が己の所見を分析しはじめていた。
 眠りの浅い彼が夢の切れ間に目を覚ますのは今回だけのことではない。だが、そうしたときに必ず私に縋るというほど彼は幼くも愚かでもないのだ。多くの人がするように、彼も大抵は見た夢を己の中で密やかに処理する。それが崩れたということは、よほど悪いものを見たに違いなかった。あのとき振り返った彼の目には、間違いなく恐れがあった。見捨てられた子供や像を砕かれた彫刻家と同じ、何かを失った者の持つ恐れが。
 人にとって喪失は常に大きな恐怖だ。自分により近く、懐に抱え込んだものであるだけそれは強くなる。その経験が幻だとしても、だからこそ現実の在処を確かめたくなるほどには。それがわかっていたから、私は自ら彼に触れた。この手は今そのためにあるとすら思った。正確にいえばそう思いたかったのだ。私が無意識のうちに隠した本心は、既にその全容を呆気なく晒していた。
 私は彼の状態を正確には理解していないし、この手や舌を動かしたのは推測でなく期待と呼ぶべきものだった。私がそうであるように彼の恐れるものが喪失であってほしかったし、その対象が私であれば良いと思った。彼にとって失いたくない存在であると、そう自惚れることを許されたかった。今回は運よく正解に近かったらしいというだけで、突き詰めれば私の言葉は自分が思うように彼にも思われたいという、ひどくありふれていて身勝手な祈りだった。だが、彼は否定しなかった。それは許されていると考えていいのだろうか。
 十字架に触れる聖職者のような気持ちで片手を伸ばし、その瞼をそっと覆った。それだけで彼の両目はすっかり隠れてしまう。
「せっかくの休みだ、もうひと眠りしなさい。まだ朝には早いから」
「……はい。す、」
 息を吸う程度の間があった。
「ありがとうございます、先生」
「おやすみ、独歩くん」
「おやすみなさい」
 手はそのままにしていた。彼も退けてくれとは言わなかった。許されているのだと思った。触れること、傍で眠ること、彼のためのあらゆることを許されている。
 彼は時おり磔刑の救世主へ向けるような目で私を見上げるが、それは私が彼に向ける視線そのものかもしれなかった。神でも救世主でもない私は、救いを与えるだけの存在には到底なれない。おそらくは全ての人間がそうなのだ。誰もが他者に救われながら他者を救っている。こうして掌の下でゆるやかに脈打つ体温のように。私よりわずかに高い温度が徐々に移ってきている。だが、どれだけ抱き合い体表面の温度が等しくなったとしても私と彼は混ざり合えない。それと同じように、いつまでも私は彼に対して無欲の救済者にはなれないだろう。互いにひとりの人間であるからこその絶対的な隔絶だ。だがそれゆえに私は彼に触れ、いくつかの道を示し、穏やかに眠るための場所になることができる。なんと興味深く、愛すべき隔絶だろうか。
 カーテンの向こうでは不夜城のネオンが変わらずに煌めいている。曇りガラス越しに映った光の形は十字に似ていた。信仰や医療と同じように人間を救えるものがあることを、私はもう知っている。外の彩りとは裏腹に部屋は静かだ。彼が安らかな寝息を立てるまで、そう時間はかからないだろう。




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