・仮タイトル『戦好きの屈折したマゾヒズムの話』が全てです。
・マゾはいますがエロではないです。
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振り下ろした刃は松葉緑の手甲に弾かれた。踏み込んだ足を後ろに下げる。革靴の踵の下で、硬い土がわずかに削れる感触がした。
最初から一撃で仕留められるとは思っていない。彼らを率いる審神者との演練は既に何度か経験していて、かの本丸全体の戦力もある程度は把握している。一方的にねじ伏せられるほどの実力差はなく、かといって完全な互角でもない。勝負の結果はおのずと決まってくる。
斬り上げる刃先は二歩退いて躱す。腕を引き戻す隙を狙ってもう一度、今度はさっきと逆側へ仕掛ける。
研ぎ澄まされた鋼のぶつかり合う音。攻め手を代えて二度、三度。動きの速さは彼に利がある。避けそこねた刃先が刀装をひとつ剥ぎ取っていった。続く打ち合いに息が上がる。けれど、相手の口元は僕の知っている彼と同じく緩い弧を描いたままだ。
よく凌ぐ、と僕は内心で舌を巻く。僕たちの本丸にいる鶯丸さんは顕現して日が浅く、この前の手合わせではここまでもたなかった。けれど、あの彼も鍛錬を積めばこうなるのだ。それどころか、目の前の彼よりもきっと強くなるだろう。強いひとは好きだ。いつか来るその日を想像すれば、気分は自然と高揚する。それに突き動かされるように、競り合う刃を強く押し込んだ。力勝負では僕に分がある。耐えきれずに傾いだ身体を横薙ぎに斬りはらう。そうしてようやく、彼はくずおれて動かなくなった。戦闘が終わればすべて元通りになる傷だが、それでもあまり気分の良いものではない。
彼らの本丸との演練はだいたい同じ結果で終わる。勝利を喜ぶ短刀たちの声が、どこか遠くに聞こえた。
「で、それを俺に伝えてお前はどうしたいんだ?」
「別に? ただの報告だよ。今日こんなことがあったよってね」
池のほとりで蛍が飛んでいる。明滅しながら不規則に踊るかすかな光。その動きを追うともなしに眺めながら続けた。
「しいて言うなら、鶯丸さんもそれぐらい頑張ってってところかな」
僕と並んで縁側に腰かけた鶯丸さんは、両手で湯呑を持つ姿勢を崩さないまま笑みを深くする。
「光忠は厳しくて困る。手合わせでもまったく容赦ない」
「僕は鶯丸さんに強くなってほしいんだよ。いつもそう言ってるだろう?」
「飾られるだけじゃない、か。そういうところはつくづく長船の刀だな。戦いが好きか」
「まあね」
違う。僕は内心でだけ否定する。そうだけどそうじゃない。強いものは好ましいけれど、僕がそれ以上に好きなのは格好いいもの、美しいものだ。そう、たとえば鶯丸さんのような。
美しいものはそう在るだけで強く、見る者に忘我の心地さえ与える。僕はこの美しい太刀の与えてくれるものを僕のすべてで受け取りたい。彼が僕を見るたび、隣で言葉を交わすたび、刀を構えてなお微笑みを崩さない彼と切り結ぶたび、僕は己の欲望が膨れ上がるのを感じる。
どうか僕を打ち負かして、その足元にひざまずかせてくれないか。
誇り高き長船の一振りとして、到底口に出してはいけない望みだ。伊達政宗公に号を授かった刀として、誰かに無様な姿を見せるわけにはいかない。殊に古備前派の祖の手で打たれた美しい太刀には。けれど彼に向き合うと、その無様を晒してみたいという欲が矜持と同じだけの強さで僕を揺さぶる。
どうか僕を汚して、それでも縋りつく醜さを許してくれないか。
そしていつか僕に馬乗りになって、鋭く光る切先を突き立ててくれないか。
その瞬間を思い描くたびに背筋を這い上るのは恐れと不安と、それを上回る紛れもない愉悦だった。敗北は実戦刀にとって何よりの屈辱だ。だというのに、彼の前に何もかもを手放して膝を折る想像はあまりにも甘く頭の隅を痺れさせる。それが現実になったとき、彼はどんな顔をするだろう。僕を屈服させてなお崩れない微笑みのままであればいい。恥辱の中に恍惚を見出す僕を蔑んでくれてもいい。他の誰にも見せたことのないその表情は、それでもきっと美しいに違いないのだ。それを独占できるならどんな対価だって払う。
ああ、だからどうか、どうか、どうか、どうか!
腹の底から叫び出したい衝動がせり上がる。僕はそれを必死で押しとどめて、わざと負けることのできない性分ゆえに鶯丸さんの手を引くのだ。高い塔、あるいは険しい山を上るような気持ちで、いつかその手に突き落とされるのを待ちながら。
「鶯丸さんだってもっと強くなれるんだから、早く僕に追いついてよ。手合わせならいつでも付き合うから、ね」
「お前は真面目すぎる。……まあ、疲れない程度にやるさ」
長い睫毛に縁どられた瞼が一瞬伏せられ、すぐに開いてこちらを見る。夜に沈んでなお澄んだ淡緑色は、蛍のかそけき灯りにも劣らず美しい。僕はその瞳を地に伏して見上げる日を想像しながら、鶯丸さんに微笑みかけた。