・弱虫ペダル利き小説企画(http://kikipedal.goodword.jp/)第一回提出作品
・お題:「色」



***



 絶望した者には世界が灰色に見える。もはや使い古されたその通説は、しかし新開隼人には当てはまらなかった。
 ウサギを轢き殺した。全力で走れなくなった。背負った罪悪感に潰されかけても、彼の根幹を成していた『競う走り』を失っても、新開の目に映る世界は美しいままだった。晴れた昼の空はすべてを飲み込むように青く、夕暮れはすべてを燃やすように赤く、親友の髪はペダルを踏めなくなった男には近付くことさえ躊躇わせるほど鮮烈な金色をしていた。
 それは自分の悔恨が足りないからではないかと新開は考えた。全力でペダルが踏めないことに焦りを感じるのは、まだ全力で走りたいと思っているからだ。まだ走りたいと、走る資格があると浅はかにも考えている自分は、ウサギの死の意味を正しく理解していないのだと思った。
 茶色い仔ウサギは何も知らないという顔で、模範囚のふりをした母の仇が差し出す瑞々しい黄緑色の葉を食んでいる。


 新開はいつからか夜を待つようになった。
 消灯よりも早い時間から部屋の明かりを落とす。目はすぐに慣れて、室内にあるものの輪郭がぼんやりとわかるようになる。しかし、それらはみな同じ暗闇の色をしている。
 夜は平等だ。新開の怯懦や後悔や罪悪感がどれだけ薄く浅いものであろうとも、世界を単一の色に見せてくれる。部屋が闇色の箱になって初めて、新開は正しく息が出来るような心持ちになる。色彩を失った身体をベッドに横たえて目を閉じた。ちらちらと火花のようによぎる赤や緑に、早く消えてくれと願う。光はいらない。求めているのは黒。他の何色をも塗り潰してくれる黒だ。


 世界が希望を失った者には灰色に見えるというなら、夢の中の方がよほどそれらしいと新開は思う。テーブルを挟んで向かいに座る親友の髪は冗談のように白い。正方形をした天板の、新開から見て右側の辺に陣取っている荒北の黒髪は普段と変わらないので余計に差異が目立つ。その反対側に座する東堂の髪も同じだが、そこに乗るカチューシャは彼の気分によって変わる。新開の目に映るその白は、果たして本来のものなのだろうか。
 白と黒と灰色。この場にある色はそれだけだった。濃淡の差はあれども灰色をした肌で、灰色の天井と壁と床に囲まれて彼らは席についていた。箱根学園の校舎にも寮にも、こんな部屋は存在しない。はっきり夢だと確信できるのに、五感の何もかもが本物だと訴えかけるリアルさで彼らはそこにいた。
「結局のところ、覚悟が足りないということだろう」
 静かだがよく通る声で東堂が言った。彼はテーブル中央の大皿から自分の皿へ取り分ける作業を、食器のぶつかる音ひとつ立てず器用にこなす。荒北は黙々とナイフを動かし、フォークを口に運んでいる。現実の彼も意外と綺麗にものを食べ、新開を含む周りの人間を未だに驚かせる。それに対する反応と同じように、灰色の荒北も彼らの会話には無関心を貫いていた。福富は動かない。ナイフとフォークは既に皿の上に並んで寝そべっている。気弱な者ならたちまち畏怖する強さを体現する眉の下で、同じく強固な意志の光を宿す眼差しが、新開と東堂を見据えていた。
 彼らの様子を意に介すことなく、東堂は淀みなく話し続ける。
「ウサギを殺した事実に向き合ったときにおまえがどうなるか、おまえ自身でもわかっていない。罪悪感で本当に走れなくなるかもしれない。動物愛護とやらに目覚めるかもしれない。案外どうともならないかもしれない。すべて仮定の話だ。だが、おまえはその幾つもある可能性がひとつの現実になることを恐れている」
 我関せずという風だった荒北が、不意にナイフとフォークを置いた。耳障りな音が響き、彼は苛立たしげに言う。
「いい加減認めちまえよ。ウサ公を殺したコト受け止めて走れなくなっちまうのが嫌なんだろ? だから目ェそらしてんだ」
 情けねェ、と吐き捨てられて返答に窮する。
「新開」
 断崖で立ちすくむ彼の背を押すように、福富が口を開いた。
「オレは――」
 荒北や東堂の言葉は新開が自身に向けたものであるのに、福富のそれは現実の彼が発したものだ。あの日ウサギ小屋の前で聞いた、新開が記憶している通りの声が耳に届く。それは確かに光であるはずなのに、その眩しさが今は痛みとしか思えない。しかし耳を塞ぐことも出来ず、視線だけでもと下へ逃がすと白い大皿が目に入る。そこにはあの時のウサギが載っていた。体と呼べる部分は三方に取り分けられていて既にない。灰色の毛の中から黒い眼玉がうつろに新開を見上げていた。


 暗さのいくらか薄れた部屋で目を覚ます。時計を確認すると、いつもの起床より随分と早い時間だった。しかしこの季節なら、日の出もそう遠くないだろう。新開の求める眠りは朝日とともに去ってしまう。共用の洗面所で顔を洗い、部屋に戻る途中で東堂と出くわした。
「隼人か、おはよう。珍しいな」
「おはよう。尽八はいつもこの時間に起きてるのか?」
「ああ、早起きは三文の徳というしな!」
 からりと笑う彼がこれから何をするのかは、その服装を見れば知れた。
「朝練の前に走るのも、いつものことかい?」
「毎日ではないが大体はな。晴れた朝の山頂は、何度見ても良い景色だ」
「なるほど」
 山を上り終える頃には周りを見る余裕もないほど疲れていることが常の新開だが、頂上から見る景色は確かに美しいのだろうと素直に思った。青い空と白い光と木々の緑と土の茶色。新開が未だに失えない色彩は、依然として彼から遠く離れたところにあって美しい。手を伸ばしても届かないから、捨てることも叶わない。
 なら、手の届く場所にあるものは簡単に捨てることができるのか?
 その声は、新開自身のようでも東堂のようでもあった。あるいは荒北であったかもしれないし福富であったかもしれない。だが疑いようもなく、あの灰色の部屋から響く問いかけだった。
 ふと見ると、東堂のポケットに補給食が突っ込まれている。ハンガーノックを防ぐためには至極当然のことなのだが、そのとき新開が思い出したのは夢の中でウサギを切り分けている彼の姿だった。
「よく食うなぁ、尽八」
 それを聞いた東堂は怪訝そうに片眉を跳ね上げた。しかし何か訊ねることはせず、ただ呆れたように返した。
「おまえほどではないと思うが……まぁ、腹が減ってはペダルは踏めんしな」
 新開は返す言葉を呑み込み、去っていく東堂を見送った。口をついて出そうになる夢の話は、新開自身が答えを出さなければいけないことだった。
 手が届いても捨てられないものはある。勝ちへの執着で捨ててきたものを拾い集め、また勝つために走る。己がそうしないはずはないと、新開は誰よりも知っていた。
 灰色の東堂が言っていた通り、結局は覚悟が足りなかっただけの話なのだ。奪った命に赦されなくとも走り続ける覚悟が。走るには糧が要る。いつかまた灰色の食卓につく日が来るならば、その時こそ新開は皿に残された頭を喰らうだろう。殺したウサギを取り込んで力にする。そしてまた走る。勝つために走る。小さな命に取り返しがつかない以上、出来ることなどそれしかないのだ。
 廊下の窓から外を見ると、生い茂る葉が黒から緑へと変わり始めていた。彼方の地平線は白く、中天に向けて翼を広げるように空の色を薄めていく。
 朝が来ていた。これまでと同じく色彩で溢れた世界に、これまでとは違った光を与える朝だった。




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