ネームプレートを外してしまえば他と見分けがつかなくなるだろうドアはあっさりと開いた。消灯前のこの時間、留守でもなければ部屋の鍵はかかっている方が稀だ。ユキちゃんはベッドに寝転んで雑誌を読んでいた。塔ちゃんが見たら「目が悪くなる」って怒るかもしれない。
「ユキちゃん」
「おー」
重そうな瞼の下からこっちを見たユキちゃんは慣れっこという様子だった。それも当然で、オレがこうやっていきなり部屋を訪ねるのはもう何度目かわからない。頭の中でピアノの音が鳴り響くのも。
「またかよ」
「今日はね、バッハのチェンバロ協奏曲第一番だよ」
「わかんねーよ」
「ユキちゃんいつもそう言う」
「言っとくがクラシックに詳しい男子高校生の方が少数派だからな」
「えー」
ユキちゃんは体を起こすと、開いたままの雑誌をオレに差し出した。ツールの特集記事が載っている。なんだかんだ言いながらオレのお願いを聞いてくれる意思表示だからユキちゃんは優しい。
「寝れなくなるくらいなら、最初から聴かなきゃいいんじゃねェの」
「それは無理だよ」
「せめて試してから言え」
「前向きにゼンショする」
「政治家か? 当選しといて公約うやむやにする悪徳政治家か? あとおまえ『善処』って意味わかってるか?」
わかってる。でも、意味を知っていることとそれを実践できること、そしてそうする気が起こるかどうかは全く別の話だと思う。
ベッドに腰掛けたユキちゃんの目の前の床に座って、両手で雑誌を掲げる。目のすぐ下、ユキちゃんの一番読みやすい高さ。鼻先に背表紙が当たる。ユキちゃんの両手はオレの耳を塞いでいて、紙面を読み終わったときだけ指先でオレの頭を叩く。次のページを見たいときは左耳、前に戻りたいときは右耳に衝撃が伝わる。会話のない部屋でユキちゃんがオレに起こすアクションはそれだけで、オレもページをめくる以外はまばたきくらいしかできない。
ユキちゃんの手のひらは隙間なくオレの耳を塞いで、廊下や他の部屋どころかこの部屋の壁で動いている秒針の音さえ遮断する。でも決して無音ではなく、密閉された空気の中で地響きのような低い音がする。筋肉の動く音とも血が血管を流れる音とも聞いたけれど、オレにはどっちでもよかった。電車の通過する高架下に似た音を、何かの信号のように高い音が貫く。どこから生まれたのかわからない、けど確かに聞こえる音。鼓膜を揺らすそれとはまた別のところで、チェロが囁きバイオリンが歌っている。オレたちが向かい合っているとき、いつも頭の中で鳴り続けている音楽。
バッハ、ハイドン、ドビュッシー。不純な動機で名前を出したことをあなたたちは怒るだろうか。
最初から知ってるんだ。実際に聞こえている音と頭の中で鳴る音楽は別物で、いくら耳を塞ごうとその手が自分のものであろうと他人のものであろうと、頭の中で響く曲を止めることも上書きすることもできないってことぐらい。それで困ったことだって一度もないんだ。クラシックが鳴り止まなくて眠れないのも、耳を塞いで聞こえる音で止めてほしいのも、ユキちゃんを頼ったのはたまたまなんてのも全部嘘だ。
リスト、シューベルト、メンデルスゾーン。こんな口実を用意してまで触れられたいと思うオレを笑うだろうか。
ユキちゃんの手のひらとオレの耳の間が真空になったような気がする。罵声も嘲笑も聞こえなかった。それでも頭の音楽は鳴り止まない。「君の愛は、私を最も幸せな男にするのと同時に最も不幸な男にもする」と言ったベートーベンの世界もこんな風だったんだろうか。月すらも息をひそめて見下ろす部屋で、オレは不幸ではなかったけど幸福でもなかった。
ショパン、モーツァルト、ベートーベン。ユキちゃんは、オレが口を開いたら不幸にしてくれるだろうか。
問いかけたところで答えは聞こえないしオレには実行する勇気もなかった。幸福も不幸も怖くて跳ぼうとする足が竦む。いつか踏み切れる日が来るのか、誰よりもオレが知りたかった。
ユキちゃんの指先が動いた。左耳の斜め後ろに軽い振動と鈍い音。ゴムボールを体育館の床にぶつけたときのような不明瞭な音は、運命が扉を開くのとは程遠かった。