※葦木場版ワンドロ&ワンライ投稿作品:お題「箱根学園エース11番」



 泉田にとっては二度目の、黒田と葦木場にとっては最初の、そして彼ら全員にとって最後のインターハイが始まろうとしている。
「どーした葦木場」
「ユキちゃん」
 受け取ったばかりのゼッケンを手にしたまま不安そうな面持ちでいるエースに黒田が声をかけると、葦木場はその表情を崩さずに「どうしよう」と呟いた。
「オレ安全ピン持ってない」
「ハァ?」
 んだよ、ンなことかよ……と黒田は大げさに肩を落とした。葦木場は「大事なことだよ」と主張する。
「このままじゃゼッケンつけられないよ」
「安全ピンは機材と一緒に持ってきてあるから心配しなくていいよ」
「ホント!?」
 泉田が助け舟を出すと、葦木場はわかりやすくほっとした顔を見せた。
「縫いつけろって言われたらどうしようかと思った!」
「レース前にか? どんだけめんどくせぇんだよ。……ったく、ゼッケンの重みでヘコんでんじゃねぇかと思ったら全然かよ」
「え? それはないよ。だってこれ布だよ?」
「物理的な問題じゃねぇよ精神の話をしてんだよ! 文字通りに受け取んなよ、押すな押すなって振ったらマジで押さないボケ殺しか!」
「まぁいいじゃないかユキ」
 二人の会話は一定のパターンに入ると際限なく続く。止めに入るのはいつだって泉田だ。
「葦木場だってわかってるさ。福富さんに約束したんだからね」
 箱根の山が雪に覆われる前に行われた追い出し壮行会の日、彼ら三人は真波とともに福富の前で誓ったのだ。王座奪還を必ず成し遂げると。
 そのときに胸に抱いていた番号は、いま手にしているゼッケンのそれではない。シングルゼッケンを逃したことは箱根学園の、昨年の番号を受け継げなかったことは彼ら自身の屈辱だった。
「一桁ゼッケンを取り戻す。それがボクたちに課せられた使命だ。その糧となるなら、ボクは喜んで二桁ゼッケンを背負うよ」
「つってもよ、どうせアシストやるんなら荒北さんと同じ番号つけたかったけどなァ」
「オレは割と好きだよ、この番号。エースナンバーだし」
 葦木場がつまんだゼッケンをひらひらと振りながら言った。それに書かれた数字は「11」。やはり屈辱の二桁ゼッケンだった。
「けど、やっぱ福富さんと同じ番号が良かったんじゃねぇのか」
「それは一番をつけられるなら良かったけど、あれって優勝者の番号でしょ? 去年うちが勝ってたら今年のゼッケン一番は真波だったんじゃない?」
「あ」
 それはそうだ。泉田と黒田は同時に声を漏らした。
 箱根学園に、前年の優勝者が次のインターハイにも出場したという前例はない。例年はインターハイ後に卒業する三年生エースが総合優勝を獲るのが常だったから、翌年のエースにゼッケン一番を引き継ぐことができたのだ。もし昨年に真波が勝っていたら、泉田はゼッケンの番号とそれに対応する役割の割り振りを考え直さなければならなかったかもしれない。
「どっちにしても一番ゼッケンはつけられない。なら一番に近い数字の方がオレはいいよ。真波には悪いけど」
「ま、結果オーライってことじゃねぇの。負けてわかることだって山ほどあんだろ」
 それは泉田も同感だった。昨年の敗北は真波を随分と打ちのめしたが、同時に多くのものを与えたはずだ。そのマイナスをプラスに転じさせた最大の功労者が、今年もともに走る自分たちでなく卒業していった山神であるということが、少し悔しくもあったが。
「それに、こっちの方が福富さんの数字って気もする」
「あ?」
 怪訝そうな黒田の様子には構わず、葦木場は歌うように言った。
「じゅういち、じゅいち。福富さんの数字」
「ダジャレかよ」
「けっこう真剣に考えてるよ」
 葦木場が珍しく真面目に反論する。
「オレは自分だけの力じゃなくて、みんなに支えてもらってるからエースとして走れる。みんなっていうのは今いる部員だけじゃなくて、卒業した先輩たちもそうなんだ。このゼッケンをつけてたら、先輩たちが三日間背中を押してくれるような気がする。そしたらオレはもっと速くなる。もっと踏める。そんな気がするんだ」
 一気に述べた葦木場が「変かな」とはにかむように笑ったので、泉田も微笑んで返した。
「いいや」
「良いこと言ってる気ぃすっけど、それつけて三日間はムリだろ」
「えっ!?」
 黒田の淡々とした返答に、葦木場は取り乱した表情で詰め寄った。
「なんで!?」
「……なんでっておまえ、ひょっとして忘れてんじゃねェだろうな」
 黒田は手を伸ばして、二十センチほど高いところにある鼻先へびしりと人差し指を突きつける。
「初日はそれでいいけどよ、二日目と三日目! おまえは黄色いゼッケンで走んだろうが!」
「ユキちゃん……」
「出来るかな、とか訊くなよ? 初日の分も二日目の分もオレがつけさせる。そんで三日目、イエローゼッケンつけたおまえをオレが先頭でゴールまで運んでやる。それがおまえのオーダーだろ? 塔一郎」
「アブ!」
 幼馴染の目配せを受けて、泉田は満足げにうなずいた。
「そうだよユキ。そして葦木場へのオーダーは」
「わかってるよ」
 エースはやわらかく遮った。
「オレの役目は三日間、箱根学園のジャージを最初にゴールへ届けること。出来ないなんて言わないよ。何があっても一位でゴールする。大丈夫」
 葦木場は黒田を、次いで泉田を順に見やった。凪いだ水面のように静かな目で。
「オレたちは強いよ。そうでしょ?」
 今度は無言でうなずきながら泉田は思った。これは誰だ。練習についてこられもしなかった気弱な洗濯係はどこへ行った。送り出されたレースで逆走事件を起こした惰弱な男はどこへ行った。無期限謹慎という檻はどこへ。
 泉田は己の肉体が震えるのを感じた。それは紛れもなく、強者に出会ったときのあの歓喜だった。その感覚に、昨年追い続けた背中を思い出す。
 新開さん、福富さん。あなたたちの目は正しかった。あなたたちの見出した男は、きっとエースとして最高の走りをしてくれるはずです。
 彼の脳裏には、葦木場がゴールゲートの下で二メートルの両翼を広げる姿がありありと浮かんでいた。




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