黒田さんを見失った。やばい。オレは脇の道路を迫ってくる気配を気にしながら、前方の暗闇に目を凝らす。
通り魔の話が皆の口に上るようになったのは三ヶ月ほど前からだ。最初は噂程度だったが、箱根学園の生徒にも被害者が出てからは周りの危機感も跳ね上がった。
寮生に向けて「外出はできれば複数人で」という通達が出るに及んでは非常にやりづらくなった。別にひとりで外出しても罰則はないが、寮長に知られるとあとで色々言われる。悪い人ではないのだけれど、そういうところは面倒だ。そう思っているのはどうやらオレだけではなかったらしく、オレを呼びとめた黒田さんは非常に面倒くさそうな顔をしていた。
「今ヒマか? 時間あんならコンビニ行かねぇか」
断るだけの理由をオレは持っていなかった。ちょうどシャーペンの芯が切れそうだったのだ。部屋に取って返すと必要なものをパーカーのポケットに突っ込み、黒田さんと連れ立って玄関を出た。自転車は部室だ。オレたちは寮から延びる坂をだらだらと下る。
「悪ィな、付き合わせて」
「いえ、オレもそのうち行くつもりだったんでちょうどよかったです」
「ひとりで出てくとアイツらうっせーからな」
ら、というのは寮長とおそらく泉田さんだろう。それぐらいは入部して三ヶ月のオレでもわかる。
「ひとりで外出られねェのは厄介だよな」
「はぁ、まあ」
「おととしはここまで厳重じゃなかったんだがな」
「え?」
「オレが一年の時も出たんだよ、通り魔。ちょうど今ぐらいの時期だ。まァ、そういう季節なんだろうな」
まるで風物詩か何かのように言う。
「初めて聞きました」
「割とすぐにおさまったからな。この近辺じゃ噂になったが、他のところじゃ大したニュースにもなってないんじゃねェか?」
黒田さんが一年の頃といえばオレは中学二年だ。寮生の中でも実家が遠い部類に入るオレの地元にまでは話が届かなかったか、届いたとしても受験なんてまだ先だと思っていたオレの頭には残らなかったかだろう。
「じゃあその通り魔が、また?」
「そう思ってるヤツもいるみてェだな、少なくとも寮長は」
坂が終わると目の前には広い道路が横たわる。コンビニまではまだ歩く。オレたちは左に折れて、車道とコンクリートで舗装された山の斜面に挟まれた歩道を進んだ。道幅は二人並んでも余裕があった。
「けど一年のときはさんざん言われた。小っちぇえガキおどかすみてーに。ひとりで出歩くな、でないと後ろから通り魔がやってきて」
「カッターで切りつけていく、ですか?」
「切りつけるだけならまだマシだけどな」
初めは浅い切り傷程度だったが、この前ついに死者を出した。別に拳銃や大ぶりなナイフがなくたって人は殺せるのだ。パーカーのポケットに突っ込んだ手を握りしめると、地を蹴る音が存在感を増した。
道路は車の通りもなく静かだ。そこに響く足音が三つ。ひとり分多い。
「黒田さん」
「前向いてろ」
ささやくように声を上げると鋭く制された。
「まだ距離がある。それに、あれが通り魔と決まったわけでもねェ」
「で、でも」
後方の足音はオレたちよりもペースが早かった。追いつかれるのも時間の問題だろう。
道はカーブに差し掛かっている。ここを曲がると山の斜面は終わり、歩道の向こうは鬱蒼と茂る雑木林になる。
「いったん林に入ってやり過ごしましょう。そのまま通り過ぎてくれればよし、もし追ってきても森の中なら撒けます」
黒田さんはオレの顔色を読み取ろうとするかのような間のあとで「そーだな」と言った。
「曲がって、向こうの死角に入ったら走るぞ」
「はい」
「道から林の地面まで意外と高低差あるから飛び下りるつもりでいけ。でねェと転ぶ」
「はい」
それからオレたちは何も言わずに歩き、コンクリートの斜面に隠れるようにして走った。林は飛び下りるというほどの高さではなかったが段差という呼称でおさまるほど低くもなかったので、着地した両足にはしびれるような衝撃を受けた。けれど、この位置では歩道から丸見えだ。急いでその場を離れ、木の陰に身を隠す。そうして隣を見ると黒田さんがいなかった。
ついてきていた足音はまだ通り過ぎていない。いつはぐれただろう。辺りを見回して、後方つまり道路寄りにはいないと判断すると、前方の暗闇に目を向けた。木の繁る林だ。もちろん街灯もなく、歩道の灯りがわずかに届く手前の数メートルより先は黒で塗りつぶされたように何も見えない。
黒田さん、と呼びかけようとした瞬間、足音が鮮明に聞こえた。スニーカーが通っている。すぐそこを。見つかるかもしれないから顔は出せない。オレは息を詰めて耳をすます。足音はやはり少し速いペースでオレの隠れた木の前を過ぎ、そのまま遠ざかっていった。その音がずいぶん小さくなってようやく息を吐き出すと、同時にオレを呼ぶ声がした。
「黒田さん!」
「おう」
「無事だったんですね!」
「たりめーだろ」
声は右前方から聞こえた。オレは木にぶつからないように注意しながらそちらへ歩を進める。
「いきなりいなくなるから、追いつかれて捕まったかと思ったじゃないですか」
「ハッ、ねーよ。ありゃ趣味でこの辺歩いてるだけの人だ。オレが一年の時からいる」
「一年の時から? じゃあやっぱりあれが通り魔じゃ」
「もっとねーよ」
話しているうちに通り過ぎたらしい。声の聞こえる方向が変わっていた。オレは左へ足を踏み出す。
「通り魔ってなテメェのことだろが」
ばきり。靴の下で枝が折れた。
「何言ってんですか」
「そのまんまの意味だよ」
「オレ一年ですよ。おととしは箱根に来たこともなかったです」
「おととしと今年の通り魔が同じだって誰が言った? だいたい手口が違いすぎんだよ。おととしの通り魔が使ってたのはハンマーだ。模倣犯にもなっちゃいねェ。一年空けて凶器を変えたって見てるヤツもいるようだが、そもそも今年の犯人はおととしの事件を知らないって考えた方が自然だろ」
「遠くの中学から来た生徒はオレじゃなくても、二年生にだっているじゃないですか。なんでオレなんですか」
「昔のオレに似てるから、っつったら信じるのか?」
「は?」
「いや、最終的にゃ勘だな。これが荒北さん……卒業した先輩な。だったら『血のニオイがする』とか言って速攻でわかったんだろうが、オレはそんな鼻よくねーからよ」
「勘って」
「けど、オレの勘は割と良いしおめーはツメが甘すぎる」
今度は奥に入りすぎたようだ。黒田さんの声は気付いたら後方から聞こえていた。
「自分がやったことのニュースはちゃんと見とくもんだ。警察は『刃物』としか発表してねェ。犯人以外がなんでカッターって言いきれる?」
オレはパーカーのポケットの中で手を握りしめた。滑り落ちかけたカッターナイフが手のひらに引き戻される。きびすを返して声のする方へ向かった。
「それで、黒田さんはその通り魔を誘って何をしようと?」
「決まってんだろ、おめェを止めんだよ」
「バレてるから自首しろってことですか」
「しねェだろ」
目ェ見りゃわかる、と黒田さんは吐き捨てた。そんなにわかりやすいだろうか。
「それに、されてもマズい。オレらはインハイを控えてんだ。勝たなきゃなんねぇインハイだ。部から逮捕者が出たので出場辞退なんざ冗談じゃねえ」
荒北さんの気持ちが今ならわかるぜ、と嘆く声が左前方から聞こえる。なかなか辿り着けないがだいぶ近付いている。
「つまり、これ以上は何もせずに逃げ切れってことですか」
「そう言ってやりてェが無理だ。オレにも予想つけられるようなヤツが、物的証拠も握ってるだろう警察の目をごまかせるとは思えねェ。自首されるのはマズいが嗅ぎつけられて捕まるのはもっとマズい。部から出して体面が保てるのは被害者だけだ。そうだろ?」
オレは足を止めた。だが林は無音にはならない。枝を掻き分け、草を払いのける音がする。オレがずっと立てていた音。獲物を探し、近付く音。
「おめーはちっとやりすぎたが、これで最後になりゃ捜査も打ち切られんだろ。安心しろよ、ヘマはしねェ。人の技術盗むのは得意なんだ。おめーのやり方もちゃんと引き継いでやるよ」
がさり。ひときわ大きな葉擦れの音が真後ろで鳴った。同時に首筋に冷たい感触。拳銃でも大ぶりのナイフでもない薄っぺらい刃。それでも人が殺せることを、オレはもう知っている。
「こんな風にな」
声は耳元から聞こえた。