※パラレル
ひとを待っているんです、と青年は言った。
「惚れた女か」
「惚れてはいないし女でもないです」
いたく背の高い男だった。人込みの中にあっても大層目立つと思われたが、昼の街中に彼を見かけたことはない。毎夜ここを通る私とは異なり、青年は日によってこの木の下にいたりいなかったりした。彼にも彼の生活といったものがあるのだろうが、その手の話は互いにしたことがなかった。
といっても私と彼がここで言葉を交わした日の数など両手の指で足りるほどだったので、別に青年が身の上にまつわる話を忌避していたわけではなく、たまたまその機会がなかったというだけなのかもしれない。かつて自分も通った道だというのに、この年頃の若者の心情は掴みがたいものだ。
「で、惚れているわけでもない男に何をしたいんだ」
「昔の恩を返そうと思って」
この年頃の若者にしては珍しい、と私は素直に感心する。義理だの人情だのが軽視されがちな時代だが、そうした心意気は残っているものなのか。
「恩を返すにもやり方は色々あると思うが」
「色々?」
「立派になった姿を見せるとか、稼いだ金で物を買ってやるとか」
「ああ」
「君はどうするんだ」
青年は小首を傾げて悩む様子を見せたあと、力の抜けたように木の幹に寄りかかった。道を挟んだ向こうには細い川が流れており、時間の止まったような水面に彼の視線が注がれていた。
「色々あるけど」
青年は静かに言った。
「相手がしてほしいことをするのが一番だと思います」
何一つ具体的な答えではなかったが、返すべき言葉も見つけられず、黙っていることしかできなかった。
まあそこまで焦るものでも、と青年は言った。
彼の待ち人はなかなか現れないようだった。しかし特段それに苛立つでも消沈するでもなく、ともすれば呑気とさえ見える風で、青年は今日もそこに立っていた。
「君はこの町の生まれか」
「はい、生まれたときから」
年恰好から見て、私がこの町を出た十年前にはこの青年も子供として街中を駆けまわっていただろうが、記憶の中にそれらしい姿は見つけられなかった。とはいえその頃ならば青年の背も人並み程度だっただろうし、他に彼を識別させるものがあるとすれば右頬のほくろくらいだったが、行きがかりの子供の頬を凝視する趣味は当時も今も持ち合わせていなかった。
「君の恩人というのも?」
「そうです」
「どんなひとだった」
「優しいひとです」
私が聞きたかったのはもっと外見的なことなのだが、彼の表情が今までにないほど嬉々としたものだったので口を差し挟めなかった。
「正義感が強くて、困ってる人がいたらすぐ助けに行くような……だから、オレのことも放っておけなかったんだと思います」
優しくて正義感が強くて十年前には子供だった年頃の青年を助けた男。そんなのはどこにでもいるようでもあったし、どこにもいないような気もした。
「ここで待っているより、探しに行った方が早いんじゃないか」
「ここじゃないとだめなんです」
きっぱりとした口調には並々ならぬ力がこもっているように感じられた。
「思い出の場所というやつか?」
青年は否定も肯定もしなかった。私は青年の顔、さらにその上で手を広げている木の枝へと視線を移した。青年の背よりもはるかに高い、天を衝くような大樹だ。登れば町の端まで見渡せそうな木は、逆に町のどこからでも見える。世に溢れる観光名所がそうであるように、目立つところは良くも悪くもひとにとって重要な場所になりやすいのだろう。
ようやく願いが叶いそうです、と青年は言った。
風の強い夜だった。丸い月の光が川の波立った水面を、青年の左半身を、大樹の太い幹を照らしていた。
「待ち人が来たのかい」
「はい、仕事がら異動が多かったんですけど、やっとこの町に戻ってきたみたいです」
「それは良かった」
月光を差し引いても、青年の目はきらきらと輝いているように見えた。
「もうじきここに来ます」
「なら、私は退散した方が良いか」
いやに確信めいた響きに違和感を覚えながらも言うと、青年はいつか見せたように小首を傾げて応えた。
「どうして」
「いや、さすがに余所者は」
「あなたに会わせるために待ってたのに」
頭上で木の枝がざわりと揺れた。この青年を初めて恐ろしいと思った。一刻も早くその場を去りたかったが、足元にはびこる太い根がそれを妨げた。
「あのひとの正義感は親譲りですね、きっと。それに優しいところも。木なんて枝が一本折れたところで枯れるはずないのに」
青年は満月にあてられたようによく喋った。見開かれた目は鋭い銀色に光り、まばたきが極端に少なかった。
「オレずっと考えてたんです。恩を返したい人がいて、でもそれがもう出来ないってなったときにどうすればいいかって。オレ頭よくないから時間かかったけど考えたんですよ、あのひとに返せないならあのひとの家族に返そうって。だからずっと待ってたんです」
そうだ、彼は一度も「恩人を待っている」とは言わなかった。
青年は私の腕を引き、大樹の幹に沿って歩かせた。冷たい手だった。さっきあれほど邪魔をしてきた根が、今はおとなしく私の足に踏み入られるのを待っていた。
「それで、あのひとの家族が何をしたいかっていったら、やっぱり無念を晴らすことだと思うんです」
半周ほど廻ったところで青年はしゃがみこみ、つられて私もその場にひざまずく形になった。
「ほら、あれ」
彼は二歩ほど先に横たわっている根を指さした。
「懐かしいでしょう?」
風が私たちに向かって吹きつけ、頭上の枝がまたざわざわと鳴った。彼は手を離して立ち上がった。
「あなたが置いていったひとですよ」
「何をしている?」
懐中電灯のものと思しき人工的な光が、青年の指さしたあたりを照らした。のろのろと振り向くと、そこには老境に差し掛かろうかと思われる男が立っていた。制服から一目で警官だとわかる男の顔立ちには見覚えがあった。父親だ、と直感した。
光の先、交差した根が抱くように押し頂いたされこうべの。
私が十年前に殺した男の。
青年はもうどこにもいなかった。