箱根学園の男子学生寮は、文字通り男しかいない割に季節の行事に敏感だ。寮生がこぞって実家に帰る正月は別として、五月になれば屋上からこいのぼりがたなびき、九月は食堂の花瓶にすすきが活けられ、十月の終わりには寮のそこかしこで仮装と菓子のやり取りが行われる。したがって、十二月のこの時期に談話室の片隅にクリスマスツリーが設置されるのは当然の流れといえた。
「だからってなんでオレらが」
「去年もオレたちがやったからだよバッシー」
寮の倉庫として使われている一室でぼやくと、物陰から現れた葦木場が答えた。銅橋の隣にやってくると、彼がそうしたように抱えた段ボール箱を足元へ置く。
私立高校の財力が作用したのか、二人の前にあるプラスチック製のツリーは大きかった。モミの木を模した部分だけでも標準的な男子生徒の背より高いだろうそれが、レンガの花壇のような土台に乗っているので、恐ろしいことに頂点が銅橋の目より高い位置にある。このツリーが何年前から寮にあるのかは知らないが、購入に踏み切った人間は金をかけるところを完全に間違ったとしか銅橋には思えない。それでも葦木場の背の方が高いというのもある意味恐ろしいことではあったが、ともかくそれだけの大きさなのでおおよその生徒では飾りつけるのにも苦労する。そこで、踏み台なしでも上の方まで手の届く二人に白羽の矢が立ったのが昨年の話であり、今この休日の真昼間に駆り出されている原因でもあった。
「去年やったんだから今年は別のヤツにやらせろって話だよ」
「うーん、でも踏み台ひっぱり出すのも面倒だろうし」
踏み台も倉庫内のどこかにあるはずだったが、物が散乱し山積しているこの状態では確かに探すのにも手間がかかりそうだった。けどよ、と銅橋は不満をあらわにする。この手の理不尽や不公平は彼のもっとも嫌うところだ。
「こういうときこそ寮長の出番じゃねえのか」
「前は代々寮長の役目だったみたいだよ」
「前ってどれくらいだよ」
「オレが入ってくるまで」
「アァ!?」
銅橋は吼えた。
「押しつけられただけじゃねえか!」
「そうかな」
「どっから見てもそうだろ」
むしろ他にどう考えろというのか。葦木場の人の好さはときどき心配になる。
「なんで最初に断んなかったんだよ」
「オレ一年で相手三年だよ?」
断れない、というのだ。悲しいかな運動部の性といってもいい。それでも銅橋は相手が間違っていると思えば噛みつくが、葦木場がそういう気質でないことはよく承知している。
「先輩たち受験勉強で忙しいって言うし」
「あんただって今は受験生だろうが!」
「オレは息抜きになるからいいよ」
銅橋は乱暴に前髪をかき上げた。のれんに腕押し、ぬかに釘、といった言葉の意味を、いま身をもって学んでいる気がする。そもそも銅橋と葦木場では感情を刺激されるツボが違うのだ。そう思うしかない。
「あ、でも一人でやるのはキツかったなぁ。大変ってわけじゃないけど」
葦木場の言いたいことは銅橋にもなんとなく理解できた。ツリー自体は見た目の印象ほど重くないし、飾りつけも基本的には枝に引っ掛けるだけなので、作業そのものが重労働というわけでは全くない。ただ、手数の多い単純作業なだけにひたすら面倒なのだ。二人でもそうなのだから、一人で黙々とかかる場合のことなど、想像するだに億劫だった。
「バッシーがいて助かったって思ったよ、去年は」
「去年は」
おうむ返しにすると、葦木場はにこりと微笑んだ。
「今年は、大っぴらな理由で二人っきりになれるから嬉しいなって」
葦木場と銅橋が付き合い始めたのはこの夏の終わりだった。
だからこれも悪いことばっかりじゃないよ、と言って、葦木場はツリーの根元にしゃがみこんだ。
「ツリーはオレ運ぶから、バッシーはそこの箱ふたつ持ってきてくれる? ……バッシー?」
顔赤いよ、と言われても、誰のせいだと思ってんだよ、とは返せなかった。
段ボール箱には細いコードがごちゃごちゃと押し込まれていた。黒い線のそこかしこから、透明な棘のようなものが突き出ている。電飾だった。
「それは最後だね。先にこっち付けないと」
談話室に運び込んだツリーの根元で葦木場が手をつけたのは、銅橋が開けたものより高さも奥行きもある箱だ。そのまま開くと、中には見るからにきらきらとしたオーナメントが入っている。
ラッピングされた、手のひらに収まる大きさのギフトボックスやキャンディを模しているのだろう縞模様のステッキ、そしてそれらの隙間を埋めるようにぎっしりと詰め込まれた球状の飾りが見えた。金属じみた輝きを宿していたりミラーボールのようであったりと材質は様々で、この球体が何を表しているのか、銅橋にはまったくわからない。しかし葦木場はそれらを無視し、手を突っ込んで中身を引っかき回している。ややあって彼が掴み出したのは金色の星だった。同じ形のオーナメントは他にいくつもあったが、葦木場が手にしているものはひときわ大きかった。そして他の飾りと違い、枝にかけて吊るすための輪が上部についているのではなく、星の下部から筒状の部品がのびていた。
「これが一番上の星。あとに回すと付けるときに下の飾り落としちゃうかもしれないから、最初に付けるのがいいと思う」
そう言うと葦木場は立ち上がり、天井を向くツリーの先端に飾りの筒をはめ込んだ。大抵の生徒が踏み台なしにはできないことを葦木場はやすやすと行う。むろん、この高さなら銅橋にもできることではあったが。
「あとは別に位置とか決まってないから、上の方からどんどん付けていけばいいよ」
それを皮切りに、二人でツリーの枝を賑わせていく。
「っつっても、上に付けすぎたら倒れるだろこれ」
「そうだね、バランスも見ないと」
「裏側はいいのか」
「壁際だから、後ろはそんなになくてもいいよ。余りが出たら多少って感じかな」
飾りの量は多かったが、さすがに二人がかりとなれば進みが早い。あっという間に箱の中身は三分の一程度にまで減った。
「なァ」
「ん?」
「葦木場さん去年こんなに喋ってたか?」
それが銅橋には先程から疑問だった。彼らの関係がこの一年で変化したこともあるが、それを差し引いても昨年はそこまでこまごまとした指示は出されなかった記憶がある。そもそもツリーを飾るだけのことに大した指示など元より必要とは思えなかったが、今年の葦木場は随分と口数が多かった。
「ああ、うん。一応、引き継ぎ? のつもりだった」
葦木場は箱を探る銅橋に背を向けたまま言った。空いている枝を探してか、首が左右に振れる。
「来年はオレいないから、バッシーにやり方覚えといてもらわないとって思って」
手が一瞬止まったのを見られないところにいて良かったと思った。掴みそこねた、彼のほくろと同じ形のオーナメントが手のひらから転げ落ち、箱の底に沈んでいた球体に当たって小さく跳ねる。
葦木場が卒業するということを、これまで考えてこなかったわけではない。むしろ彼らの関係を踏まえて真剣に考えたといえる。考えたうえで、受け止められたと思っていた。だからこそ、真波とともに泉田と黒田から部の運営を引き継いだときにも落ち着いていられたのだと。だが、それは所詮「つもり」に過ぎなかったと思い知らされた。
葦木場が卒業する。それは彼が学校や部やレースからいなくなることだけではなく、寮の廊下や食堂や大浴場といった日常のすべてから欠け落ちるということだった。意識してしまえば否が応でも目に入る二メートルの背中。それがただの風景の一部だった頃を、銅橋はもう思い出せない。そのことを恐ろしいと思った。
銅橋は嘘を好まない。根っからの偽りはもちろんのこと、口にした約束の類が結果的に嘘になることも嫌う。葦木場の性格は、銅橋のその愚直さとある意味もっとも相性のいいものだった。嘘やごまかしが下手で、ひとを陥れることなどきっと考えもしない。こうと決めたことは必ずやり通す。守れない約束はしない性質なのだと銅橋は思っている。
不確定な未来のことはいたずらに口にしない。それがいつか銅橋の嫌う嘘になるかもしれないのなら。葦木場が、卒業した後の自分たちについて語ろうとしないのは、きっとそういうことなのだ。
それを彼の不実とも弱さとも思わなかったし、先の見えないことに怯えもしなかった。ただ、自分の中に見つけてしまった執着に近い感情が何よりも恐ろしかった。
電飾のコードは二本あった。絡まると厄介なので、まとめてツリーの表面に巻き付ける。オーナメントと重ならないようにコードを上下にずらしたり後ろに回したりといった微調整を済ませると、近くのコンセントに繋げたスイッチを入れる。目の前で灯った青と白の光に、そういえばこういう色だったなとようやく思い出した。レギュラーのサイクルジャージを彷彿とさせる色合いだ。
「あ、ちゃんと点いたね。よかった」
コンセントそばの床に座り込んだ葦木場がツリーを振り向いて言った。光ることを確認すれば飾り付けは終わりだ。残りの作業は寮長への報告くらいだろう。
「やっぱりこれ巻くのは一人じゃ大変だと思うから、来年も誰かに手伝い頼んだ方がいいよ」
言いながら葦木場はコードの途中にあるスイッチ部分を壁とツリーの間に押し込む。二人で半周ずつ分担できた方が良い、というのだ。
「真波……は自宅生だから無理か。悠人とか」
「葦木場さんは、」
思考を置き去りにして声が滑り出た。葦木場の提案は妥当なところだった。新開は兄同様にマイペースだが先輩に逆らうことはしないので、大人しく頼まれてくれるだろう。交換条件を出されたとしてもおそらく食べ物だ。わかりやすい。だが、問題はそこではないような気がした。
「オレが新開をあんたの代わりにしたらどうすんだ」
言ってから、しまったと思った。自分でも何故そんなことを口にしたのかわからない。案の定、葦木場は目を見開いてぱちぱちと瞬かせていた。
「なんでもねェ」
「え」
「忘れろ」
斬って捨てるように言った。自分の発言の馬鹿らしさは銅橋自身がよくわかっている。来年の手伝いが新開だろうと真波だろうと、まだ見ぬ来年の一年生だろうと今はどうでもよかった。代わりになどなれるはずがないのだから誰だって同じだった。
「バッシー」
立ち上がった葦木場は銅橋の頭に手を置いた。彼以外にはありえない高さから、長い指がカラーリングで傷んだ髪の間を滑っていく。この大きな手が掴んだあとに残された穴を、他の誰が埋められるというのだろう。
「そんな顔しないでよ」
「どんな顔だよ」
葦木場は答えなかった。困ったように眉尻を下げて、泣き出した子供をなだめるような微笑みだけを浮かべていた。視線の先を映して色を変える透き通った瞳は暗い緑色に潤んでいる。銅橋の髪の色でも、その背後のツリーの色でもあったが、どちらを見ているかは聞かなくてもわかった。
「好きだよ」
この一瞬が永遠でないことを恨んだ。唇の熱が移る暇さえなかった。
冬の日暮れは早い。寮長への報告を済ませ、ついでに空の段ボール箱を戻しに倉庫へ向かうと、もう日が傾いていた。
「けっこう時間くっちまったな」
「そうだね。まあ、でもこれで片付けは免除してもらえるんだし」
クリスマスの夜には寮でささやかなパーティーが開かれる。もちろん、実家に帰っていたり他に予定があったりで欠席する者もいるが、寮生の参加率は比較的高い催しだ。その後片付けのときにツリーも合わせて撤去されるのだが、二人は今日の労により参加者の義務を免れることになっている。それも昨年と同様だった。
倉庫の中は昼間と同じように薄暗かったが、太陽の位置が変わったせいかカーテンが向こう側の光をはらんだように輝いている。荷物の隙間をすり抜けてそれを開けた葦木場が「すごい」と声を上げた。
窓のすぐ外は箱根の山で、木の根や落ちた葉や枝が散らばっているだろう地面は雪に塗り込められている。足跡ひとつなく質の良い絨毯のようにすら見える大地と雪の塊をあちこちに載せた木々を、地平線に向かう太陽が鮮烈な橙色に染めていた。
「きれい」
葦木場は鈍感に見えるが物事の機微を繊細にとらえる目を持っている。芸術家肌なのだ、と銅橋は思う。事実、彼は進路をそちらの方面に定めている。高校を卒業したら家を出るという。実家はまたいつ父親の転勤が決まるかわからないからだと聞いている。
どこへ行くにせよ、来年の彼が住むのはこの寮ほど山の中ではないだろう。こんな景色を見ることは、きっとない。
「バッシー」
銅橋に向き直った葦木場が窓ガラスに頭を預ける。こつりと軽い音がした。陽光に照らされて、髪も瞳も輝くようだった。
「これからの話をしてもいい?」
「……あァ」
来た、と思った。いつか来ると思っていた。目に映るものを綺麗だと言った、その次に切り出してくるのが彼らしいと思えた。
「オレ卒業したら一人暮らしするんだ」
「知ってる」
「場所は決めてないけど、多分ここからだと実家よりも遠いところ。バッシーが来るのは、ロードがあっても難しいと思う」
身体の距離が遠くなれば心も離れやすくなる、と聞いたのはどこでだったか。離れて失われる前に自ら断ち切るのもある意味きれいな終わり方だと考えたことが、銅橋にも何度かある。けれど彼の中に巣食う臆病に近い希望が、それを言い出すことを許さなかったのだ。
そこまで考えていた銅橋は、続く言葉に面食らった。
「だから、会うときはオレがこっちに来るよ」
想像していたものと違う。もしかして、これは別れ話ではないんじゃないか。
「バッシー、聞いて」
「聞いてるよ」
「頻繁には難しいかもしれないけど、免許取れば多少は楽になると思う。普段はそうする。だから、これはオレのわがままなんだけど」
葦木場が窓から頭を離す。瞳の輝きがわずかに薄れる。その中に濃い緑が混ざる様を銅橋は黙って見ていた。心の奥を見透かすような目をもつ男。部でただ一人、銅橋を見下ろす男。
「クリスマスは、外泊届出して。オレのとこ来て。大っぴらな理由がなくても、オレはバッシーと二人でいたい」
そして嘘の苦手な男。葦木場の言葉が彼にとっての真実ばかりであることを、銅橋はいやというほど知っていた。
「それで、オレにはバッシーの代わりなんていないから、できればバッシーも、悠人とかを代わりにはしないでくれると嬉しい」
いつか、この瞬間が過去になったことを恨むときが来るのかもしれない。永遠のないことを呪う日が訪れるのかもしれない。だが、今このときの葦木場が銅橋を無二の相手だと言ったこと、そして銅橋が葦木場を同じように感じたことは確かに真実だと思った。それが嘘になる日は、きっと一生こない。
銅橋は視線を窓の外に向けた。彼らを照らす光は葦木場の髪の色に似ていた。
「……忘れろっつったろーが」
「無理だよ、オレ心臓止まるかと思ったんだよ?」
「大袈裟すぎだろ」
「バッシーはわかってないよ」
「何を」
「二人でいるとき、オレのアタマの中でどんな曲が鳴ってるか」
それは一生わからないと思った。「聴こえる?」と言われても、押し当てた耳には心臓の音しか聴こえないのだから。
太陽もだいぶ地平線に沈んだらしく、空が暗くなり始めている。
「英語だと恋人のことをバレンタインって言うらしいけど、どっちかっていうとバッシーはクリスマスって感じだよねえ」
むしろツリー、と葦木場は銅橋の髪を掬い上げる。何を指してそう言っているかは明白だ。
「馬鹿にしてんのかあんた」
「してないよ、オレ好きだよクリスマスツリー。正月飾りの方が派手だとは思うけど」
「基準がわかんねェよ」
「プレゼントもらえるよ?」
「飾りの話じゃねェのかよ」
「寮は煙突ないからサンタさん来られないんだよね」
「聞けよ! あとあんたそれ去年も言ってたからな!?」
「そうだっけ?」
「そうだよ!」
高校生にもなって大真面目にそんなことを言うので驚愕したのを覚えている。この調子だと一昨年も同じことを言っていたのかもしれない。
「でもバッシーは良い子にしてたから、きっとプレゼントがあるよ」
「もうちっとオレにわかるように言え」
「パーティーが終わったら部屋の鍵開けといて」
直球で聞きすぎた。失策に内心舌打ちしたが、普段からこうであれば会話ももっとわかりやすくなるだろうという思いも拭えない。
「……靴下は準備しねェぞ」
「あれ、バッシー脱がされるの嫌いじゃない?」
そういうことじゃない、と言いたかったが声が出なかった。外は夜になりかかっており、眩しいほどだった光も既にない。
もうクリスマスのたとえを否定できないと思った。緑と赤。今はただひたすらに頬が熱い。