裏テーマは「葦木場くんのいる日常・だいたい1000文字以内」でした。
1. 真波くんと
2. 新開さんと
3. 悠人くんと
4. 荒北さんと
5. 銅橋くんと
6. 黒田くんと
7. モブ男子と
***
葦木場くんと真波くん
いつものように辿り着いた山頂には先客がいた。それ自体は珍しいことでもないが、ここで彼に会うのは初めてだ。
ロードを下りて歩み寄ると、彼も気付いて振り返った。
「真波、……か」
「おはようございます」
「おはよう」
葦木場はレース前のようにサドルにまたがったまま、上半身をハンドルにもたせかけていた。
どういうわけか葦木場は真波に対しては先輩らしさを強調したいらしい。時々とってつけたような語尾が混ざる。
それが真波には可笑しいのと同時に疑問でもあった。後輩だからといって口調を変える必要などあるのか? と。
「今朝いちばんの山頂の景色、とられちゃいましたね」
「真波はいつもこの時間に上ってるのか?」
オレは初めてだ、と続ける彼はあまり朝に強くないらしい。真波は黒田が前にぼやいていたのを思い出した。
「朝起きたら坂が呼んでる気がして」
「それでいつも遅刻するんだ……な」
葦木場が笑いながら身を起こすと、それだけで視線の高低差はあっさり逆転してしまう。
「おまえがレギュラーじゃなかったら強制退部か、……謹慎ぐらいにはなってるぞ」
きんしん、という四文字を少し言いにくそうにした。彼は真波が入部したときには長い謹慎を言い渡されていたのだ。
正直なところ、葦木場の気持ちなど真波には一切わからない。体格のせいで伸び悩んだことも、そこから這い上がったことも、レースでパニックに陥ったことも、そして無期限謹慎を命じられたこともないからだ。
しかしそれは葦木場にとっての真波も同じはずだった。一年生でインターハイのレギュラーとなり、総合優勝を賭けた勝負に負け、二年生でエースクライマーのゼッケンを背負って走る。葦木場だけでなく、箱根学園の誰一人として経験していない道筋だった。
結局、彼らはまだ互いの距離を掴みきれていないのだ。こんな風に朝もやのかかる山頂で並ぶように。
「葦木場さん、今クラシック鳴ってますか」
「ああ、鳴ってるぞ」
そう言った葦木場がまた笑ったとき、もやが少し晴れた気がした。
***
葦木場くんと新開さん
練習時間が終わっても自転車競技部の部室には煌々と明かりがついていた。新開が戸を開けると、予想通りの後輩が声を上げる。
「新開さん!」
洗濯物を片付けて練習日誌を書いていたらしく、その手にはシャープペンシルが握られていた。
「体調が悪いって聞いてますけど、大丈夫なんですか」
「あぁ、まあな」
しばらく練習に顔を出せていない理由を、福富はそう説明しているのだろう。葦木場も、そして他の部員も、おそらくはそれを疑っていない。
葦木場は時おり気遣わしげな視線を向けながら日誌を書くのを再開した。ペンの走る音がかすかに響く。
部室の奥には部員のロードがずらりと並んでいる。新開は自らのサーヴェロの前にしゃがみこんだ。長く待たされたままのそれも、部のメカニックによってきちんと手入れがされているようだった。
一か月、と心の中でひとりごちる。彼が自転車に乗れなくなってから一か月が経とうとしていた。
あの日連れてきた子ウサギはすくすくと育っている。それを見るにつけ、その母親のことを思い出さずにはいられない。彼女の命を奪った己の『脚』のことも。
「調子はどうだ」
「悪くはないです。……今日は、Cコースで一位になりました」
ためらいがちな声音が答える。どれだけ良い結果を出したところで、彼は公式レースには出られない。
「そうか」
ふと、今も弾むように走れているか、と尋ねたくなった。しかし口に出すことはしなかった。いまやローラーにすら乗れない自分に、それを問う資格はないと思ったからだ。
公式レースに出られない葦木場と自転車に乗れない新開の間には大きな隔たりがある。
「葦木場」
「はい」
それでも、ほんの少しだけ何かが似ているような気がした。
「自転車は、楽しいよな」
「……はい」
ペンの音はもう止んでいた。
***
葦木場くんと悠人くん
渡り廊下で、泣いている女の子とすれ違った。女の子といっても、上履きの色から察するに先輩だ。
そのまま進むと、呆然とした感じで立ち尽くしている葦木場さんがいた。自分で言うのもなんだけどそこまで頭の悪くないオレは、それで大体のことを把握した。
「モテる男はつらいですね」
声をかけると、葦木場さんはオレを見て溜め息をついた。
「悠人に言われると冗談にならない」
「オレは適当にあしらってますけど、葦木場さんそういうの慣れてないでしょ」
今でこそ女子からの人気が高い葦木場さんも、中学の頃はそうでもなかったみたいだ。誰かに聞いたわけじゃなくてオレの勘だけど、ほぼ確実に当たっていると踏んでいた。
告白を受けるたび真剣に悩んで真剣に返す。オレにはもう難しくなってしまったそれを、葦木場さんは今でも当然のようにする。いくら悩んだところで、彼の出す答えはいつも同じなのだけど。
「さっきの人、何か包み持ってたみたいですけど、調理実習ですか?」
「うん。そういうのは受け取らないようにしてるって言ったら泣かれた」
「はは、オレもやったことありますよ、それ」
そう言って笑うと、葦木場さんも困ったように眉を下げながらも笑ってくれた。
手作りの品なんて何が入っているかわからないのだから、断るのは賢明な判断だと思う。それでも、女の子に泣かれるのは気分のいいものではない。
「ワルい男ですね、オレたち」
「手当たり次第つきあうよりずっといいさ。……って、新開さんなら言うんじゃないかな」
「あー、隼人くんもワルい男でしたね、そういう意味じゃ。ロード乗りはワルい男ばっかってことですかね」
「自転車に一途なんだからいい男だよ、新開さんも悠人も」
「葦木場さんもっすね」
ありがとう、と返した葦木場さんの顔は、確かにワルい男には見えなかった。
***
葦木場くんと荒北さん
購買で買ったパンを携えていつもの裏庭に向かうと、かすかな歌声が耳に入った。歌詞はなく鼻歌のようだったが、伸びやかで決して下手ではなかった。問題はその声の主がどうも荒北の目的地にいるらしいことだった。
荒北は昼休みに人と食事をともにしたがらない。それはひとえに裏庭を根城にする猫のためだ。
彼が意外と小動物に甘いことは本人が思っている以上に知られているのだが、それでもわざわざ猫一匹のために裏庭まで出向き、たまに餌までやっているところなど見られてはプライドに関わる。少なくとも当人はそう思っている。
ここで荒北に与えられた選択肢はふたつしかない。すなわち、行くか戻るか。即座に後者を選んできびすを返しかけたが、その足が思わず止まった。
植え込みの向こうに相手の頭が見える。植え込みといっても高さはなかなかのもので、ベンチに座ってしまえばたいていの人間は頭まで隠れてしまう。その高さを超えるほど上背のある生徒など、箱根学園には数えるほどしかいない。そして、今まさにそこにいるのはその中でも荒北の見知った後輩だった。
「葦木場ァ、おまえ何してんだよ」
「うわぁっ!」
歌声がひと段落するのを待って声をかけると、後輩は大袈裟なほどに驚きながら振り返った。
「あ、荒北さん……!」
「ンだよ」
取って食いやしねェよ、と言ってやりたくなるほどのうろたえぶりだ。
「き、聞いてましたか」
「あー、さっきまでの歌ァ?」
「うああああ」
呻くように言うと頭を抱えてしまった。いささか大仰だとは思ったが、おそらくは猫に構っているところを見られた自分と同じような気持ちなのだろう。
と、そこで初めて葦木場の膝の上に黒い塊が乗っていることに気付いた。目を閉じたまま微動だにしないそれは、間違いなく荒北が目当てにしていた猫だった。
「ソイツ、どうしたんだよ」
「え」
ようやく顔を上げた葦木場は、彼の視線が指すものをすぐに理解して顔をほころばせた。
「ここに来るまでずっと後ついてきて。ごはん食べようと思って座ったら乗っかってきて寝ちゃいました」
「ンだそれ」
すさまじいまでの懐かれ具合だ。近寄っても逃げられなくなるまで二ヶ月、やった餌を食べるようになるまで半年かかった荒北からすれば異次元の話に思える。
この猫畜生が。内心毒づいても、猫はどこ吹く風で眠っている。荒北はからかう声音で訊ねた。
「で、おめーは猫チャンに子守歌うたってたワケ?」
「気持ちよさそうに寝てるの見てたら、こっちも気分良くなるじゃないですか」
まだ照れくさいのか、ばつが悪そうに答えた葦木場に対する認識を、荒北は密かに改める。
歌声は意外に悪くない。思ったより表情がころころ変わる。そして、小動物に優しいやつは悪いやつじゃない。
「おめー、将来ペットショップにでも就職しろよ」
「え、どうしよう、何か資格とか取った方がいいですかね。……そういえば、荒北さんはなんでここに?」
「ウッセ」
***
葦木場くんと銅橋くん
入部して二か月で、部室に入るときは身をかがめることを覚えた。そうしないと入口に頭をぶつけるからだ。
「一年銅橋、入りまァす」
今日の鍵当番はオレだ。いま開けたばかりの部室には当然誰もいない。だから名乗らなくても咎めるヤツはいないが、もう習慣になってしまっている。
部活の開始までにはだいぶ時間がある。ロードの並ぶ部室の隅に足を向けかけたとき、入口から鈍い音がした。
「いてっ。……二年葦木場、入ります」
今度は慎重に背を丸めて入ってきた。オレよりデカくてオレより一年長くこの部室と付き合っているはずなのに、未だに葦木場さんは頭というかデコをぶつけない方が珍しいという。布でも貼るかと泉田さんが大真面目に悩んでいた。
「あれ、バッシーだけ?」
「っす」
何がきっかけでこんな妙なあだ名で呼ばれるようになったのか、オレも知らない。なんだバッシーって。やたら可愛らしくてオレの柄じゃねェ。そう抗議したところで「バッシーはバッシーだよ」の一言で片付けられてしまう。そのやり取りを三回したところでオレは諦めた。
「ああ、鍵当番か。ローラー回すならオレも一緒にやっていい?」
「……うっす」
散々ぶつけてる割にこの人は頭の回転が意外と早い。黒田さんのツッコミが時々追いつかなくなるレベルのド天然だが察しのいいところもある。オレが葦木場さんを邪険にしないのはそういう理由だ。
オレが先輩に刃向かって何度も強制退部を食らっているのを知らないはずはないのに、葦木場さんはオレを普通に扱う。妙なあだ名もその「普通」の一環なのだ。そう思ったら文句なんて言えるわけがなかった。
だからオレも葦木場さんを普通に扱おうと決めている。無期限謹慎なんてなかったように。
「今日はハンドル壊れないといいね」
ほら、また。オレが「壊す」んじゃなくハンドルが「壊れる」って言った。それが無意識だとしても、その僅かな違いが泉田さんとは別のベクトルでオレを救う。
こみ上げる気持ちをごまかすように自分のロードをローラー台にセットした。思ったよりも大きな音がして、葦木場さんが目を見開く。
「すんません」
「バッシーは元気だねー」
さすがにそれは違うだろ、と黒田さんよりは控えめにツッコんだ。
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葦木場くんと黒田くん
ばたん、と音を立てて右隣のロッカーが閉まる。そちらに視線をやると、しゃがみこんでいた葦木場が身を起こすところだった。上のロッカーは珍しくきちんと扉が閉められていたので、頭をぶつけることもなくすんなりと立ち上がる。
二メートルを超える彼が下段のロッカーを使うのは明らかに不自然で、まさしく身の丈に合っていなかった。大きな体を縮こまらせて荷物を漁る葦木場に、見ているだけで窮屈だと何度伝えようとしたかわからない。上の段を使っている真波と代えてもらえ、とも。
しかし黒田がそれを口にしたことはなかった。言ったところで葦木場は「大丈夫だよ、ユキちゃん」といつもの遠慮がちな笑顔を浮かべるだけだろうとわかっていたからだ。
「ユキちゃん、どうかした?」
「……なんでもねぇよ」
優しすぎんだよ、おまえは。押し付けられた洗濯係にも下段のロッカーにも無期限謹慎の処分にも、文句ひとつ言わないで。たまには愚痴ぐらい吐けよ。聞いてやるよ、エースを支えるのがアシストの役目なんだから。
そう言ってやりたかったが、やはり黒田は何も言えなかった。それが葦木場の望むことではないと、きっと誰よりも知っていた。
「拓斗ォ」
「何?」
「おまえ、今いちばん欲しいものってなんだ?」
彼の望むものを知りたかった。エースとアシストの距離はきっと誰よりも近くて遠い。知ったつもりではなく、確かなものとして知りたかった。
「どしたの急に」
葦木場はゆるく笑う。そしてはっきりと言った。
「インハイの総合優勝、だよ」
ああ、やっぱり自分は誰よりも知っていたのだ。
***
葦木場くんとモブ男子
帰宅部ではあるが体育の授業は好きだ。最近はバスケが多くて嬉しい。
味方のカットしたパスがこちらに飛んできた。キャッチして、すぐにドリブル。目指すは反対側のゴールだ。
バスケは得意な方だから、やる気のないディフェンスなら余裕でかわせる。そうしてコートの中央を過ぎたところにそいつは現れた。
一言でいうならまさに壁だ。腰をかがめているから二メートルはないだろうが充分でかい。やっぱり約二メートルの壁がオレの前に立ちふさがっていた。
葦木場の長身は、味方にいれば心強いが敵側にいると厄介だ。横を抜こうにもリーチが違いすぎて止められるのは目に見えている。味方にパスを回そうとしたところで、こいつの腕の長さなら簡単に掠めとられてしまうだろう。どうしたらいい。オレはなす術もなくその場でボールを叩き続ける。
良い位置に味方は上がっていないか、あるいは叩き落されるのを覚悟でロングシュートを狙うか。周囲に視線を走らせて、また戻す。そこでようやく葦木場の顔を正面から見た。正確には身長差のせいで斜め下から見上げた、だが。葦木場はまっすぐにオレを見ていた。その口が小さく動く。
「ごめんね、――――」
ホイッスルが鳴ってコートの緊張が緩む。試合終了。接戦でオレたちの負けだった。センターライン沿いに整列して礼をする。今度はオレたちのチームが審判だ。連続で試合をする相手のチームはさっき礼をしたのと同じ場所に立っている。その中でも葦木場はひとり飛び出して見えた。感情の読み取りにくい、いつも通りの顔だ。
試合終了間際の葦木場を思い出す。オレに張り付いて小さくつぶやいた声。
「ごめんね、ここは抜かせないよ」
あのとき確かにあいつはそう言った。爛々と輝く目をして。
普段の振る舞いからは想像もつかないような、目前の勝利を逃すまいと貪欲にしがみつく獣を思い起こさせる様子。
それを思い出して、あいつが伝統ある自転車競技部でエースを張っている理由を少しだけ理解できた気がした。