・即興二次小説(http://sokkyo-niji.com/)にて未完で投稿した話の加筆版
・お題:静かな処刑人
・浮気ネタを含むため注意


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 いっそ罵ってくれればいい。そう思うのも何度目だろう。
 隣に立つ白石は、千歳の思いなどつゆ知らずといった風で信号機の赤を眺めていた。
「何度目やろな」
 だから、この問いも千歳の心情とは全く関係ないのだ。そして千歳は、それが指す意味を正確に知っている。もうずっと前から。
「覚えとらん」
「ひどい男やな」
 昼には点いているかの判別すら難しい信号も、この時間になると妙に明るい。いつもこういう風に見えればいいものを。
 赤い光。これ以上先に行ってはいけない。いっては、いけない。
「あっちさんも似たようなもんたい」
「本気やないのはそうでも、自分ほど派手にはせんやろ」
 車も通らないのに、交差点の信号はなかなか変わらない。何一つ動きのない街並みは整然としていて、傍らに立つ彼の冷静さを思わせた。
 何度繰り返しても同じように千歳を連れて、同じように信号が色を変えるのを待つ。歌うような声音で告げる。
「俺は数えとる。今日で23度目。女も23人目」
 仏の顔はとうに尽きた。聖書のページはあとどれだけ残っているのだろう。

 向かいの信号機は赤い光を鈍く投げかけている。頭上にも同じものがあるはずだが、どうにもそうは思えなかった。今にも滑り落ちようとするギロチンの刃、あるいは先端に輪を作った縄が首を狙っているという方がまだそれらしい。そう思うのが23度目の罪悪感のせいなのか、千歳にはわからなかった。
 つと、白石がこちらを見た。
「惨めな顔しとる」
 先程とは打って変わって、淡々とした声だった。
「そんな顔するんも久しぶりやな」
「こっちん方の好いとうならずっとしとるばい」
「どっちも変わらんわ。どんな顔しようと千歳は千歳や。元九州二翼、才気の使い手、風来坊」
 列挙する声は、やはり表情と同じく落ち着き払っている。
「無我マニア、根無し草の浮気者」
 千歳に正面から向き直っても何の感慨もなく、事実だけを述べる声だった。
「女には事欠かんくせに俺に惚れとる男」
 事実だ。

 白石の手が頬を滑りおりて首筋に触れる。指先と、掌を覆っている包帯の感触。その下の温度も千歳は知っているのに、かさついたガーゼは何一つ伝えてくれない。
「片思いはつらいやろ、千歳」
 この手が一瞬のちに首をめぐる縄に変わったとしても構わないと思った。
 ふ、と白石が吐息を漏らす。あるいは笑ったのかもしれない。表情を確かめるには、あまりに距離が近すぎた。首を起こすのと同時に、白石の手は身体と一緒に離れていった。
 そのとき、瞳の奥に渦巻いたものを千歳は確かに見た。はっきりと見てしまった。
 思えば、彼は数多の女の屍の上に立つことをよしとする男ではない。なぜ今まで気付かなかったのだろう。
 残りのページ数など考えても意味がない。聖書は一番最初に火にくべてしまったのだ。かき集めた灰だけが未だ残って掌の上にある。放っておけば風に散らされ、留めようと握りしめても指の間から零れ落ちる。許されているのは掌を見つめることだけだ。せめて風の吹くときが一秒でも遠いようにと祈りながら震える掌。
 息を吸い込んだ瞬間、視界の隅でくすんだ青が光った。白石が信号機を一瞥して呟く。
「行こか」
 そのまま、振り向くことなく道路の向こうへ歩き始めた。千歳はその場から動かず、白石の背を見つめる。
 これがお前の罰かと訊きたかった。千歳が口を開きかけたことに気付かない白石ではない。謝罪も弁明も愛の言葉も一緒くたに封じて、心に従わない行動の繰り返しを裁くつもりなのか。尋ねたとしても答えが返ってこないこともわかっていた。嘘をついた者が報いに舌を抜かれるというならば、白石だってそうなのだ。
 視線を落とすと、塗り替えられたばかりのアスファルトに横断歩道の線がくっきりと存在を示していた。ずっと小さな頃、あの白い部分だけを踏んで渡る遊びをしたことを思い出す。あの時の自分は、黒いところを踏んだらどうなると思っていたのだったか。とうに忘れてしまったが、あの頃から時間も場所も遠く離れて見る道路は、記憶よりもずっと暗く深い黒で眼下に広がっている。
「千歳」
 白石は中ほどまで進んだところで立ち止まり、未だ歩道に留まっている千歳を振り返った。その足下の白い線は、底のない沼に辛うじて浮かぶ足場のように見える。ふたり分の体重がかかれば容易く沈むかもしれない。それでも、白石をひとり立たせておくことは出来そうになかった。少なくとも彼が笑う限りは。
 背後の信号機は縄など延ばさずに千歳を見下ろす。踏み出した足の下で、底のない水面でも切り捨ててきた女の肌でもないアスファルトを噛んだ下駄がからんと鳴った。




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