今だから言える話をしよう。
まだ夏の終わらない空、ひりつくほどの光を投げる太陽、熱を跳ね返すテニスコート。その間で降ってくる無数のボールを見た時、それらの軌道がとても読み切れないと思った時、俺は打ち返すのを諦めた。黄色い影が迫ってくるのを感じながら、避けることさえ諦めた。あの時、俺がしたいことはただ一つだった。
目を覚ますと辺りは暗くなっていた。うたた寝しているうちに消灯時間を過ぎてしまったらしい。
閉め切ったドアの向こうでサンダルの足音が響く。消灯後は却って廊下の音がよく聞こえる。人の行き来が激しい階段前ではなおのことだ。
この病室から見て左手の突き当たりにあるナースステーションから呼び出されたのだろう足音が、右の方へ通り過ぎていく。それに混ざってかすかな話し声も聞こえた。俺にはどうしても耳慣れない方言。
ここでは医者も看護士も、誰も彼も同じように話す。意志疎通には困らないが違和感が拭えない。不快ではないが自分のものには決してならない。
生まれた場所を離れた人間の多くがこうなるのなら、桔平も明日からこんな気持ちで過ごすのだろうか。
桔平が東京へ行くということは、熊本の病院で知った。俺には何も言えなかった。親父さんの転勤についていくという、子供にはどうしようもない事情に何を言えというのか。そして桔平が熊本を去った今日、俺は大阪の病院にいる。見送りも出来ず、電話もメールもしなかった。
今さっきまで桔平の夢を見ていたのは、そのことが心を刺しているからだろうか。俺と桔平の夢。俺の右目が動く桔平を見ていられた頃の、夢。
あるいは虫の知らせに似たものなのかもしれない。戻ってこないものを目の前にむざむざと突きつける。
予兆というなら、あの球を見た時も同じだったのかもしれない。あの時の俺は、打球を受けた目が光を失うことも、桔平が熊本を離れることもわかっていたかのように迷いなく動いた。打ち返すことも避けることも投げ出して、ボールを追っていた視線を引きはがす。ネットを越えた先のコート、センターラインのさらに向こうへ。右目に衝撃を受けて倒れるまでのほんの一瞬のことだ。それだけで充分だった。
今だから言える話をしよう。
桔平は奔放な獣だった。無骨で荒削りなうつくしい獣。獣は自由であるべきだとわかっていながら、俺はずっとそれを飼い馴らしたくてたまらなかった。叶わないと知りながら、狭い檻に閉じこめたいと願っていた。
だが、それも今は過去の話だ。熊本に帰っても桔平はもういないし、桔平の隣で叶わない夢を見続けていた俺ももういない。
治るのか、と尋ねると、君が望むならいつでも手術しよう、と返された。眼科としては有名だというその医者は、たくさんの患者を見てきた目でたやすく俺の意を汲み取った。
でも、君は治したくないのだろう、と。
目を閉じると、暗闇に慣れてうっすら判別できていた物の輪郭も再び黒く塗りつぶされる。そうして瞼の裏に映し出されるのはあの日の光景だ。右の網膜が最後に焼き付けた一瞬。
着地の勢いをはらんで揺れる金の毛先、満足そうにつり上がった眉と唇、ボールの行方を捉えようと見据える目。グリップを握る指、力のこもった腕、いつでも走り出せるようにと張りつめる脚。
俺の焦がれてやまない、強くしなやかで誇り高い獣の王。
右目を隠すように手で覆う。それでも、見えているものは変わらない。この目に光が戻らない限り、消えることなく残り続ける姿。
「桔平」
やっと、俺だけのお前を手に入れた。