規則的に震える携帯電話を制服のポケットから取り出し、カウンターの下で操作する。下校時刻前に設定しておいたアラームだ。半分ほど読み進めた本を後ろの書架に戻し、さて、と振り返ると1人しか残っていない。
 カウンターから一番遠い机の窓際の席で、忍足はノートに向き合っていた。あの時と同じであり、ここ数週間で見慣れてしまった姿勢だ。いつもは他の生徒も残っていたり閉室時刻よりも先に忍足が帰っていたりしたのだが、今日はそのどちらでもないらしい。嫌でもあの時を思い出す。
 溜め息が混ざらないように注意深く声を出した。
「謙也さん」
 応えはない。やっぱり、と思いながら足を運ぶ。案の定、左腕で頬杖をついた忍足の瞼は完全に下りている。
 夏も近く、陽の長い季節だ。この時間でも昼のものに近い光がさす紙面には、知らない公式が並んでいる。数学が苦手というわけではないが、さすがに3年生の内容まではわからない。授業で習うのはだいぶ先だろう。
 そこまで考えて、見下ろしていた目を瞠る。握った掌に爪が食い込む痛みも忘れた。
 財前がこの式の意味を理解する頃、忍足はもうここにいない。
 忍足の志望校は決してテニスの強豪ではない。白石と一緒でも地区大会を突破できるかどうか。それに忍足は高校でもテニスを続けるのか、それすら財前は知らないのだ。高校のテニス大会の出場者名簿に忍足謙也の名前は載らないのかもしれない。
 全国大会が迫っている。終われば3年生は引退だ。ダブルスとして試合に出ることも熱心にボールを追う姿を見ることもコートの中で互いにどこまで本気なのかわからない軽口を叩くこともなくなる。その日が来るまであと何日あるだろう。何日しかないのだろう。視界が揺らぐ。
 ずっと、見ないようにしてきた。3年生のことを考えるとき最初に浮かぶのがいつも忍足であることにも、その理由にも、ずっと気付かないふりをしてきた。そうでもしなければ、終わりに向かって進んでいく毎日を過ごすことなど出来そうになかった。だからずっと蓋をしてきたのにこの有様だ。明日からどうすればいい。
「この前みたいにしてくれへんの?」
 沈黙を破れるのはこの場にひとりしかいない。ゆっくりと顔を上げると、忍足が頬杖をついたまま財前を見ていた。
 自分がどんな表情をしているか考える余裕などない。それでも声だけは平静を装って返す。
「起きてたんなら返事くらいしてください」
「こうでもせんと自分から声かけてくれへんやろ? あん時からずっと避けられっぱなしやし」
「あん時って」
「やから、中間テストの前。自分が俺に」
「いつから起きてたんすか」
「俺に『何しに来てんすか』て言うたあたり」
 つまりほぼ最初からだ。何故そのまま素直に起きなかったのか、と訊くのを制するように忍足は言った。
「ああでもせんと、自分から触れてくれる機会なんかないと思うたんや。キスされるのは予想外やったけど」
「は、……何言うてんスか」
「財前」
 いつの間にか、忍足の頬は掌から離れ、財前を真っすぐに見据えていた。今まで見たことのない表情と聞いたことのない声音。
「自分に言っときたいことがあんねん」
「何スか」
「今は言えん」
「は?」
「この前と同じことしてくれたら言うたる」
「アホちゃいますか。なんでわざわざンなことせなアカンのですか」
「自分もともと俺のことアホやと思ってたやろ。それに」
 心の奥を透かし見るように目を細めた。口の端が引き上がり、薄い笑みを形づくる。
「俺の言いたいことっちゅーんは、自分の聞きたいことと同じやと思うで」
 そう言うと、先程と同じ姿勢に戻って目を閉じた。問い返す隙もない。
 図書室は何事もなかったかのように静けさを取り戻した。財前は何も言えずに立ち尽くす。
 本当になんなんだこの人。言うだけ言ってこちらの意志はお構いなしか。
 もちろん、無視することも財前には出来た。事実そうするつもりだったのだ、最後の一言さえなければ。
 ずるい。起きているはずなのに微動だにしない忍足を見て思う。言葉にするのももどかしく、視線だけが雄弁に問いつめる。
 言っときたいことって何すか。なんで俺の聞きたいことと同じって思うんすか。俺が目をそらしていたものも、ずっと見えてたんすか。いつから見とったんですか。謙也さん俺のことどう思ってるんですか。本当に全部聞かせてくれるんすか。
 瞬きをひとつして、机に右手をつく。左手をのばして背もたれを掴んだ。上半身を乗り出す。
「遅い」
 顎にかかる指と異常なまでの近距離で正面からかち合った目とそれから。
 人間はあまりにも驚くと呼吸すら忘れるのだということを、財前はそれまで知らなかった。忍足の「なんやエラい顔しとるで、自分」という声を聞くと同時に、詰めていた息が一斉に出ていく。
「な、んなんスか、ホンマ」
「待っとるのは嫌いっちゅー話や」
「人にやれっつってそれとか、ずるいっすわ」
「寝てるところに手ぇ出すんとオアイコちゃう?」
「……最悪や」
 財前は心の底から後悔した。謙也さんにキスなんてするんじゃなかった。あれのせいで調子がどこまでも狂いっぱなしだ。
「なあ財前、ずっと言いたかったこと話すから、真面目に聞いてや」
 その真剣な眼差しひとつで後悔をひっくり返すなんて、やっぱり俺のキャラじゃない。


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