「財前、お前もそろそろダブルスやってみたらどうや」
 部の誰よりも自由奔放な監督が競馬場から帰ってくるなりそう言ったのは、財前が2年生に進級してすぐのことだ。
 その時の財前は、すでに天才の名をほしいままにしており、レギュラー入りも間近と噂されていた。だが、それはあくまでシングルスでの話であり、ダブルスでの試合経験は一度もなかった。そこで財前は、
「嫌っスわ」
 にべもなく断った。この監督によって作られたダブルスペアをすでに知っているからだ。
 もともと他人と一緒に行動するのを好まない財前からすれば、一時たりとも離れるなという指示は苦行に等しい。相手が誰であれ、受け入れる気になど到底なれない。財前がオブラートに包まず伝えると、渡邊(少なくともこの時は自分が例の2人に言ったことを覚えていた)は帽子をおさえて溜め息をついた。
「アホか。あれはあの2人にしか効かんやろ。それに、あの2人はダブルスメインでやらせるつもりやったからああ言うたけど、自分がシングルス中心っちゅーのを変えるつもりはないでぇ」
 あくまで戦略の一つ、ということだ。四天宝寺には部長の白石を筆頭にシングルス向きの選手が多いが、その枠は1試合に3つしかない。シングルスの選手がダブルスに回っても勝てるチームになってこその「勝ったモン勝ち」なのだ。というようなことを渡邊は述べていたのだが、財前は「どうでもいい」の悪癖を発揮してほとんど聞いていない。
 財前は「天才」だ。ダブルスでもそれなりの結果が出せると思っていたし、それが単なる自惚れで終わらないことも知っていた。
「はぁ、まぁ意味のわからん指示さえなければ何でもいいっスわ。あと、相手が金色先輩でなければ」
 財前にとっては、ダブルスを組むことよりもそれに伴う苦行の有無の方が重要だった。



 1年生の頃の財前にとって、忍足謙也は大勢いる上級生のひとりでしかなかった。財前の実力が1年生の中で抜きん出ていることは周囲の知るところではあったが、レギュラーとそうでない者の間には何か形容しがたい壁が確かに存在していたし、財前は部の誰からも等しく距離をおいていた。そのため、もしパートナーに指定された相手が忍足でなかったとしても、財前の反応は変わらなかっただろう。
 忍足は絶対的なスピードを持っているが、その裏で弱点となっているパワーや正確さを補う相手とのダブルスに回ることが多い。自分に期待されている役割もそれだろうと財前は理解した。
 実際、忍足のスピードは驚異的だ。コートのどこに打たれたボールにも追いつく姿は、彼に拾えない打球などないのではないかと思わせた。忍足の速さと、彼が狙いきれない穴を突く財前の技術が組み合わされば、点を奪うことなどたやすい。パワーを補う石田とのダブルスに並ぶ手札を得たと上機嫌の渡邊を先頭にして他校での練習試合から戻る途中、財前は隣を歩く忍足に尋ねた。
「いつも思っとったんすけど」
「おん」
「なんであないに走るんすか」
 質問の意味がわからない、といった顔で忍足が財前を見る。
「さっきの試合のアレ、明らかにアウトやったでしょ。他の試合も、どう見てもコート外に落ちるボールでも全力で追っかけるの何なんすか」
「落ちる直前に軌道が変わって内側に入るかもしれんやろ」
「そのパターン、今まで何回あったんすか」
「一度もあらへんな」
「そんなレアケース考えてどないするんすか。もしそれに当たったとしても、一回見送ってコース見極めた方が体力の消耗も抑えられるんとちゃいますか」
 試合を終えた後、忍足の疲労が他の部員よりも著しく見えるのは一度や二度ではなかった。
 当然、その兆しは試合の最中から表れており、長引くにつれて打球や自慢の速さに精彩を欠いていくのも今に始まったことではない。それを忍足も自覚しているのか、ばつが悪そうに視線を逸らした。
「あー……自分の言う通りやと思うわ。でもな、理屈ではそうでも、俺はボールを追いたいねん。どう見てもアウトな球でも、自分のいうレアケースやったら打ち返したい。そう思うと、止まって見送るなんて出来へんわ」
 財前は黙って聞いていた。なるべく無駄な体力は使いたくない彼にとって、忍足の気持ちは理解しがたい類のものだ。沈黙をどう解釈したのか、忍足は財前の方をもう一度見て続けた。さすがに財前も相づちを返す。
「それに、さっきのは俺らのマッチポイントやったろ」
「はぁ」
 忍足は「俺な」と辺りをはばかるように声をひそめた。
「アウトで結果が決まるん、あんま好きやないねん。もし入ったらどうなってたか、どうしても考えてまう。ま、それでも『勝ったモン勝ち』やけどな」
 最後の一言を放った忍足の表情を、財前はこれまで見たことがなかった。見慣れた笑顔に似ていたが、他の部員に囲まれて騒いでいる時とも、親友と認める白石と穏やかに話している時とも違う色をしていた。その意味するものを正しく認識するよりも早く、忍足は真面目な顔でひとりごちた。
「せやけど、体力の消耗が弱点になるのは事実やしな。せやったら銀みたいに重りつけて過ごそか。どう思う、財前」
「は?」
「いや、でもパワーショルダーはさすがに……。やっぱつけるとしたら足やな。スピードも鍛えられて一石二鳥っちゅー話や」
 なんなんだこの人。財前は思った。こちらに聞いておいて勝手に自己完結している。
 忍足は体の動きだけでなく、表情やテンションの変化も目まぐるしい。それは財前も知っていたが、その動きは思っていたほど単純でないらしいことに気付いたのはこの時だった。


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