自分を取り巻く物事に関心が薄い、というのが財前の自他ともに認める特徴だ。大抵のことは「どうでもいい」で片付け、積極的に何かを選択することはしない。ゆえに後に引きずることも滅多にない。
 そんな財前は今、珍しく後悔している。あのとき謙也さんにキスなんてしなければよかった、と。



 最後のページを読み終えて顔を上げると、図書室には忍足しか残っていなかった。財前が当番の仕事を半ば放棄して本を読み始めた時は他にも数人が席についていたが、いつの間にか帰っていたらしい。貸し出しや返却の声は掛けられなかった、はずだ。
 テスト勉強を自宅でなく図書室でしたがる人間の気持ちを、甥がはいはいで動き回るようになって知った。全員が同じ状況というわけではないだろうが、ともかくテスト前の図書室の混雑にも多少寛容になった。そのため、忍足の前に書架の本ではなく教科書やノートがあることについて今更とやかく言うことはない。だが、下校時間は守ってもらわなければ困る。なにしろ忍足を追い出して戸締まりをしなければ財前は帰れない。窓際の机の隅、カウンターから一番遠い席に近付きながら声をかける。
「謙也さん」
 反応がない。窓と机の間をふさぐように立ってのぞき込んだ。顔の下半分は頬杖をついた左手に埋もれるように隠れている。うつむいた額に落ちる前髪の隙間からは、閉じられた瞼が見えた。要するに寝ているのだが、右手のペンを取り落としていないのはさすがというべきか。
「謙也さん何しに来てるんすか」
 3年生になっていよいよ受験が見えてきたからだろう、多くの上級生と同じく忍足も以前より成績を気にするようになった。
 聞けば忍足の志望校は近隣でもトップクラスの進学校だという。医学部だけでなく薬学部への進学率も高いそこは、白石の志望校でもあった。それを知った時、財前は反射的につぶやいた。
「部長はともかく謙也さん大丈夫すか」
「俺がアホって前提で言うんやめや」
 上級生の成績事情は把握していない。何事にも完璧を信条とする部長が学業面でも優秀であることは想像できたが、忍足は予想がつかない。成績が良いといわれても悪いといわれても納得できそうな気がする。
 白石はいつも通りの鷹揚な笑みで返した。
「いけるんとちゃう?」
「ほれ見い! 俺はアホやないっちゅー話や!」
「世界史の配点、低いとええなぁ」
 我が意を得たりとばかりだった忍足がその一言で沈黙したので、彼の大体の成績と苦手科目はおおよそ察しがついた。
 今、目の前の机には世界史の資料集がある。財前の視線は年表に落ちた自分の影から離れ、机についた肘から二の腕を辿って、未だに震えもしない眦へ行き着く。夕方の色を含み始めた光が忍足の右頬に当たっている。
 忍足と一緒にいる時には有り得ないと思っていた静寂がそこにあった。空気中の塵が光を受けてちらちらと踊っている。それが見えなければ時間が止まっていると錯覚しそうなほどに静かな空間で、動くものは財前ただひとりだ。
 次の瞬間、唇に触れる柔らかさを認識した。忍足の睫毛から長く延びた影が、鼻の稜線にまで届いている。左手は何か角張ったものを上から握り、右手は滑らかな木の表面に触れているようだ。そこまで考えて、即座に上半身を跳ね起こして数歩あとずさる。状況を把握するのにたっぷり十秒費やした。といっても、あの一瞬で理解したものが全てだ。左手で椅子の背もたれを掴み、机に右手をついて、唇を忍足の頬に押し当てていたという事実は変わりようがなかった。
 なぜ。その問いがぐるぐると回る。頭の中をさらっても、自分の行動の理由を説明できる言葉が見つからない。周りの事象からも他人からも自分自身からさえも一歩引いた場所に立つ財前には久しく覚えがない事態だった。
 せわしなく右往左往する心をよそに、財前を取り巻く空間は先程までと同様、凪いだ湖面のような静けさを保っていた。忍足も相変わらず身じろぎする気配すら見せない。
 この状況でなんで寝てられるんだこの人。
 白石がいれば「事件の気配がするで!」とでも言いそうだが、別に死んでいるわけではない。そう思う根拠を追求すると今さっきの出来事に触れてしまうので深く考えることを避けた財前だが、ともあれ当事者の片方の無反応ぶりに助けられて落ち着きを取り戻した。
 下校時刻が迫っている。いい加減に忍足を起こさなければならない。これまでの様子を見れば、声を掛けただけで目を覚ますはずがないのは明らかだ。のばしかけて一瞬こわばった手を押し出すようにして右肩に触れる。
「謙也さん」
 そのまま軽く2、3度叩くと、存外あっさりと瞼が開いた。目を瞬かせるたびに、睫毛の影が鼻梁と眉頭を行き来する。その合間に瞳が右へ、次いで傍らに立つ顔を確かめるように首ごと上へ動く。
「おう財前、って近っ!」
 そうでもないっスわ。口には出さずに否定する。財前は横に立っているだけだ。右手を支えにしているわけでもなければ身を乗り出しているわけでもない。数分前の数秒に比べれば、今の距離はずっと遠かった。
「帰る準備してください。そろそろここ閉めるんで」
「ん? えっもうこんな時間なん? は!?」
「やかましっすわ」
 勉強が全く進まなかったと嘆く忍足はすさまじい早さで帰り支度を済ませると「一緒に帰ろや」と言った。いつも部活帰りにそうするように。財前に断る理由はないので頷いた。いつも部活帰りにそうされたように。
 図書室の鍵を職員室に返し、分かれ道で忍足と逆方向の家路につく。人数が少ないこと以外は、普段の部活後と何も変わらなかった。
 あれほど動揺していたにもかかわらずいつも通りに振る舞っていることに、財前自身も驚いている。見た目だけでなく心の中も、左を歩く忍足の頬を見てさえ平坦なままだった。
 理由など、気にするだけ無駄なのかもしれない。説明できないのは、元からその行動に大して意味がないからだ。それでもあえて言うならば気の迷い、だろうか。
 そう唱える後ろで、違う、という声がする。波が立たないのは水面に氷が張っているからだということも、その氷がひどく薄いものだということも、財前は知っていた。忍足に対する行動やその理由を「どうでもいい」で切り捨てられないことは、もっとよく知っていた。


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