「わんは凛ぬくとぅがじゅんにしちゅんどー」
今日だけで何度目になるかわからない言葉が甲斐の口からこぼれた。知念はもう数えるのも真っ当に返すのも面倒になっている。
「だーるなぁ」
「凛もわんぬくとぅがしちゅんって言うさぁ。わったーはそれで良かったはずなんばぁよ」
試験管の溶液を机の脇の流しに捨て、蛇口をひねってそのまま中を洗う。知念から見て右手の奥に座る甲斐は、机の中央に残されたビーカーとその向こうに広げられた知念のノートをぼんやり見ている。学校の実験用具を割りでもしたら問題になるので、こちらを手伝わないことについては何も言わない。ノートに書いた数値の意味は実験した当人でないとわからない類のものだが、そもそも甲斐がそれを読んでいるわけではないことは明白だった。
「やしが、凛はいつもわんぬくとぅ見てくれんばぁ。気付いたらひっちー他のたーかぬとぅくるんかい(いつも他の誰かのところに)いるさぁ」
「しばらくしたら戻ってくるあんに?」
「わんぬ知らん痕つけてなー」
3本目の試験管を伏せて試験管立てに置く。ビーカーを持ち上げたが、甲斐の視線は動かない。その目は、理科室に入ってきた時より鋭さを増している気がした。
「今日も見つけたば?」
「やさ。朝練終わって着替えてたら、わんにや覚えのないところんかい痕があいびーたん(あった)」
「また堂々としたもんやさ」
「気付いてねーらんたんに(気付いてなかったんだろ)。背中やたんし」
背中、と口の中だけで反芻する。甲斐は後ろからするのを好まないから覚えがないというのだろう。今更だが、昼休みの理科室でするには生々しい話だ。
ビーカーをすすいだ水を切ってもなお消えない、この部屋に染み着いた薬品のにおいがそうさせるのかもしれない。考えようによっては、ここは保健室以上に病院に近い。知念は白衣を着ているわけでもなければ、彼らの抱える問題を治療するすべを持っているわけでもないのだが。
「で?」
「で?」
「やーは凛の愚痴を言うためだけに来たんかや?」
「あらん(違う)」
わかっているだろう、と言いたげな顔で切り捨てる。蛇口の水を止めた理科室はいっそう静かだ。
知念は甲斐の隣の椅子に腰掛けて、壁の時計を見た。昼休みはじきに終わる。
「あんしぇー腹いせかや?」
「半分はそうかもしれねーらん」
「残りは?」
「んー……遊び、かやぁ」
「それは半分じゃ済まないあんに」
「さすが寛。よくわかってるやっし」
彼らの付き合いを長く見ていて気付かないわけがない。
甲斐の愛する者が平古場しかいないのと同様に、平古場にも甲斐しかいないのだ。互いにそのことを至極当たり前と受け止めている。だが、それゆえに傍に居続けると目が曇り、自分の本当の気持ちがわからなくなる。彼らが間を空けず別の相手を求めるのは、つまりそういうことなのだ。一瞬の快楽を通り過ぎた心に残った後悔を見つけることで、かけがえのない相手というものを認識する。それは彼らにとってまさしく「遊び」なのだ。わかりきった結末に向かうだけのきわめて単調な遊び。
「引き込まれる方の気持ちも考えれ」
「気付かれなきゃ問題ないやっし」
甲斐は悪びれもせずに言う。知念は以前から、彼には善悪の価値観がどこか欠けていると思っていた。
「それに、好き好んで引き込まれる奴も意外と多いさぁ。わんも凛も、そういう奴を見つけるぬは上手いんばぁよ」
甲斐の手が知念の右頬に触れ、顎を伝って下へ向かう。
「わんには、寛もそういう風に見えるんやしが、違うんかや?」
親指が喉仏をかすめるのと同時に、手首をつかんで引き寄せた。勢いで立ち上がった甲斐の目は、獲物を捕食する獣を思わせる。だが、珍しく相手を見上げているこちらの目も同じだろうと知念は思った。善悪の価値観がどこか欠けているのは、甲斐だけではないのだ。
心まで噛むようなキスの間を縫ってチャイムの音が聞こえる。午後の授業は何だったかと考えを巡らせて、出なくても問題ないと結論づけた。
机に手をついた甲斐の舌が耳朶を這う。知念は喉の奥で笑った。それほどまでに、甲斐の誘い方は昨日の平古場とよく似ていた。
***
「あばずれ女の亭主が歌つた」 中原中也
おまへはおれを愛してる、一度とて
おれを憎んだためしはない。
おれもおまへを愛してる。前世から
さだまつてゐたことのやう。
そして二人の魂は、不識(しらず)に温和に愛し合ふ
もう長年の習慣だ。
それなのにまた二人には、
ひどく浮気な心があつて、
いちばん自然な愛の気持を、
時にうるさく思ふのだ。
佳い香水のかをりより、
病院の、あはい匂ひに慕ひよる。
そこでいちばん親しい二人が、
時にいちばん憎みあふ。
そしてあとでは得態の知れない
悔の気持に浸るのだ。
あゝ、二人には浮気があつて、
それが真実(ほんと)を見えなくしちまふ。
佳い香水のかをりより、
病院の、あはい匂ひに慕ひよる。