目の前に立っている千歳さんを、私は信じられない思いで見つめた。全国大会を終えて大阪に帰ったと聞いてから2週間も経っていない。
約束があって来たわけではないことはすぐに察しがついた。でなければ、お兄ちゃんが買い物に出て行くはずがない。気の向くままにふらふらと出ていく癖は九州にいた頃から聞いていたけど、まさか大阪から東京まで来るほどとは思わなかった。たまたま今が夏休みの間だから来たと思うことも出来るけれど、きっと千歳さんにとっては関係ないのだろう。行こうと思ったら2学期が始まっていようがなんだろうが来るに違いない。授業や受験のことなど、この人の頭には全くないようだ。
押し掛けられた形にはなるが、無碍に追い返すわけにもいかない。とりあえず居間に通し、台所で麦茶を用意する合間にお兄ちゃんにメールで報告する。お父さんは仕事で、お母さんもパートに出ている。2人が千歳さんに会ったのは右目のことでお兄ちゃんと一緒に頭を下げに行った時が最後のはずだ。そこに付いていかなかった私には、今の不在が良いことなのかどうかもわからなかった。
お客さんを放っておくのも気が引けるからと誰にともなく言い訳して2人分の麦茶を持って戻る。千歳さんの向かいに座ってからの話題には困らなかった。大阪での暮らし、四天宝寺中のテニス部の人たち、しばらく会っていないミユキちゃん。千歳さんの口から聞きたいことがたくさんあった。私のグラスが空になった頃、話の切れ間に千歳さんがぽつりと言った。
「まだ一年も経っとらんたい」
「環境は変わったけど、人の中身はそんなに変わらない、かな」
「杏ちゃんはずいぶん変わったばい」
「えっ、そう?」
「訛りがすっかり抜けとるけん、生まれた時から東京もんのごたる」
「方言で喋っても友達には通じないもの」
「ばってん、俺も桔平も熊本弁がいっちょん抜けんたい」
「お兄ちゃんもだいぶ馴染んだとは思うんだけど……」
「やっぱり若いと適応力が違うとね」
「若いって、子供扱いされてるみたいでイヤ。1つしか違わないじゃない」
「大人はそうやってムキになるもんじゃなかとね」
千歳さんがグラスを口に運ぶ。これで2人とも空になってしまった。お兄ちゃんは「すぐ帰る」と返信をくれたきり、まだ帰ってこない。グラスがテーブルに置かれた拍子に、中の氷が音を立てる。
「そばってん、杏ちゃんはほなこつ大人っぽくなったばい。前は『むぞらしか』だけだったばってん、今は『綺麗か』ち言うのも似合うとるけんね」
「あら、ありがとう。『綺麗』としか言いようがなくなったら子供扱いもされなくなるかしら?」
「そら無理ばい」
「即答しなくてもいいじゃない」
「大人になっても杏ちゃんは杏ちゃんだけん、いくつになっても俺は『むぞらしか』ち思うとよ」
「……もう、相変わらず口が上手いんだから」
千歳さんは笑うだけで反論しない。麦茶のお代わりを口実にして台所に立った。冷蔵庫の扉に手をかけたけれど、そこからうまく動けない。
千歳さんは変わっていなかった。ふらふら出歩く癖も高い背も甘い声も優しい笑顔も。こちらに向ける視線の色も投げかける言葉も何一つ変わらない。私と千歳さんの距離は、あの頃より離れこそしなかったが近付いてもいない。
わかっていた。九州を出てまだ1年も経っていないのだ。人の中身はそう簡単には変われない。千歳さんにとって私は今でも親友の妹でしかない。きっとこれからもそうなのだ。それでも私は、そんな千歳さんのことがどうしようもなく好きだった。