※本編最終盤までのネタバレがあります



 差し出された小さな紙を、ほとんど反射のように受け取った。扉が開かれ、席を立つ直前のことである。
「ここからは君ひとりでの任務になる。周りのすべてを疑ってかかりたまえ。健闘を祈る」
 プライベートジェットとして空港に着陸した飛行機で、年かさの職員はそう言って葉佩を送り出した。葉佩が地上に降り立つと、彼らはあっさりとタラップを畳み、扉を閉め、瞬く間に青空へと消えた。
 清々しいほどに情を感じない、ロゼッタ協会のいつものやり方である。葉佩は探索道具や武器弾薬を詰めたリュックサックを背負い直し、土壇場に押しつけられた一枚の紙を見る。
「武器の調達はこの店を使うといい。東京での任務なら、ここが一番早くて確実に届く」
 その言葉とともに渡されたのは、店らしき名前と住所、連絡先の載った名刺だった。これから向かうのは全寮制の學園なのでその住所に行くことはおそらく叶わないが、インターネット上のアドレスが書かれているのはありがたい。
『Shadow of Jade』と大きく印字された名刺をポケットに押し込み、建物へ向かって歩き出す。離れた滑走路で、葉佩の乗ってきたものよりずっと大きな飛行機が、どこかへ向かって飛び立っていく。


 悠々と上空を横切る飛行機を見上げ、皆守はアロマパイプを口に運んだ。もたれかかるコンクリートの壁が、後頭部にひんやりと硬く当たる。
 この校舎で一番高いところ――幽霊の噂がある時計台を除けばだが――とはいえ、天から見れば屋上も校庭も大差ない。この學園にいる限りは、誰もが等しく地を離れることのできない獣だ。柵の中の羊も周りで睨みを利かせる犬も、所詮はもっと大きなものに飼われていることに変わりはないのだ。小さなものでは力も意思も及ばない何かに。
 どうせ閉じ込めるなら牢獄らしく天井まで塗り固めておけばいいものを、下手に空は見えているから性質が悪い。自分たちでは行けない遠くに、けれど確実に自由は存在することを見せつけられる。
 ラベンダーの香りが頭の中に広がる。パイプから立ちのぼる煙を幻視した。手に掴むことの出来ないそれだけは、牢獄の外へ出ても咎められない。どこへでも行くことができる。その先にあるものが成功か破滅かわからなかったとしても、停滞の中に飼われているよりマシだと思った。
 だが、考えたところでそれは叶うことのない夢想でしかない。《墓》に囚われた者に自由などなく、地下へ伸びる《山》で澱のように沈殿していくだけだ。その時が来るまで、ラベンダーを鎮痛剤として眠るように日々をやり過ごす。今の皆守にできることなど、それしかないのだ。
 煙の幻はもう見えなかった。空は依然として抜けるように青く、雲だけが人の意思も感情も無視して流れている。


 雲の流れが速い。上空は風が強いのだろうか、目に見えて動く雲を視界に捉えながら、それでも白岐の意識は眼下の景色から離れなかった。温室のずっと先にある森、正確にいうならばその奥の墓地である。行方不明者の持ち物が納められているというその場所が、白岐を呼んでいるのだ。
 その声は日増しに大きくなり、休み時間のたびに白岐を廊下へと向かわせた。硝子窓の向こうに鬱蒼とした森が見える。この目には見えない場所、あるいは地中から、呼ぶ声が聞こえる。
 声が明瞭になり、そこに込められた怒りや悲しみを聞き取るにつれて、己の内で何かが揺れるのを感じるようになった。揺らぎも声と同じく大きさを増し、そのたびに白岐は自分が薄れていくような気がした。日に日に大きくなっていくそれはおそらく胎動なのだ。己に根付いている何かが、声に応じて外に出ようとしている。
 自分の中には何が眠っているのだろう。それが目を覚ましたとき、今ここにいる自分はどうなるのだろう。
 それらの答えを、白岐は知らない。だから、その日が来るのを恐ろしいと思う。しかし同時に、どこかでそれを待ち望んでもいる。
 何もわからないままに遠くから墓地を見つめるだけの日々が終わるとしたら、それはどのような形で訪れるのだろう。
 だが、待ち望んでいるのが白岐自身なのか己の内にある何かなのか、もはや自分でも答えられない。無表情の裏に隠した不安と期待を押し包んだ溜め息に、硝子窓が小さく曇った。


 つきかけた溜め息を、八千穂は慌てて飲み込んだ。それは、日々を元気に楽しく過ごすことを信条とする自分らしくない。
 開け放された教室の扉の向こうで、白岐が窓にほとんど寄りかかるようにして立っていた。腰よりも長い黒髪と、外に向いた視線。
 八千穂と白岐との間に、同じクラスであること以上の接点は特にない。ふたりだけの思い出と呼べるものも、そもそも一対一で会話したことすらほとんどない。八千穂だけでなく、この學園のほぼすべての人間が白岐について同じようにいうだろう。彼女はそういう存在なのだ。
 白岐の周りには人を寄せつけない壁が常に張り巡らされていて、誰も一定の距離から先には近付けない。壁の外からは声をかけるのが精一杯で、触れ合うことなどもってのほかだ。その声でさえ、壁の厚さに阻まれてろくに届いていないように思える。
 人と交わることのない白岐は、いつも周囲から浮いていた。本人はそれを気にする風でもなく、美術室の彫像のように冷えびえとした表情で日々を過ごしている。
 だが、八千穂の目にはどうしても白岐の姿が痛ましく映るのだ。堅牢で分厚くも透明な壁の向こうで、白岐は誰とも分かち合うことのない憂いを抱えて立っている。
 その様を目にするたび、八千穂は白岐を孤独なままにしておきたくないという思いに胸を衝かれ、彼女の見ているものを自分も知りたいと思った。
 けれど、声をかけようとしても言葉が見つからずに躊躇してしまう。なにしろ碌に会話したことがないのだ。すぐそこにありながら遥か遠くにいるような白岐との距離を縮める、その一歩を踏み出す勇気が出せずにいつまでもその場へ留まっている。
 勇気を持つきっかけ。そんなものが、あればいいのに。
 祈りにも似た物思いを打ち破るように、慌ただしい足音が近付いてくる。駆け込んできた友人は、教室に足を踏み入れるなり大声で言った。
「大ニュース! うちのクラス、明日《転校生》来るんだって!」


「《転校生》……」
 声を聞きつけた取手は廊下で足を止めた。距離から察するにC組の話らしい。
 この學園では頻繁に人間が消える。そしてそれと同じくらいの頻度で、外部の人間が入ってくる。消えた分の補充と考えれば妥当なようではあるが、なぜだか元からいる教師や生徒よりも外から来た者が早々に消えることの方が多かった。まるで最初からそのためにやってきたかのように。
 不意に、このところ取手を苛む頭痛がまた訪れた。割れるような痛みに、目の前が白くなる。立っていられるのが不思議なほどだ。
「ッ……」
 ――大丈夫よ、かっちゃん。
 いつの間にか傍らに姉が立っていた。波が引くように痛みが治まる。取手はいつだって、姉がいれば平気だった。
 ――さあ、音楽室へ行きましょう。
 姉が手を伸ばして頬に触れてきた。白く冷たい掌。もう鍵盤の上で躍ることのない指。
「……そうだね、姉さん」
 姉はいつだって自分を完全にしてくれる。だから自分も、姉を完全にするのだ。あの美しい指を、取り戻さなければならない。
 階段を下りて音楽室へ向かう。二階の廊下を進み、扉の閉まった理科室の前を、姉とともに通り過ぎる。


 理科室の黒い机を挟んで、双樹と椎名は向かい合っている。椎名が趣向を凝らした菓子は華やかで美しく、味も申し分ない。
 椎名が鼻先から手首を離した。双樹の作った香りは彼女のお気に召したようだ。
「とっても素敵ですわ。これ、リカのおうちにも送りたいですゥ。きっとお母様も好きな香りですもの」
「あら、そう」
 双樹は微笑んだ。同い年でありながら自分を「お姉様」と呼ぶ少女は、双樹にとっても可愛い相手である。褒められて悪い気はしない。
「ああ、でもペットがいるなら気をつけた方がいいわね。犬や猫が吸い込んで、運が悪いと死んでしまうかもしれないから」
「フフッ、それなら心配ありませんの。いずれお父様が連れて帰ってきてくれますわァ」
「……そうだったわね」
 少女は鈴を振るように笑う。もしも、その「お父様」が死んでしまったら誰が連れ帰ってくれるのだろう。尋ねようとしてやめた。意地の悪い問いだからということも勿論あったがそれ以上に、父親の死という事柄を考えるのが何故だか恐ろしかった。それを悟られまいとして双樹は口を噤んだ。
「お姉様、おかわりはいかが?」
 そう言って、椎名が繊細な花柄のティーポットを持ち上げた。揃いのカップに、赤褐色の液体が注がれる。


 茶を注ぎ終えた備品の湯呑を机に置くと、瑞麗は懐に仕舞っていた封書を取り出した。すでに封は切られている。入っていた便箋を広げ、もう一度読む。誰もいない保健室に、瑞麗の溜め息が響いた。
 茶をひとくち飲み、何度見ても文言は変わらない。簡潔な文面で、機関からの通達が記されている。
 ひとつは、この場所に眠る《秘宝》を目指すロゼッタ協会が近々送り込んでくる新たな《宝探し屋》に注意せよということ。これは以前からあったことなのでまあいい。明日から登校してくる《転校生》がそうだろうと当たりもついた。本人より先に情報が来ただけ御の字だ。今のところ敵対する理由もないので、これまでの《宝探し屋》のように早々に行方知れずにならないことを祈る。
 もうひとつは、一向に進展がみられないため機関からも追加の《異端審問官》を寄越すということ。これも、まあいい。瑞麗が彼らの期待する成果を挙げられていないことは事実だ。問題はその人選である。
「鴉室か……」
 知らない仲ではない。《異端審問官》としての能力にも確かなものがある。だが、どうにも言動が軽薄すぎる。瑞麗にとってはできれば関わりたくないタイプだった。ましてここは高校である。仮初とはいえ、養護教諭の職務をおろそかにするつもりはない。かつての弟と同じ年頃の少年少女たちを鴉室と接触させることは、極力避けたかった。
 彼が學園に到着してから自分がどう動くか、慎重に考える必要がある。それを正しく見極めることができれば、《秘宝》へも一気に近付けるかもしれない。鴉室はそういう悪運の強さを持ち合わせた男だ。信頼はしているのだ、深く関わる気がおきないだけで。
 時計を見ると、そろそろ生徒がカウンセリングを受けにやってくる時刻だった。瑞麗は茶を飲み干し、手紙を元の通りに折り畳んだ。


 二つ折りにした伝票をテーブルの上に置いて、ウェイトレスは去っていった。肥後はそれを半透明の筒に差しなおし、まるまるとした手でスプーンを掴む。テーブルを埋め尽くさんばかりに並んだ皿の、まずはカレーライスに手をつける。
 食事を終えたらしい生徒の一団が、前の通路を過ぎていく。勢いよく食べ進める肥後をちらりと見て、嘲るような声を立てた。
「あの量ひとりで食べるってヤバくね?」
「ってか、がっつきすぎ。恥ずかしくないのかね」
「恥ずかしいとか思わないから、あんだけブクブク太ってられんだろうよ」
 肥後はカレーを掬う手を止めて俯いた。生徒たちは気付かずに遠ざかっていく。涙がにじみかけるのを、ぶんぶんと首を振ってごまかす。
 悲しむべきではない。怒りをぶつけるのも違う。酷い言葉を吐いたのは本来の彼らではない。彼らの中の悪い《魂》がそうさせるのだ。悪い《魂》は周囲の人間を傷つけ、彼ら自身をも苦しめる。その苦しみから彼らを救うために、自分の《力》はあるのだ。他者のために《力》を尽くせば、笑われるばかりの自分でも、きっと皆と幸せになれる。
「汝の隣人を愛せ、汝の隣人を愛せ……」
 小さく、乞うように何度も呟く。レジから響く朗らかな声が、それを店内の喧噪へと押し流していった。


「ありがとうございました〜ッ」
 会計を終えた生徒を見送り、舞草はまた新たな客を席へ案内する。昼休みは食堂がもっとも賑わう時間帯だ。
 調理場へ向かうと、出来上がった料理を千貫が並べているところだった。
「あッ! 今日はマスターも来てたんですね。お疲れ様です〜ッ」
 千貫は週に何度か、昼時の手伝いにやってくる。舞草とは親子以上に年の離れた貫禄ある老人だが、店からすればあくまで部外者であり、人事の査定に関わることもないので、割に気安く口がきけた。
「御疲れ様でございます。本日もお客様が多いようですね」
「そうなんです〜ッ! もうずっと動きっぱなしで……。あ〜あ、せめてカッコいいお客さんが来てくれたら、休憩なしでもココロ癒されるんですけど〜……な〜んて!」
 はたと声音を切り替えたのは、浮ついた気持ちを咎められるのを恐れたからではない。万が一にでも話題が千貫自慢の「坊ちゃん」に触れようものなら、間違いなく話が長くなるからである。
「冗談言ってる場合じゃないですよね。お仕事お仕事ッ!」
 舞草は皿を載せた盆を手にホールへと出ていった。入れ替わるようにまた注文が届く。千貫は調理場の奥へ戻り、巨大な冷蔵庫の扉を開く。


 扉を開けるなり、七瀬は違和感に眉をひそめた。本の匂いと静寂が満ちた書庫室に、誰かが侵入した形跡がある。
「まただわ……」
 侵入者が誰なのか、七瀬にははっきりとわかっている。隠し場所を変えた鍵をわざわざ探し出して入り込む者など、夕薙以外にはありえない。一度、彼が鍵を発見したところに出くわしたのだ。その時はあっさりと鍵を返してくれたが、諦めたわけではなかったのだと翌日に思い知らされた。
 彼の執念は一体どこからくるのだろう。この部屋で何を探しているのだろう。素直に訊いてくれれば手伝うこともやぶさかではなかったが、夕薙がそうするはずはないこともよくわかっていた。オカルトを信じる七瀬と否定する夕薙がわかりあえるはずもない。
 彼がオカルトを毛嫌いさえしていなければ、と七瀬は思う。書庫室、ひいてはそこにある本に対する情熱をもって、存分に語り合える仲間になれたかもしれないのに。
 この學園の遺跡や関連しそうな神話、ひいては超古代人の文明などについて有意義な討論をしてみたいと、七瀬は密かに夢見ている。志を同じくする相手は、今のところいないが。
「ああ、いけない」
 七瀬はひとりごちた。昼休みの時間は決して長くはない。存在するかどうかわからないものを信じることにはロマンがあるが、今はそれよりも先にすべきことがある。七瀬は修復を待つ本の山から、一番上の一冊を持ち上げた。


 持ち上げた空の段ボール箱の下がH.A.N.Tの隠し場所だ。境にとっては文字が小さくて読むのに難儀するのだが、協会が他の連絡手段を用意しないので仕方がない。しぶしぶ端末を起動する。はたして画面には新着メールの表示があった。
「なんじゃ、また男かい。つまらんのう」
 性別を確認した時点で、次の《宝探し屋》への興味はあらかた失せた。続く敵対組織に関する情報も流し読みして、端末を閉じる。
 用務員室に入ってくる人間はそう多くないが、だからといってその辺に放っておくわけにもいかない。元通りに隠し、よっこらせと立ちあがる。
「しかし、もし本当に《秘宝の夜明け》の連中がここに来るとしたら、処理はこやつにさせる方が楽じゃな。それまでは、死なん程度に手助けしてやるとするかのう……」
 独り言にしてはやや大きい声量でぼやきながら、入口近くのロッカーを開けた。中には境の相棒こと、校内の清掃道具が入っている。
「余所者の掃除は、ワシの仕事に入っとらんわい」
 手にしたモップを振り下ろす。その動きは老人にしては素早いものの、やはり武装した敵を相手にするには心もとなかった。


 振り下ろした刀が空を切る。真里野ひとりきりの道場には、剣を振る音と素足が床に擦れる音だけが響いている。
 部活動では公式試合と同様に竹刀を使っているが、昼休みの独り鍛錬では手に馴染んだ刀を握っている。鋼の切っ先は重く、一朝一夕にはうまく扱えない。
 物事の《緩み》を視る目を手に入れたとて、それをあやまたず斬れるかどうかは己の技量次第である。どれだけ鍛錬をしてもしすぎるということはない。そう信じ、真里野は空いている時間のほとんどを道場で過ごす。
 それが全く苦にならないといえば嘘になるが、己を高める過程に生じるものであると理解しているからこそ、歩みを止める理由にはならない。刀を振ることは真里野の生きる意味そのものであり、他の何よりも優先すべきことだった。
 強さを求めて真里野は刀を振る。その目は求める強さを真っすぐに見据えている。途中で取り落としたものに目を向けることもせず、失くしたことに気付きさえしない。ただ強さだけを求め、他のすべてを打ち捨てて愚直に。
 鐘の音が昼休みの終わりを告げるまで、真里野はひたすらに刀を振り続けていた。


 予鈴が鳴るのを、夕薙は校舎の手前で聞いた。昇降口はすぐそこだ。午後の授業には充分に間に合うだろう。
 本当は午前のうちから登校するつもりだったのだが、どうにも身体が動かずこの時間になってしまった。つくづく忌々しい「体質」だ。
 卒業まであと半年を切っているというのに、状況はほとんど進展していない。卒業しても墓守の老人として學園に居座るという手もあるにはあるが、できれば早いうちにこの身体を治す手掛かりを掴みたい。そんな風にだらだらと時間を空費しないために、卒業というタイムリミットを失わないよう出席日数を稼いでいるのだ。
 とはいえ、あと半年である。手掛かり――墓地の地下に眠る《秘宝》に辿り着くのは、今の状態では難しいと言わざるをえない。《生徒会》の守りはそれほどまでに固いのだ。
 事件、あるいは外的要因でも構わない。何か、彼らを揺るがすようなことがあれば話は変わってくるのだが。
「……神頼みとは縁を切ったはずなのにな」
 自嘲するような声を漏らし、校舎に足を踏み入れる。ほとんどの生徒たちは既に教室へ戻ったのか、一階は静かだった。夕薙も上履きに履き替えると、人の少なくなった階段を急ぎ足で上っていく。


 階段を上る後ろ姿を職員室から目に留めて、雛川は密かに胸をなでおろした。朝から登校しておらず連絡もない夕薙を、担任として心配していたのだ。
 身体の弱い彼に無理をさせたくはないが、休み続きだとそろそろ出席日数が危うくなってくる。それでなくとも三年生の二学期は大事な時期だ。午後からであっても出席してくれるというのは喜ばしいことである。
 欠席した分の国語については、後で補習プリントを渡すことにしよう。そう思い立ち、メモ用紙に書き留める。抱えた仕事を列記したメモの先頭には「書類の確認」とある。自分のクラスにやってくる《転校生》に関するものだ。これも今日中に済ませておかなければならない。誕生日だからといって仕事は待ってくれないのだ。
 今の雛川には、やるべきことも考えたいことも沢山あった。《転校生》のこと、この學園のどこか歪な仕組みのこと、いつも窓際でひとり佇んでいる白岐のこと、夕薙とは別の意味で欠席が目立つ皆守のこと。夕薙もああしてちゃんと登校しているのだし、屋上や保健室にいることの多い彼も、もう少し教室へ寄り付いてくれればいいのだが。
 考えている間に午後の授業が近付いている。机上のブックエンドから二年生用の教科書を取り、A組へと向かった。本鈴が鳴り終わったところで扉を開ける。日直の号令。雛川は微笑みを浮かべて生徒たちの顔ぶれを見回す。
「まずは前回の復習から――


「それじゃあ教科書の音読を、115ページの2行目から……」
 雛川が視線を落とす。教卓の上の出席簿と、そこに挟まれた座席表を見て、顔を上げる。
「響君」
「は、はい……ッ」
 返事の声はうわずっていた。夷澤の席から間に一列挟んだ前方で、立ち上がった響が指定された箇所を読み始める。か細くて甲高い、蚊の鳴くような声だ。マスク越しなのもあって、何を言っているのかほとんど聞き取れない。
「ごめんなさい、もう少し声を大きくしてくれるかしら……?」
「あッ、す、すみません……」
 響の肩が大袈裟なまでに震える。声も泣き出す寸前のようだった。見る者によっては庇護欲を掻き立てられる仕草かもしれないが、夷澤にとっては苛立たしいだけである。
 いつも何かに怯えるようにそわそわして落ち着きがなく、自分の意思を主張することもせずすぐに謝る。夷澤の目に、響の態度は弱者のそれとして映った。
 夷澤は弱いものを嫌っている。他者を圧倒する強さこそがこの世で最も正しく、敗者は勝者からの支配を受け入れるしかない。弱いままでいるということは、敗者の立場に甘んじるのと同義である。どうしてそんな有様で生きていこうと思えるのか。夷澤には理解できない人種だ。
「こ、『この気持は誰にも分らない。誰にも分らない。己と同じ身の上に成った者でなければ』――
 皆の前で注意されたからか、マスクを引っかけた響の耳は真っ赤になっていた。だが、声は幾分聞き取りやすくなっている。
 その声に混ざってカタカタという音が聞こえた。見ると、窓ガラスがかすかに震えている。外は静かなようだが、意外に風が強いのだろうか。まるで響の声に呼応するように、窓は小さく揺れ続けている。


 生徒会室の窓が音を立てて揺れた。放課後になってから、妙に風の勢いが増している。
「今日、例の《転校生》が到着する」
 神鳳は窓の外に向けていた視線を阿門へと移した。普段と同じく、生徒会長の席に威風堂々たる佇まいで腰かけている。
「《墓》に手を出さないとも限らん。見回りを強化しろ」
「はい」
 机の上には《転校生》に関する書類が並べられている。手続きのために送られてきたものもあれば、主に担任が指導に使う校内用のものもあった。転入前日ともなれば、所属するクラスも当然決まっている。神鳳は書類の中に「C組」の記載を見た。
「校内での振る舞いは……」
《転校生》の所属先には、阿門の意向が多分に反映される。素性の怪しい者は《生徒会》役員をクラスメイトとして監視させるのだ。
「彼に……見極めさせるのですか?」
「奴の目は確かだ。今は休んでいようとも、俺が副会長と見込んだ男なのだからな」
「……そうですか」
 この場に双樹が呼ばれなかった理由を考えようとして、すぐに打ち切った。不躾に思いを探るのは阿門の望むところではない。
 神鳳は書類の一枚を手に取った。文面は表からの続きらしく、両親は海外にいるため學園での手続きには同行しない旨が書かれている。そういえば、彼の名前はなんだったか。まだしっかりとは見ていなかった。氏名欄を確認するべく、神鳳は書類を表に返す。


 めくったカードの図柄を見つめ、トトはその意味を考える。
「《審判》……。目覚メ、再生、過去カラノ解放、大キナ変化……」
 トトは自分の占いがよく当たると自負している。じきに来るという《転校生》が學園にとってどのような存在なのか、その答えがこのカードなのだ。
「変化……。デモ、ソレガ神ノ求メルモノデナイトシタラ、ボクハ……」
 この學園には神がいる。《黒い砂》の形をとって、異国での孤独に苦しむ己を救ってくれた神だ。父に似て幼い頃から信心深い少年だったトトにとって、異教の地でまで加護を与えてくれる神の存在はほとんど絶対のものだった。遺跡へ立ち入る者は神の眠りを妨げる不心得者であり、《執行委員》として与えられる指令は神の啓示であった。
 神に与えられた《力》が、この學園に留まるよすがなのだ。神に仕える者として《力》を振るうことでしか、この地で生きることを許されるすべはない。そのためならば、自分は啓示の下にどんなことでもするだろう。
 神よ、僕のすべてはあなたの導きのままに。
 トトは目を閉じて呟いた。この學園の誰も理解しようとしない、彼の故郷の言葉で。その窓の外を、紫の蝶がひらひらと横切っていった。


「あらッ、綺麗なチョウチョ」
 女子寮の外壁に張りついた朱堂は思わず声を上げた。窓から覗いた部屋の、カーテンの留め具についた飾りをしげしげと眺める。
「いいわね、コレ。しかも反対側は薔薇? なかなかイイ趣味してるじゃないのッ」
 この部屋の住人は朱堂と似た好みの持ち主らしい。フリルの裾のスカートやリボンのついたブラウス、レースのハンカチ、スパンコールで飾られたバッグ、ピンク色のペンケース。目に入るもののひとつひとつが、全身から可愛らしさと美しさを発していた。
 朱堂が焦がれてやまないそれらを、女はこうして容易く手に入れることができる。後ろめたく思うことも笑われることもなく、大手を振って持っていられる。大した努力などせずとも、女に生まれたというだけで。
「……キーッ!!」
 朱堂はつんざくような声を上げた。虫のようにカサカサと壁を這って移動する。ストレスは美容の大敵なのだ。観察する女子生徒もいないのだし、さっさと離れるに限る。
 隣の部屋にも人の姿はなかった。奥の方に住人の私物であろう大きな姿見が、窓と向かい合うように立っている。朱堂はガラスに顔を押し付けて、鏡を正面から覗き込んだ。


 突如として現れた人影に、墨木は悲鳴を押し殺して建物の陰に身を隠す。おそるおそる顔を出してみて、それが廃屋の窓に映った自分自身であることを知った。
 日ごろ鏡を見て自分の視線に怯えることは流石にないが、気付かなければ己の影にすら竦むのだ。弱さを改めて突きつけられたような気になって、墨木は土で汚れたブーツの爪先を見る。
 手にした銃と身につけたベストが重かった。こうして武装を固めたところで、鎧の下の自分は人と目を合わせることすらできない臆病者なのだ。正義に殉じようと被った《執行委員》の仮面は、弱さを鉛で糊塗したものにすぎない。そんな自分が撃ち出す弾丸は、果たして正義と呼べるのだろうか。
 正義とは何なのか、何のために自分は銃を持つのか。考えても答えは出ない。無意識に胸元へやった左の指先が、アーマーに阻まれて硬い音を立てた。
 と、来た道の方から物音がした。今が部の模擬戦の最中であることをようやく思い出す。墨木は身を伏せて銃を構えた。もう一度、先程よりも近くで音がする。そちらに向けて引き金をひいた。その先には誰もおらず、こぶし大の石が弾丸を受けてわずかに跳ねた。


「ああッ、これは素晴らしい……!」
 大粒の石を拾い上げ、黒塚は感嘆の声を漏らした。この校庭は幾度となく探索しているが、初めて見る石だった。
「今までどこに隠れていたんだい? 奥ゆかしいひと……。ああ、みなまで言わなくてもわかるよ。君はとても思慮深い。僕が君と在るにふさわしいかどうか、慎重に見定めていたんだね」
 角がとれて光沢のある石は、黒塚の掌にしっくりと収まっている。
「いいんだよ。だって、今日こうして姿を見せてくれたじゃないか。君が僕を選んでくれた……こんなに嬉しいことはないよ!」
 実際に、言葉だけではなく全身で小躍りしそうになっているところからも、黒塚の喜びようは知れた。彼にとっては、すべての石が愛すべき友であり家族なのだ。
 新たな仲間を制服のポケットへ丁寧に仕舞うと、いつも持ち歩いている水晶の入ったケースを抱え直した。にこにこと上機嫌のまま表面を撫でる。
「ふっふっふ、君たちも何かを感じ取っているみたいだね。僕もだよ。今日か、明日か……とにかく近いうちに、良い出会いが待っている予感がするんだ。ふふふふふ……」
 石の声に耳を傾けながら、まだ見ぬ《宝》に思いを馳せる。普段は行かない場所に埋もれているのだろうか。見慣れた通学路に忽然と現れるのだろうか。今日は帰るルートを少し変えてみてもいいかもしれない。何かがありそうな場所を思い浮かべつつ、鼻歌まじりに歩き出す。


 近付いてくる足音に、警備員室の守衛は顔を上げた。天香學園の校門はいつも閉まっている。業者のトラックなどが入る時は、運転手がその脇の通用口から入ってきて警備員室で受付をする。しかし、今は門の前にそれらしい車はいない。
 アスファルトを踏みしめてやってくるのは、少年とも青年ともつかない男だった。この門と塀で囲まれた敷地の中で暮らすほとんどの人間と同じくらいの年頃だろう。背負ったリュックサックを前に回し、歩きながら中を漁っている。
 数歩も経たないうちに、男は荷物から長方形の薄い何かを引き出した。リュックサックを背負い直す。無駄のない動きだった。格闘技でもやっているのかもしれない。
 男はそれから十歩ほどで警備室の正面に辿り着いた。座っている守衛は彼を見上げる形になる。来校者には出入りの際に書類を記入させなければならない。ご用件は、と尋ねる前に男が口を開いた。
「《転校生》です」
 そう言って、彼は天香學園の校章が刷られた封筒を差し出した。




×
「#ファンタジー」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -