※自慰
***
その手に触れられたいと思った時には、きっともう遅かった。
きっかけは些細なことだった。いつもの音楽室で、曲の合間に葉佩が何気なく言ったのだ。
「鎌治の手、大きくていいなぁ」
次に何を弾くか思案していたのを止めて、彼の方を見る。葉佩の視線は、鍵盤に軽く置いたままの手の甲に向いているようだった。
「てのひら自体も大きいけど、やっぱ指が長いんだよね。ちょっと比べてみてよ」
そう言うと、腰かけていた机から立ち上がり、片手を突き出すようにこちらへ向けた。掌を立てて、指先はまっすぐに天井をさしている。促されるまま、おずおずとその手に己のそれを合わせると、今度は葉佩のほうが小さく動いた。手首ではなく指の付け根の位置を揃えるように、上へとずらす。
そうしてみると、葉佩の手から上下にはみ出した箇所は、上の方が下よりも明らかに長かった。ぴんと伸びた葉佩の指先は、取手の第二関節をいくらか過ぎたところにある。こういう形で他人に触れたのは初めてかもしれない。こんなにじっくりと、正面から。
と、不意に葉佩が合わせた手を丸めるように軽く曲げた。固い指先が、関節の上を撫でるように通り過ぎる。
「ほら、ね」
見上げた先で、花の開くように葉佩が笑った。うまく返す言葉を見つけられないまま、触れ合った手だけが自分と違う体温と皮膚の感触を受け止めていた。
それだけのことだ。他に何があったわけでもない。友人の多い葉佩はそのあとすぐに音楽室を出ていったし、それからこの一件が話題に上ることもなかった。
だが、この時を境にして、取手の視線は葉佩の手に向かうようになった。そうしようと思ってしているのではない。意識の上では何も変わっていないのに、気がつくと葉佩を、そしてその手を見ている。面と向かって会話している時は勿論、遺跡の探索中も、時には保健室で皆守にちょっかいをかけているところを横から盗み見ることもあった。
一般的な感覚でいえば、葉佩の手は決して綺麗なものではないのだろう。単純な造形や瑕疵のなさという意味での美しさならば、記憶の中でピアノを奏でる姉の指先の方が勝ると取手も思っている。けれど、ふとした時に視線はその手に吸い寄せられ、何度見ても飽きることを知らなかった。
健康的な色の肌、節の立った指、手の甲に浮く血管、幅の広い爪。生傷の絶えない手は、取手の目に同じ姿を長く見せない。
ある日は体育で擦りむいたと、昼休みにはなかった傷を作った掌で遺跡に下りるためのロープを掴んでいた。別の日には敵の攻撃で裂けたグローブの隙間から血を滴らせ、己の《力》で癒そうとする取手に大袈裟だと笑った。探索を共にしなかった翌日には、指の腹に真新しい水ぶくれが増えていた。
そうした知らない側面や新たな変化を見つけるたびに、取手の心はざわめいた。それが友人の、どんな壁をも恐れない強さへの憧れや、傷を負うことを厭わない危うさに対する心配だけであれば、どんなに良かったかと思う。
夜の静けさを衣擦れの音が乱す。ひとりきりの部屋に、次第に大きくなっていく声と水音を咎める者はいない。
「んっ……、ぁ、は……っ」
ベッドに腰かけて、むき出しの自身を扱く。それはかつての取手にとって、男に生まれた体が求めるのに応じて事務的に行うだけのことだった。好きでしているわけでもなく、しばしば億劫だとさえ思っていた行為の意味が変わったのはいつからかなど、考えるまでもなかった。
「あっ、はっちゃん、はっちゃん……っ」
かたく閉じた瞼の裏に幻を浮かべれば、己に触れているのは葉佩の手になった。爪の横に赤黒いかさぶたの残る親指が幹を滑り、肉の厚い掌で根元を包み込む。そのままゆるく擦られると、芯を持った熱が小さく震えた。
「ぁ、ふ……、あっ、んっ」
快感に霞がかっていく頭で懸命に記憶をかき集め、ひとつひとつ思い描く。銃を握り、弾丸を装填しなおす手。遺跡に点在する壺の中身をそっと拾い上げる手。それが自分をどう責め立てるのか、都合のいいところを取り出しては想像する。
そうさせるのは、憧れや心配といった情の陰に身を隠した欲だった。波立つ心の内側にある名前のない感情を見極めようと目を凝らし、その手に触れられたいのだという答えを得た時には、もう戻れなくなっていた。
「あッ、はっちゃ……んぁっ、あっ……」
触れられたい。自分の伸ばした手が触れるだけでは足りないのだ。葉佩のあの手に触ってほしい。頭を撫でて頬を滑り、首筋を辿ってその下まで、拾い上げた護符についた土の汚れを優しく拭ったあの指先で。
『こんな風に?』
「あぁ……ッ! あっ、ん、ぁ、あ……っ」
亀頭を刺激する親指が、溢れる先走りに絡んで粘着質な音を立てる。ここにはいない葉佩の声が、耳元で鮮明に聞こえた。
『俺のこと、そういう目で見てたんだ?』
「あっ、ぁ、あ……!」
『そうじゃなきゃ、ちょっと触っただけでこんなに硬くなったりしないよね?』
「ぅ、んんっ、あ、あ……っ」
思慕と罪悪感とが入り混じってできた葉佩の幻は、やわらかな口調のまま意地悪く取手を苛み、謝ることさえ許さない。しかし、その責め手はすぐに甘いものへ変わる。結局は取手の欲を満たすために作られた理想の虚像だ。
『ここがいいんだね、鎌治』
「あ……ッ! はっ、ぁ、んっ……!」
『ぐちゅぐちゅって、すごい音してる。気持ちいい?』
「んっ、ぁ、きもちいい……っ、ふ、あっ、きもちい、ぁ、はっちゃん……っ」
裏筋の血管をなぞられて、内腿が不随意に痙攣した。体内をめぐる血液が一つ所を目指して集まり、上下する手の内側で膨らんでいく。しとどに濡れた先端を弄ばれると、脳裏でばちばちと白い火花が散った。
「ぁ、あっ、あ、はっちゃん、きもちいいよ、はっちゃん……っ」
『びくびくしてるね。イきそう?』
「ぅんッ、ぁ、イく、あっ、きもち……っ、んあっ、や、あっ」
こぼれ続ける雫を塗り広げていく指先を感じて、育ちきった塊が脈を打つ。解放を求めてこみあげる熱に、なすすべなく喘いだ。
「ぁ、あっ、は、ん……ッ! んあッ、あ、でる……っ」
『いいよ、鎌治がイくところ見ててあげる』
「あっ、や、はっちゃ、ぁ……っ! あ、だめ、っあ、イく、イっちゃ……っ!」
かぶりを振るが、その動きは止まるどころか激しさを増して取手を追い詰める。所詮は一人芝居であろうとも、幻想に溺れてしまえばそれは葉佩の手だ。口先で抵抗してみたところで、他人の動きは意思ひとつでは止められない。
『ほら、イって。俺の手に全部出して』
「あっあっあっ、ぁ、は……んぁっ、あ……!」
思わず喉を反らせると、葉佩がいつかと同じ笑みを浮かべて取手を見ていた。全身が熱い。痺れに似た恍惚が背筋を這いのぼる。
「ぁん……っ、ぁ、いいっ、きもちいい、あっ、イく、イくっ……」
『そう、イって。好きだよ、鎌治』
「ッ、あっ、あ……っ! んぅ、は、ぁ……」
鈴口に爪が押し込まれたのと同時に、頭の中で閃光が弾けた。掌を濡らす迸りを感じながら項垂れて、荒い呼吸のまま吐精の余韻にひたる。冬も近い夜の空気に冷やされる身体が心地よかった。
「はっちゃん……」
暗闇に浮かべる葉佩の姿は日に日に鮮明になり、鼓膜を揺らす錯覚さえ起こす。観察を重ねた分だけ本物に近付いていくのは道理だが、それが正しいこととは限らない。わかっていても理性は役に立たず、贋物の精度を高めては夢を見る。誰と替えることもできない、無二の友人を汚す夢を。
のろのろと目を開けると、白に塗れた手が映る。その手が紛れもなく自分のものであることに安堵した。そして同じだけ落胆したことに嫌気がさす。そんな資格などあるはずがない。
取手は大きく息をついた。唇が動きかけて、けれど何の音も発さずにまた閉じる。幻が最後に囁いた都合の良い言葉を口に出すことが、どうしてもできない。