※オンラインイベント『ジュヴFES 〜ジュヴナイル伝奇オンリー〜』の当日企画用
(お題『お出かけ』『約束』『【友】』のうち1つ以上)
※東京都出身・バスケ部員の葉佩
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重々しい音を立てて石の扉が開く。左右を囲む壁の間を数歩進んだところで、隣を歩く八千穂さんが声を上げた。
「あッ! 水がなくなってる〜ッ!」
そう言うなり駆け出していく。追い抜かれた九龍君もそれを止めようとはしなかった。敵の気配はない。この区画に足を踏み入れたことのあるふたりは、そのこともわかっているようだった。
通路はすぐに終わり、先にはひらけた空間が広がっていた。八千穂さんは入口から直進したところで立ち止まる。石造りの床がそこで途切れていた。その左側では、遺跡の中のあらゆるものと同じように、どう見ても人工的に整備された階段が下へと延びている。
下の階には天井もなく、二層に分かれているというよりは吹き抜けに近い。見下ろすと、そのつくりはコンサートホールの階段状になった客席とその下の舞台を思い起こさせた。最後に発表会に出たのは、もう随分と前だ。
八千穂さんは通路のへりに立ったまま下を覗き込む。と思うと、すぐにこちらを振り向いて言った。
「前に来た時はね、この先が水でいっぱいだったんだよ。それも、ただの水じゃなくて、たぶん海の水」
九龍君なしで彼女がここに来るはずはないから、僕のための説明なのだろう。そういう気遣いを自然に差し出せる人だ。
「海からここまで水ひいてくるなんて、古代の人ってすごいよね〜ッ! ……でも、なんで全部なくなっちゃったんだろ?」
東京の真ん中の、こんな地下深くに海水を流し込んだりどこかへ排水したりする仕組みがどういうものなのかは全くわからなかったけれど、元からこの遺跡は理屈のわからないもので溢れている。壁やあちこちの台座の上で照明がわりに光っている石もそのひとつだ。炎に似たゆらめきに照らされた石碑の手前で、九龍君は階下の広さを確かめるように奥の方を見る。
「奥のどっかの扉開ける仕掛けと連動してたっぽいね。何か変わってないか、確かめに来てよかったよ」
「そっかァ……。仕方ないけど、なんか残念。せっかくお気に入りスポットが出来たと思ったのに」
階段を挟んで会話するふたりを、少し下がったところで眺める。その奥にも、光る石の灯りが点々と見えた。
「お気に入りっていっても、結局は遺跡の中だよ?」
「わかってないな〜、九チャンは。海なし県生まれにとって、海は憧れの場所なんだから。ちょっとでも海を感じたいものなのッ」
「そうなの? 鎌治」
「えっ……」
急に話を振られてまごつく。ゴーグルをつけた顔がこちらに向いた。無機質なそれを正面から見るのにはまだ慣れないせいか、なんとなく落ち着かない。言葉を探すふりをして、床の石が作る不規則な模様を目で追った。
「どうだろう……。でも、確かに身近なものではないから、心ひかれるところはあるのかもしれないね」
曖昧な返答になった。はっきりした考えが自分の中にないことがそのまま表れている。さらに追及されたらどうしようかと思ったけれど、九龍君はそれ以上訊かずに「ふうん」と頷いた。納得しているのかいないのか、声と口元だけではよくわからない。
「そういうもんか。それじゃ、ここの海の下に何が隠されてたのか確かめるとしますかね」
歩き出した背中に続いて階段をくだる。水が引いてから随分と日が経っているのか、足元は乾ききっていた。滑る心配はなさそうだけれど、踏みしめる段の幅は僕にはやや狭い。
何段か下りたところで八千穂さんの声がした。段差の分、身長差が埋まって普段より少し近くに聞こえる。
「ね、取手クンって実家どこだっけ?」
立ち止まってそちらを見ると、彼女はまだ同じ場所にいた。階段の下が水で満たされていたのなら、そこは岬の突端だったかもしれない。
「え……長野、だけど……」
「そうなんだ〜。じゃあ、あたしたち海なし県仲間だねッ!」
朗らかな、という言葉の見本のような笑顔だった。僕は戸惑ってまばたきばかりを繰り返す。「あ、あたしは奈良県ね」と付け足されたけれど、そういうことじゃない。話の流れから、八千穂さんも海のないところの出身なのは察しがついた。ただ、こういうときに返せる巧い言葉を僕は持っていない。
「ええと、その……」
「やっちーは『なんとか仲間』ってのが羨ましいんだよ」
真横から助け舟が来た。階段を下りきった九龍君は、唇を微笑ませてこちらを見る。言われた八千穂さんは、どこか悔しげに小さく唸った。
「羨ましい……?」
「だって、皆守クンは取手クンのこと保健室仲間だって前から言ってたし、九チャンともいつの間にかカレー仲間になってたし。それに、九チャンと取手クンはバスケ部仲間でしょ? あたしだけ何もないの寂しいよ〜ッ!」
だからといって、その相手は僕でいいのだろうか。そう考えて、すぐに思い直す。わかりやすい共通点を持っているのが僕しかいないのだ。
本当は九龍君や皆守君を仲間と呼びたいんだろうけれど、彼らと八千穂さんの間にはクラスメイト以外の言葉で表せるような関係がない。それが彼女のいう寂しさなのだと思った。
「別に、後から仲間入りしたっていいのに。俺と甲ちゃんが海なし県仲間になるのは無理だけど」
「もうッ!」
怒ったように言って、八千穂さんがついに動いた。階段をぱたぱたと駆け下りて九龍君のもとへ向かう。下の階で発された声は、高い天井に跳ね返ってよく響いた。
「あたしがテニス部辞めるわけないじゃない! どこも悪くないのに保健室に通い詰めるのだって出来ないよ、皆守クンじゃあるまいし」
「カレーは?」
「今さらカレー好きって言ったって、皆守クンは認めてくれないよォ〜……」
ようやくふたりに追いつくと、うっすらと潮の匂いがした。水が抜けてもなお壁に染みついているのだろうそれに、小さい頃の家族旅行を思い出す。僕達にとって初めて触れる海は物珍しく、大人しい姉さんもあの時は随分とはしゃいでいた。もうずっと前のことだ。最後に発表会に出た時よりも、姉さんがコンクールで賞を獲った時よりも。
「お、脆そうな壁。ふたりとも下がってて」
周囲を注意深く調べながら進んでいた九龍君が、部屋の奥で足を止めた。身につけたベストのポケットを探る。僕達ももう慣れたもので、それ以上は近付かずに黙って耳を塞いだ。
それでもなお大きな炸裂音と、砕けた壁の破片が崩れる音。耳から手を離したあとも、それらは広い空間に尾を引いて長く反響していた。
開いた穴の先に踏み込んだ九龍君に続いて、壁の向こうに出る。左に広がる小部屋の奥に、遺跡のそこかしこで見るのと同じ形の壺があった。九龍君の後ろから覗き込むと、これも見知った形の錠が掛かっていた。形は同じでも、その仕組みは物によって違うらしいけれど。
「あー、これちょっと手こずりそうだな……。鎌治、手伝って」
「うん」
複雑な鍵に行き当たった時、九龍君が僕に意見を求めることは珍しくなかった。彼のような技術を学んでいるわけではないのだけれど、僕が見ていて思いついたことをぽつぽつと話すと、それを頭の中で発展させてあっという間に鍵を開けてしまうということが何度かあったのだ。大した根拠のない偶然のようなものであっても、彼の力になれることは嬉しい。
「ねェねェ、時間かかるなら外で待っててもいい? そこの部屋、壁打ちにちょうどいいと思うんだよね〜ッ」
「いいよ、敵も来なそうだし。ついでに、いけそうな壁あったら壊しといて。爆弾の節約になるから」
「やだなァ、九チャン。いくらあたしのスマッシュが強力だからって、爆弾の代わりにはなれないってば」
それはどうだろう。道中で巨大なコウモリを射落とした八千穂さんの姿を思い浮かべると、あながち無理な話でもないような気がする。
横目で窺うと、九龍君が絶妙なタイミングで首を捻った。だいたい似たようなことを考えたらしい。けれど、そのまま何も言わずに八千穂さんの背中を見送り、問題の錠へと向き直った。賢明な判断だと思う。壁の向こうで響く打球の衝突音が、妙に重く聞こえた。
「んー……なんかこれ以上は駄目かも」
お手上げかなあ、と呟いて、九龍君は未だ掛かったままの錠を手放した。重みのある金属が壺の表面にぶつかり、がしゃんと音を立てる。もう少しで開きそうではあるのだけど、あと一歩がどうしても詰めきれない。
「ごめんよ、役に立てなくて……」
「いや、鎌治がいなかったらここまでも進まなかったわ。すごい助かった。ありがと鎌治」
「君の助けになれているなら嬉しいけど……」
実感は伴っていなくても、そう言ってもらえると救われたような気持ちになる。優しい人だ。八千穂さんと同じように、周りを自然に思いやれる。
「あとは俺の地力の問題だから、もうちょっとお勉強して出直すよ。その時はまた手伝ってもらうかも」
「うん。いつでも呼んでくれ」
「よしっと。じゃ、向こうで一旦休憩にしよっか。やっちーもずっと動き回ってたみたいだし」
穴から元の部屋に出ると、八千穂さんは案の定ラケットを振っていた。九龍君が声をかけて、階段まで戻る。僕と九龍君が同じ段、その間で八千穂さんが二つ上の段に腰かけた。座るとなおのこと天井が高く感じる。
遺跡で休憩する時に九龍君が振る舞ってくれる食べ物には、自ら作ったものと購買で買ってきたものの二種類があって、今回は後者だった。焼きそばパンがふたつと、カレーパンがひとつ。昼休みの争奪戦を勝ち抜いて手に入れたのだろうそれらを、僕達に向けて差し出す。
「はい、好きなやつ選んで」
「あ、じゃあ八千穂さんから……」
「いいの? ありがと〜ッ」
購買で売られているパンは入学した時から変わらないありふれたものだけれど、最近はどうしてもカレーパンに皆守君のイメージがついてくる。そうなると九龍君の左手に載ったそれも、僕が受け取るべきではないもののように思えた。
八千穂さんも同じことを考えたのか、焼きそばパンの方を手にとった。僕がそれに倣うと、九龍君は残ったビニールの包装を早々に開けてかぶりつく。その様はいかにも『カレー仲間』らしかった。
「ねッ、さっき考えてたんだけど……」
半分ほど食べ進めたところで、八千穂さんがそう切り出した。僕達はそれぞれ左右から彼女の顔を見上げる。
「夏になったら、みんなで海行かない?」
口の中のものを飲み込むくらいの間のあとで、九龍君が「海」と繰り返した。僕はまた小さい頃を思い出す。姉さんも僕も水着でいたから夏のことだったはずだけれど、そのあたりにはあまり覚えがない。夏の暑さ、砂浜の温度、冷たい水の感触、日差しの強さ、空の色。そういったものは、記憶の中で紗幕を隔てたように薄ぼけていた。
「なんでまた急に」
「だって、ここ海のにおいがするから。想像で海を感じるのもいいけど、やっぱり本物が見たいし、焼きそばだって海の家のが食べたいもん」
八千穂さんが焼きそばパンを選んだのはそういう理由だったらしい。あるいは、理由は僕と同じだったけれど食べているうちにそう思うようになったのか。どちらにせよ、生地に挟まれている冷めた麺は、鉄板で調理されてすぐに提供されるものとは確かにかけ離れている。
「俺は海の家ってカレーのイメージなんだけど」
「ふふ、君らしいね」
「も〜……。どっちでもいいけどッ」
呆れと苦笑の混ざったような声だった。食べかけのパンを一口かじり、飲み込んでから「とにかくね」と続ける。
「夏休みに集まって、泳いだりビーチバレーしたりスイカ割りとかするの。あたしたち三人だけじゃなくて、皆守クンとか、椎名サンとか、黒塚クンとか……白岐サンも、誘ったら来てくれるかなあ?」
「白岐と椎名あたりは日焼け嫌がりそうじゃない?」
「あ、そっか。おっきいパラソル用意しなきゃね」
八千穂さんはにっこりと微笑む顔を九龍君に向ける。すでに彼女の中では夏の光景がはっきりと見えているようだった。
「ね、楽しそうでしょ? 九チャンも来てよねッ!」
「いいよ。日本にいたらね」
「もちろん、九チャンが来られる日にするよッ。主役がいなくちゃ話にならないし」
「え、俺が主役なの?」
「他にいないでしょ?」
八千穂さんがちらりと僕を見た。何かを期待するその目に応えて「そうだね」と頷く。
「えぇー……?」
「だって、九チャンのおかげで仲良くなれた人がたくさんいるもん。話せるようになってからちょっとしか経ってなくても、みんな大事な友達だよッ」
彼女らしい言葉だ。誰にでも優しく、壁を作らず、手を差し伸べる。人と短い時間で親しくなれるし、豊かな感情を相手に傾けることができる。その優しさをくるんだまま、けれどほんの少しだけ真剣さを増した声で言葉を継いだ。
「だから、九チャンにも来てほしいの。《転校生》だからって仲間外れになんてしないよ。卒業してもまた会おうっていうの、すごい青春って感じでいいじゃない?」
九龍君の手元で、空になった袋ががさりと音を立てる。困っているらしいことが見てとれた。
「そう言われてもなー……」
彼が何も残さないよう振る舞っていることに、僕達はなんとなく気付いている。いま目の前にいることは良くても、目的を果たした後にまで自分の痕跡が残ることは避けたがっている風だった。卒業アルバム用の写真に、部活の記録に、そして僕達の人生に。
《宝探し屋》というのがそういうものなのか、こちらに危険が及ばないようにか、それとももっと違う理由があるのかはわからないけれど、とにかくこの學園との関わりは、仕事を終えたらそれきりにするつもりのようだった。だから、親しくはなっても深入りしすぎないように距離を置く。彼と僕達のどちらもが、離れたらすぐに忘れてしまえるように。
けれど、八千穂さんはそれに納得していないのだろうし、九龍君はそんな彼女の頼みを無下にすることもできない。本当はとても優しい人だから。
最後のひとかけらを飲み下しても、まだ状況は動く気配を見せなかった。このまま放っておいたら、彼の答えは宙に浮いたまま立ち消えになってしまいそうだ。
「九龍君」
呼びかけると、彼はゆっくりとこちらを向いた。迷っているのだ。仕事が終われば用済みだと切り捨てることも、情が移らないように最初から関わらずにいることもできない人だから。
「君はこれからも、遺跡の奥へ踏み込むごとにそこを守る《執行委員》と戦うことになる。そして、そのたびに彼らの《宝物》を取り戻して……助けてくれる。そんな君だから、力になりたいと思う人も、きっと増えていくはずだ」
《宝探し屋》としてすべきことと、自分のしたいこと。どちらを取るのが正しいのかは僕にはわからない。彼の行動を強制することもできない。けれど、道を決めかねているのなら、僕の考えを伝えることにも何かしらの意味があると思った。宝物を前にして、複雑な鍵に取り組むときのように。
「僕も他の人たちも、見返りを求めて君を助けるわけじゃないけど……。それでも、學園を離れたら二度と会えないっていうのは、やっぱり……少し、寂しいと思う」
「うっ……」
「そうだよッ!」
良心を刺激されたのか、たじろいだ九龍君に八千穂さんが勢い込んで言う。
「九チャンが《秘宝》を見つける時には、きっと両手の指じゃ足りないくらいの仲間ができてるよッ。それだけの友達相手に、仕事が終わったらハイさようなら、なんてハクジョーなこと、九チャンはしないよね?」
こういう時、八千穂さんは本当に強い。微笑みながらも真っすぐな言葉と視線。
それをゴーグル越しに正面から受け止めた九龍君は、躊躇うような沈黙のあとで大きく息をついた。
「……しょうがないなぁ」
諦めを含んだ笑い。それは降参を認めるのとほとんど同じで、けれどどこか清々しく響いた。
「わかったよ。予定が決まったら、ちゃんと行くから」
「ホント!?」
「二人がかりで言われちゃね」
「やった〜!」
ひときわ高く弾んだ声が辺りにこだました。と思うと、残響が消えるのを待たずに身を乗り出して念押しする。
「約束だよ、九チャン。取手クンも聞いたんだからね。あとになって『そんなこと言ったっけ?』はナシだよッ」
「わかってるわかってる。夏……夏ね。とりあえず、それまで死なないように祈っててよ」
八千穂さんは何度も大きく頷いた。そうして僕を向いて笑う。
「夏までに、海なし県仲間も増えたらいいねッ」
表情も声も、曇りひとつなく明るい。記憶に遠く隔てられた物たちが、目の前に現れたような気がした。強い日差しはひどく眩しい。
彼らとともに真夏の空を見上げたら、こんな気持ちになるのだろうか。ひとつ吸い込んだ空気は、あの日と同じ潮の匂いをしていた。