※主→取になりかける一歩手前ぐらいの距離感


***

「お待たせー」
 葉佩はそう言って、オムレツの載った皿をローテーブルに置いた。ひとつの焦げもなく、木の葉型を完璧に成形した自信作だ。
「ありがとう、はっちゃん」
 ほかほかと湯気を立てる好物を前にして、葉佩の腕を知っている友人は口元をほころばせる。普段は感情が顔に出にくい部類の取手がわかりやすく見せる喜びの態度に、葉佩も満足感を覚える。料理を振る舞うことはもとから好きだが、取手や八千穂のようにはっきりと喜んでくれる相手は、なおさら作り甲斐があるというものだ。
「あ、待って。ケチャップかけるから」
 淡い黄色のまぶしいオムレツには凝ったトマトソースを合わせることもあるが、どうしても調理の手間が増えるのでケチャップに頼ることも多い。こうした素朴な味付けを取手が意外に好むこともわかっていた。
 冷蔵庫から出した容器を引っくり返し、取手の皿の上で力強く押す。それがいけなかった。
 残り少ない中身の代わりに内部を満たした空気が、葉佩の手によって押し出される。容器の下方へと圧縮されたそれが狭いノズルから出ていくとともに、ぶじゅ、と濁った破裂音がした。
「あ」
 勢いよく発射されたのは空気だけではない。塊となって噴き出したケチャップはオムレツに衝突して砕け、濃い赤を点々と飛び散らせていた。なめらかな黄色の表面から平たい皿のふち、ローテーブルの天板、果ては取手のシャツの上にまで。
「わーっ! ごめん鎌治! ティッシュティッシュ……!」
 跳ねるようにベッドへ向かい、枕元に置いてある箱を掴んで振り返る。そして、そのまま物も言えずに固まった。
 はだけた胸元の下、留められたボタンの脇に、赤い染みがついている。さほど大きなものではなかったが、それだけに目立って見えた。
 白いシャツに着地したケチャップは、まるでパレットに出された絵の具のように盛り上がっている。その粘度の高い赤色を、取手の人差し指がそっとすくい上げた。
 すんなりとした指先が赤く濡れている。その色が、何故だかひどく目をひいた。
 いつだったか雪の降りしきる区画の戦闘で、傷口から滴り落ちた血と白銀の地面の色合いもこんな風だっただろうか。
 思い返してみたが、その場面に心を揺さぶるものは特段なかった。善悪も美醜もなく、ただあるべきものがその通りにあるという印象も変わらない。
 ならば何が違うのだろう。明確な言葉をすぐには見つけられなかった。雪と取手の指先、血とケチャップ。そういえば、あのときの傷は取手が《力》で塞いでくれたのだった。
 慌ただしい回顧と思索をよそに、取手は黙ったまま己の指先を見下ろしている。いつかの葉佩が雪上の血痕に向けた態度を取手も見せた。つまり、指を汚す赤色に特筆すべき感情を抱いてはいない、ということだ。葉佩はそれを不思議に思う。自分にとってはこんなにも鮮烈で、食い入るように見つめてしまうものなのに、と。
 視線に気付いたのか、取手が顔を上げた。感情のわかりづらい目元がわずかにやわらいで、葉佩に手を伸ばす。え、と思う間もなく鼻先まで迫り、下へと落ちた。しゅっ、と軽い音がする。その手が離れていくのに従って、つままれた薄紙がふわりと翻った。
「ありがとう」
 抜き取られた紙一枚はあまりに軽く、その重さを知覚できない。変化のわからない箱を手にしたまま、葉佩は何度かまばたきをする。赤い指先が、残像となって瞼に焼き付いていた。
 その指を拭ったティッシュに視線を向ける。なすられて端の掠れた赤色は、それまでよりも著しく褪せて見えた。事実としてそこにある色は同じものなのに、茶色く酸化した古い血痕を見ているような気持ちになる。
 その差の理由が取手にあることはもう明白だった。彼の肌に付着する赤がひときわ鮮やかに映る。ぬめるような輝きと白い肌との境から目を離せなかった。叶うならずっと見ていたかったとさえ思う。状況からすれば適切とは言い難い感覚だ。けれど、いつだって感情は理屈を飛び越えて動く。
「……はっちゃん?」
 視線を起こすと、怪訝そうな目にぶつかった。深い黒の瞳と、血色の薄い頬。どうしてか見続けてはいけないような気になって、葉佩はどぎまぎと目を逸らした。
「あ、えっ、と……」
 まさか考えていることをそのまま言うわけにもいかない。続ける言葉を探しながら、ローテーブルにティッシュの箱を置いて座りなおす。
「シャツ、しみ抜きするから……洗濯する前に、俺に貸してくれる?」
「えっ、そこまでしてもらわなくても……」
「いいから。何もやらないんじゃ申し訳なさすぎるよ」
 ね、とひと押しすると、取手はためらいがちに頷いた。黒い毛先が首筋を撫でるように揺れる。
 白い肌。まだ離れない赤の残像。うつくしい、と形容されるべきものだったと、ここにきて初めて思い至る。あのとき確かに取手は美しく、自分はそれに見惚れていたのだ。
「君がそう言うなら……」
「うん、ありがと鎌治」
 いつの間にか天板も綺麗に拭われていた。その上に所在のない大きな手が横たわっている。
 葉佩は先程の考えを自ら打ち消した。「いた」ではない。指先の赤が失われてもまだ見惚れている。目の前の取手に、あるいは記憶に。それを振り払うように、努めて明るく促す。
「あ、ほっとくと冷めちゃうよ。食べて食べて」
 歪な形で彩りを得たオムレツに、暴発から逃れていたスプーンが差し込まれる。それを見計らって口を開いた。
「口元、汚さないように気をつけてね。シャツは追加でこぼしてもいいけど」
 その唇に赤いものがついたら、そして万が一それを舌で舐め取ろうものなら、何か得体の知れないものに目覚めてしまいそうだ。
「ふふ、そうだね。注意して食べるよ」
「……ごめんね」
 小さく呟いた。得体の知れない、今は名のつけられないもの。それはきっと、友達に向ける類の衝動ではない。
 皿の上で、黄色と赤の欠片が切り離される。一口大のそれをスプーンに載せながら、取手は「そんなに気にしなくてもいいのに」と薄く微笑んだ。
 そうできたらどんなにいいか。葉佩は内心苦く、曖昧に笑い返す。運ばれる食事を迎え入れようと開いた唇の向こうに、並びのよい白い歯と血のように赤い舌が見えた。




×
「#甘甘」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -