ばつん、と音がすると同時に視界が暗くなった。一面の闇だ。取手はベッドに腰かけたまま首だけを巡らせて左を見る。普段ならカーテン越しに女子寮の灯りがぽつぽつと浮かんでいるのだが、今は光の欠片すらなかった。
 たっぷり十秒ほど待っても変わらない状況に、皆守がようやく「……停電か」と口を開いた。取手は右側へ向き直ったが、目に映る黒一色には何の変化もない。
「そうみたいだね。男子寮だけじゃなく、この辺り一帯がそうかもしれない」
「ったく……」
 呟きは暗い室内に吸い込まれて消えた。のっぺりとした夜は降りしきる雪のように休みなく質量を増し、辺りを覆いつくそうとしている。
 密度の高い闇に、今はもうない《墓》のことを思い出した。二学期にだけいた《転校生》と幾度となく潜った遺跡の中にいくつもあった、光のない空間。そこにはたいてい罠か敵、もしくはその両方が待ち構えていた。それに比べれば、ここはいたって平和なものだ。無機質に命を奪おうとする空虚な冷徹さも、縛り付けられた死者の念が発する澱みもない。
 部屋はふたりの人間を閉じ込めていると思えないほど静まりかえっている。あたたかい風を吐き出す空調、天井の蛍光灯、備え付けの冷蔵庫。それらの稼働音が日頃いかに世界へ溶け込み溢れているか、淡々と説き伏せようとするかのような静寂だった。取手には皆守のかすかな呼吸音が聞こえているが、向こうは一切の無音のように感じているかもしれない。
 と、かすかな金属音とともに小さな炎が揺らめいた。闇の中に銀色のアロマパイプとそれを挟む指先が一瞬だけ浮かび、すぐに消える。
 皆守のジッポライターからは真新しい音がする。前に使っていたものは、學園が襲撃を受けた際に駄目になったのだという。皆守は詳しい経緯を語らなかったし、取手も訊かなかった。ただ、その澄んだ響きを聞くたびに、自分は以前の音を思いのほか好いていたのだと考える。繰り返された摩擦と手の脂にすり減って丸くなった、あの音。おそらくは取手にしか認識できないその違いが、あまりにも大きく感じられた。尖った音が好ましく摩耗するときまで、自分は皆守の傍にいるだろうか。
「……直らないな」
「そうすぐにとはいかないよ。停電の範囲が広ければ尚更だ」
 暗闇の中に、赤みを帯びた橙色がぽつりと浮かんでいる。パイプの先で熾火のようにうずくまる光は小さく、遠くに漂う船を見るようだった。漁火というほど賑々しいものではなく、たとえば三途の川の渡し守が灯りを持つとしたらこういったものなのかもしれない。
 光がふらりと移動し、息を吐く音が聞こえた。あるはずの煙は一向に見えない。
「この分じゃ、電気が点くよりも凍え死ぬほうが早いかもな」
 春はまだ遠い。寒さに弱い皆守にとっては、暖房の有無は死活問題なのだ。今はまだ停電前の名残があるものの、こうしている間にも部屋は徐々に冷えていく。
 あたりが闇に沈んでしばらく経ったが、半端な光点があるせいか未だに目が慣れない。小指の爪ほどもない灯りは距離感を狂わせる。わずかな衣擦れや呼吸音で皆守の位置は把握できているはずなのに、それらが認識するよりも随分遠くにいるように思えた。
 何とはなしに手を伸ばす。指先を金属の感触が掠めた次の瞬間、手の甲を上から掴まれた。迷いのない動きに、全部見えているのではないかと思う。
「指が商売道具だってのに、危なっかしい奴だな。いったい何だ?」
 声は想像した通りの位置から聞こえた。光は依然として遠くに見えている。取手にそちらを追う気はなかった。
 重なった手の重さと温度、肌の質感をたぐり寄せる。暗闇に放り込まれてから初めて触れた、形のある確かなものだった。
「このままでは、寒くなる一方だから」
「だからって火元を直接触る奴がいるか」
「僕だって凍え死にたくはないんだよ」
 さして力の入っていない手の中を抜け出して、皆守の腕に触れた。指先が柔らかいニットに潜り込む。どこまで進んでも同じ手触りに、模様があるのは反対側だったと思い出す。
「電気が点かなくたって、僕達のすることに支障はないだろう?」
 今はアクシデントで膠着してしまっているだけで、最初からそのつもりだったのだ。
 ぎし、とベッドが軽く軋む。衣擦れの音と、移動する光点。皆守が身体ごとこちらを向いたのがわかる。
「こう静かじゃ、周りに聞こえるかもしれないぜ」
「声が漏れないようにしてくれればいい」
「俺の問題か?」
 右肩があると思しき方向に手を伸ばす。柔らかい生地の中に異なる感触があった。模様の部分を掌で覆う。青い炎。
「ああ」
 橙色の光がふつりと消えた。視界がまた一面の闇に戻る。様々な寂しいものを抱き込んだ色だ。冷えていくばかりの部屋。黄泉路を渡る、触れることのかなわない灯り。耳に馴染まないライターの音。
 けれど取手の心はそのどれにも添わず、目の前の身体だけに触れていた。この手の下に炎がある。橙よりも赤よりも温度の高い、青い炎が。
「僕達の、だね」
 不意に逆の腕を引かれて身体が前に傾ぐ。ベッドが再び軋んだ音を立てた。探ることもせず頬へ触れた手に、やはり全部見えているのではないかと思う。自分の目もそうであればよかったのに。いや、仮にそうだったとしても、結局は慣れたやり方に従ってしまうのだから変わらないのかもしれない。取手はいつものように目を閉じて、暗闇をものともしない唇が触れてくるのを待った。




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