※生徒会内部の独自設定が強め
※神鳳と双樹と葉佩も出ます
***
ひとの顔がいきなり現れて驚かずにいるのは難しい。他人の視線を恐れる墨木にとっては尚更だ。声を上げずに済んだのは身に染みついた軍人としての振る舞いからではなく、単にその度合いが大きすぎたせいだった。
ほとんど額を突き合わせるようにして見下ろしてくる男の顔を、ガスマスクの目元を覆うガラス越しに見た。落ちくぼんだ眼窩の底、人より深くに収まった眼球。血の気の見えない青白い肌。背後には人ひとり分の隙間を空けた生徒会室の扉がある。本来はその扉と同じくらいの上背があるのだろうが、姿勢の悪さが顔の位置を引き下げているようだった。
あたりには夏の空気が蔓延していた。だが、目の前の顔はそんなものとはまるきり無縁そうに見えた。誰彼構わずまとわりつく熱気さえ寄せ付けないようなその様は、涼しげを通り越して寒々しかった。夜の闇に似た髪の中に冷えびえと浮かぶ白い顔。それは墨木を覗き込む形のまま口をきいた。
「どいてくれ」
抑揚に乏しい声だった。墨木は立ち尽くしていた自分にそこで初めて気がつき、慌てて脇へ退いた。男は何も言わずに歩き去った。すれ違う瞬間にそれが同級生であることを思い出し、取手鎌治という名前を手繰り寄せた時には足音さえ聞こえなくなっていた。
《執行委員》はそれぞれ、自分以外の誰がそうなのかを教えられていない。素性を知ることで普段の接し方に変化が出てしまえば、一般生徒に紛れるという任務の障害となるからだと墨木は認識している。違反者への処罰も各々が単独で行うため、知らなくても特に支障はない。何より、上官である《生徒会役員》が伝えないと決めたことを敢えて知ろうとする必要はないのだ。
そう思ってはいるものの、一般生徒はまず近寄らない生徒会室で出くわした相手が《執行委員》であることを察さないほど愚鈍にはなりきれなかった。これまで鉢合わせたことのある何人かと同様に、取手もまたそのひとりなのだろう。思い出したように鳴きはじめた蝉の声をどこか遠くに聞きながらそう考えた。
驚く気持ちはなかった。向こうが目立つ体躯をしているから名前を覚えているだけで、特に接点があったわけでもない。取手が《執行委員》であることを意外だと思う以前に、普段の彼を知らないのだから驚きようもなかった。墨木の足をその場に縫い留めていたのは、それとはまったく別のものだった。
――どいてくれ。
あの、内にこもった低い声。平坦で感情の削げ落ちた、事務的な口調だった。彼にとってはただ目の前に障害物があり、それが人間だったからああ言ったにすぎない。たとえ目の前にいるのが遺跡を徘徊する何かであったとしても、それが人の形であれば同じようにしただろう。そう思わせるものが取手にはあった。蝉が鳴いている。マスクの中で汗がじわりと滲む。
昔から他人の視線が怖かった。嫌悪、侮蔑、憐憫、嘲笑。己の姿を捉えた目に浮かぶ感情は相手によって違えど、何であれいつも墨木の心を竦ませた。見られることは自分を否定されるのと同じだった。だが、と墨木は取手の目を思い出す。暑さからくるものとは違う汗が背中を伝う。
蝋のような青白い肌と、虚ろな眼差し。彫りの深さが目のふちに影を落としていたが、その奥に控える瞳はより暗い闇の色をしてそこにあった。額を突き合わせるような位置で墨木を見下ろしながら、何の感情も浮かべないままで。
いつだって見られることが怖かった。自分の存在に気付き、値踏みする目を見たくなかった。その末に行きついた拒絶を見つけてしまうことが、悲しくて苦しくて恐ろしかった。だが、取手の目には何もなかった。厭いも蔑みも憐れみも嘲りもせず、ただ瞳だけがそこにあった。
他人の視線が怖かった。けれど、あれほど近くにありながら自分をまったく映さない目は、それ以上に恐ろしかった。
胃の腑に氷を投げ込まれたような気持ちとは裏腹に、湿った夏の空気が墨木を取り巻いていた。蝉の声がけたたましく響いている。マスクに覆われていない耳が無防備にその音を拾う。振り返った先に取手の姿はもうなかった。彼が去ってほんの僅かしか経っていないはずだったが、随分と長い時間が過ぎたように感じていた。
「ねえ、ちょっと」
どこか放心した頭での物思いは、中途半端に開いた扉の向こうからの声に破られた。咎めるような、それでいて甘ったるい女の声。
「暑いんだから、早く閉めてちょうだい」
墨木は夢から覚めたように身体を一度ぶるりと震わせた。声の主には見当がついている。意識して大きく息をつき、生徒会室の扉に手を掛けた。ドアノブだけは夏のさなかにあってもひんやりと冷たい。
室内は過剰なほどに冷房が利いていた。扉を閉めると、あれほどうるさかった蝉の声も聞こえなくなった。部屋の中央には低いテーブルを囲むようにソファがあり、そこに向かい合わせに腰かける《役員》の男女がいた。ふたりの先客がいるにも関わらず、生徒会室は衣擦れの音ひとつせずに静まりかえっていた。
「3年D組所属、墨木砲介でありマスッ」
別段そういう規則はないが、生徒会室へ入る時はまず名乗ると墨木は決めている。それが上官に対して守るべき規律だと考えているからだ。とはいえ、当然ながら墨木以外の人間はそういった機微を理解していないので、いつも大した反応は返ってこない。今回も女のほうは無言で一瞥し、男――神鳳が「こんにちは」と応えただけだった。それもおそらくは、呼び出した側の最低限の礼儀としてのことなのだろうが、墨木に不満はなかった。一兵卒の身は上官の振る舞いに何かを望める立場にない。
不満も願望も抱かないのが軍人のあるべき姿だ。それに徹しようと心がけてはいるものの、この場に神鳳がいることへの安堵を感じずにはいられなかった。
墨木にとって神鳳は《役員》の中で最も話せる相手だ。物腰が穏やかで、こちらを見下すところもない。本心は違うとしても、それを隠す術に長けているのだろう。視線に威圧感がないのも良かった。見られているとわかっても、ガスマスクの防壁があれば、どうにかやり過ごせる。
「また《墓地》への侵入者が出ました。いつも通り、処罰を行ってください」
「了解しまシタッ」
執行の指令はすべて口頭で行われる。文字に残してしまうと、どうしても情報漏洩の危険性が高まるからだという。執行の対象者が短期間に大勢出ることはそうそうなく、出たとしてもその処罰は複数の《執行委員》に割り振られるので、一度の指令で与えられる対象者は大抵ひとりかふたりだ。その程度の人数だからこそ口頭の指示だけでもうまく回っている、ともいえる。
案の定、神鳳の口から出た名前はふたつだった。墨木は告げられたその氏名と所属、おおよその行動パターンを記憶する。執行は部活の後、連れ立って寮に帰る道中が好機のようだった。
直立不動の姿勢を維持する体とシャツの間で急速に冷えた汗が体温を奪う。天井近くの送風口からは、冷風が絶え間なく吹き付けていた。先程の取手のうえに夏の暑さが微塵も感じられなかった理由はこれか、と思う。魔法と見えた手品の種が意外に単純だと知った時のような、どこか拍子抜けした気持ちになる。
「それから」
横道に逸れかけた意識をなんとか引き戻す。まっすぐに伸びた、姿勢の良い体の向こうへ視線を注いだ。特に目立つところもない棚に、同じ装丁の背表紙がいくつも並んでいる。過去の名簿か何かなのだろうが、この距離からではよくわからなかった。
「もしかすると、君の仕事はもう少し増えるかもしれません」
「ハ……」
上官への返事は明瞭に。そう己に課していたが、語尾は思いがけず不安定に揺らいだ。《役員》からの指令は常に決定事項であり、「かもしれない」という曖昧な言い方をされたことは一度もなかった。
「増える、とハ……?」
「今回は少し数が多いんですよ。どうやら、肝試しと称して一年生が集団で入り込んだようで。そこで別の……」
そこで神鳳は一旦考えるように言葉を切り、すぐに首を小さく横に振って続けた。
「会ったでしょうから、隠す意味もありませんね。取手君にも指示を出したのですが、彼が仕損じた場合は、その分も君にお願いしようかと」
「了解でありマスッ。……ですが、そのッ……」
断る理由も権利も墨木にはない。しかし、神鳳の言には引っ掛かるものがあった。任務を遂行することが兵士の役割なら、成功の可能性を高めることは果たすべき義務だ。そのために必要な情報と不要な詮索の境を考えながら口を開く。
「仕損じる、というのは……《生徒会》に対抗しうる生徒がいるということでありマスカ?」
《生徒会》に属する者は皆、その身に人智を超えた《力》を宿している。能力の種類に個人差はあれど、一般生徒を処罰する上で後れを取ることはまずないといっていい。それを覆す者がいるのなら、作戦はより綿密に練らなければならない。装備も見直す必要があるだろう。
しかし、神鳳の答えはその懸念を否定した。
「いえ、そういうわけではありません。ただ……」
「男には興味ないのよ、彼」
割って入ってきた女の声に思わずそちらを見やると、悠然と微笑む双樹の視線に真正面からかち合い、はじかれたように目を逸らした。
もともと女というものに関わるのが得意なほうではなかったが、双樹のことは輪をかけて苦手だった。華やかな外見と蜜のように甘い声をしながら、生徒会長である阿門以外のすべてを等しく見下している。にこやかな態度の裏に潜む侮蔑と冷笑。それは墨木が何より忌避するものだった。
「あたし達がどんなに理由を説明しても、相手が男子だと見向きもしないの。それなのに、女の子には目の色変えて飛びかかって……ふふッ。あんな大人しそうな顔して、まるでけだものね」
「双樹さん」
たしなめる神鳳の声は、当然のように黙殺された。マスクを通してなお甘い香りが鼻腔に届く。その元を辿れば花のひらくような嘲笑があるのだろう。墨木は下に貼り付けた視線が浮き上がらないよう、床とソファの周りを彷徨わせた。
これ見よがしに組まれた脚の先にある華奢なヒール。絡みつくリボンが細さを強調する足首と、そこから伸びるふくらはぎの肉の柔らかさ。どれもが墨木と異なる「女」の持ち物で扱いに困り、目を落ち着ける場所がわからなくなる。
沈黙をどう解釈したのか、双樹は「あァ、あたし?」といくらか気の抜けたような声で続けた。墨木は黙って次の言葉を待った。その方が、下手に口を挟むよりも話は早く終わる。
「あたしのことは眼中にないみたい。何故かは知らないけどね……。残念だわ」
微塵も真実味のない口調だった。実際は願ってもないことに違いない。阿門以外の男に価値を認めない双樹と、男の違反者に関心を持たない取手。その間にどれだけの違いがあるのか、墨木にはわからなかった。
こちらを見下ろしながら誰のことも見ていなかった目のことを考える。あの目が素通りするのは執行の対象だけではないのだろう。光すらも吸い取って塗りつぶす、深く暗い空洞。冷風に当たり続けた体温がまた下がったような気がした。
話は終わりだとでも言うように、双樹がひらひらと手を振った。揺れる指先につられて視線が上がろうとするのを押しとどめる。弧を描いた赤い唇の端と、同じ色に塗られた長い爪が、やけに目についた。
彼女は今、何を思いながら《転校生》を待っているのだろうか。
二足で歩く兵器の無骨な腕を彩る装飾の赤色に、この遺跡の奥にいるはずの女のことを思い出した。しかし、状況はそれ以上の何かを考える余裕を与えなかった。
人型の兵器が機械的な音とともに放った光弾を、その場に伏せて避ける。青白いプラズマをまとった球体が墨木の頭上を通り過ぎ、さらに奥の壁に当たって爆ぜた。衝撃でわずかに崩れた壁から細かな破片が勢いよく降り注ぐが、構わずに身を起こす。そのまま狙いをつけて引き金を引いた。
バネのように左右に揺れている首の可動部。にらんだ通り、金属の鎧に覆われた身体の中でそこだけは脆く、銃弾は跳ね返されることなく首の中央を貫いた。兵器が甲高い悲鳴を上げ、動きが目に見えて鈍る。繰り返し引き金を引く。弾丸がめり込んだのと同じ数だけ悲鳴も上がった。機械が人間を無理に真似ているような、拙い声だった。
やがて、それまでよりも低く不明瞭な音とともに、鋼鉄の体が仰向けに倒れた。忙しなく動いていた首や手足も止まる。金属管に息を吹き込んだ音に似た、あれが断末魔だったらしい。
完全に沈黙したことを確認して顔を上げる。戦闘の気配が続いていた。この部屋そのものは広く奥行きのある長方形だが、パーテーションのような壁に区切られていて見通しが悪い。壁の途切れている箇所から回り込もうとしたところで、先程と同じ音が聞こえた。
歩を進めると、前方の敵はすでに物言わぬ残骸になっていた。その正面、墨木から見て部屋の奥側にいる葉佩は銃口を下ろし、背後の取手が何事か囁くのを受けて周囲に目を配る。敵の殲滅にはまだ至っていない。
それを裏付けるように、はしゃぐ子供に似た笑い声が近付いてくる。他の区画でも遭遇した、飛行形態の敵だ。部屋を横断する形の細い通路の奥から、天井付近を一直線に飛んでくる。耳障りな声を反響させながら姿を現したそれが、眼下の墨木をみとめて両腕を向けた。この型の兵器は、袖とみえる箇所に火炎放射器が仕込まれているのだと思い出す。
だが、それが炎を吐き出すより先に軽い銃声がした。同時に敵の高度が下がる。急所である背面のパイプを撃ち抜かれ、後ろから引かれたように体が傾いでいた。そこに照準を合わせたままの葉佩が鋭く呼ぶ。
「鎌治!」
パイプによる浮力をいくらか削いだとはいえ、敵はまだ頭上高くにいた。人の手で落とすには届かないと思われたその体に、葉佩の後ろから伸ばされた腕が、ほぼ触れるほどの距離にまで迫る。葉佩と、そして墨木と同じ制服の袖から伸びた、蝋のように白い手。機械のいやに細い脚の向こうで、その掌に浮かぶ瞳の紋章を見た。
墨木が恐れるのは人の目そのものではなく、その奥にある感情だ。墨木を認識しながらも受け入れることはない、拒絶を内包する視線が怖いのだ。
その点で、絵や図柄として描かれた目には何の問題もなかった。どれほど精巧だとしても、墨木の存在を知覚することはない。彼を委縮させるような感情を宿すこともない。それは取手の掌に浮かんだ紋章も同様であり、見たところで情けなく恐怖に震えるような真似はしなかった。
だが一方で、怯えとは違うものが確かに心をざわつかせていた。兵器の赤が双樹を、そしてあの夏の日を思い出させたからだろう。甘い毒の香り、冷えきった生徒会室。降りしきる蝉時雨と、光の一切を呑み込む瞳。《墓守》だった頃の墨木が取手と関わったのはあの時だけだ。接点と呼ぶにはあまりに短いものではあるが。
そう考えながら、取手のやや丸まった背中を見ていた。その視線の先には、扉の開錠に取り組む葉佩がいる。墨木はこういったことで力になれないどころか、葉佩の気を散らし手を鈍らせてしまうことさえあるのを自覚している。
なので、せめて戦闘では期待される役割を全うできるようにと、邪魔にならないところで弾丸を生成し、己の銃に装填した。敵の機体を構成する金属は、壁や床と同じく超古代文明でつくられた未知の物質なのだろうが、それでも鉛成分は含まれているらしく、墨木が《力》を使うのに何の支障もなかった。
墨木とは反対に取手は頭を使うことが得意なようで、複雑な錠のかかった宝箱を前にふたりで意見を交わすところを何度か見た。その時に比べればこの扉はさほど難しいものではないらしく、何かを助言する様子もなかった。
遺跡の中で、取手は常に葉佩の後ろにつき、その背を守っている。墨木が葉佩と出会う前からそうしているのだろう。彼が転校して間もない頃から、取手はその道行きを支えてきたという。だからこそ、いまや葉佩から無条件に背中を任され、名前ではなく愛称で呼ぶことを許されているのだ。葉佩の信頼を勝ち得ているという点で、取手の立場は自分より上だと墨木は思っている。当の葉佩は、みな等しく仲間だと笑うのだろうが。
「お」
葉佩が声を漏らすのとほぼ同時に、がちゃりと硬質な音がした。扉の見た目には何の変化もないが、作業は終わったらしい。
「開いた開いた。じゃあ行こっか」
そう言って葉佩は部屋から一歩を踏み出したが、すぐに「うわ、狭っ」と立ち止まった。
「ひとり分くらいしか足場ないから、まだ中にいて。これが閉まらないようにだけして」
観音開きの左右の扉を、墨木と取手でそれぞれ押さえる。部屋の中よりも外の方が暗いのか、葉佩の肩越しに見える景色は、薄い闇に覆われてぼんやりとしていた。
「さっきいた、柱のある広間に戻ってきたみたいだ。吹き抜けの底からひとつ上の階。入口の階ほどじゃないけど、まだちょっと高さあるかな。ここから新しい部屋に行けるとかはなさそー……」
未知の区画を探索するとき、葉佩はとにかくよく喋る。見えるものや自分がこれからする行動やその意図などを、逐一報告するように話す。それは同行者たちへの気遣いなのだろうが、誰が相手でもこうなのか、それとも墨木と取手の口数が少ないのを補おうとしているのかは判断がつかなかった。八千穂や朱堂がいれば違うのかもしれないが、墨木がこれまでに隊を組んだのは七瀬や雛川といった、賑やかとはお世辞にもいえない面々ばかりだ。
「っと、向こうの足場になんか入ってそうな壺はっけーん。敵もいないっぽいし、ささっと行ってくるわ。ふたりはちょっとここで待ってて」
「了解でありマスッ」
「気をつけて、はっちゃん」
「おうよ」
葉佩の肩が右を向き、一瞬で消えた。空いた足場の先を見る気にはなれなかった。つま先に落とした視線が床を滑り、向かいの取手に行き当たる。彼は墨木に背を向け、身を乗り出して葉佩の跳んだ方を見ていた。距離が空いてなお死角を警戒し続ける様は、彼が何よりも葉佩のためにここにいる証拠のように思えた。
取手と探索を共にするのはこれが初めてではないが、葉佩を挟まずに会話したことはほとんどなかった。墨木がそうであるように、おそらくは取手も親しくない相手と話すことが苦手なのだ。会話の糸口をつかめず、話題を繋ぐ術も乏しい。互いにそう察してはいるものの、それを埋めてくれる葉佩なしではどうしようもなかった。
そのことを抜きにしても、あの夏の日の話を取手にしようとは思わなかった。したところで実のある話に発展するはずもなかったし、彼の記憶に留まるにはあの一瞬は短すぎたから、というのもあるが、それだけではない。
――男には興味ないのよ、彼。
双樹の言葉を思い出す。
遺跡の中で、取手は葉佩を気遣い、敵が女のかたちをしていようといまいと同じように彼の背を守る。まるで人が変わったようであり、実際にそうなのだと思った。
葉佩に《宝》を取り戻してもらう前と後とでは、それほどに見える世界が違う。程度の差こそあれ、かつて《執行委員》だった者たちは皆それを経験しているはずだった。取手はその度合いが人一倍強いのだろう。墨木はもう、彼の中にあの日すれ違った男を見出せなくなっていた。
きっと取手は、あの時のことを覚えていない。今の彼はあの夏からそれほどまでにかけ離れている。仮にそうでなかったとしても、あのとき目に映っていなかった自分のことを覚えているわけもないのだから同じことだった。
「お待たせー」
かすかな摩擦音とともに、葉佩が元の足場に降り立った。アサルトベストに武器弾薬やら食料やらを山と詰め込んでいる割に、彼の動きはいつも身軽だ。
「特にヒントになりそうなものはなかったから、やっぱりこの部屋でなんかしないと駄目っぽい」
「向こうにある円盤の仕掛けかい?」
「だと思うんだけどさー、絶対あれ罠くっついてるじゃん?」
「床の穴から何かが噴射されるものと推測するでありマス!」
「だよねえ……」
葉佩はグローブをはめた右手のひらを額に押し当てて、盛大にため息をついた。ゴーグルの向こうで寄せられた眉根が見えるようだ。
「とりあえず、仕掛け触るのは最後にして、まずは部屋を隅々まで調べたいかな。壁の奥になんかあるかもしれないし」
そこまで言って、葉佩は室内へ足を踏み入れた。狭く心許ない足場からようやく離れてくれたことに、墨木は内心で安堵の息を吐く。
後を追うように二、三歩進むと、支えを失った扉は重たげな音を立ててゆっくりと閉まる。それをちらりと見ながら「そうだ」と葉佩が再び口を開く。
「探してみるけど、他に道がなかったら、ここから跳んで広間に戻ることになると思う。その覚悟はしておいて」
言葉はふたりに向けられていたが、そのおおよそが高所の苦手な自分のためのものであることにはすぐに気がついた。
咄嗟に見返したが視線は合わなかった。墨木の性質を知っている葉佩は、ゴーグルをつけている探索中であっても墨木の顔から視線を逸らしてくれる。実のところ彼の目は機械じみた部品の下に隠れており、正面から見たところで恐れることは何もないのだが、向けられる優しさを手放すのが惜しいあまりに言い出せずにいた。
葉佩は強く、それと同じだけ優しい。罠を厭うのも自身のためではなく、同行する者たちに危険が及ぶからだ。
誰かを守るための強さ。敬愛する兄から教えられたそれを、あの日《宝》を取り戻してくれた葉佩の中に見た。それを慕い、己の銃を彼のために使うと決めたことはやはり間違いではなかったのだと、日を重ねるごとに強く思う。
理想的な上官とは葉佩のような在り方をいうのだろう。許されるなら、いつか彼のことを隊長と呼ばせてほしいものだ。未だ手つかずの通路の奥へ向かう背中を見ながら、噛みしめるようにそう考えた。と、後ろから近付いてきた足音が、小さな「おや」という声とともにすぐ横で止まる。
「墨木君、少しいいかい?」
「ハ……」
答えるよりも、正面に回った取手がガスマスク越しに覗き込んでくる方が早かった。同時に視界の左側にぼやけた何かが映り込む。慌ててそちらに焦点を合わせると、レンズにべたりと貼りついた白い右手だった。その掌に例の紋章が浮かんでいないことで身のこわばりは僅かに解けたが、四本の指の向こうにある瞳のことを意識すると、発するつもりの声は喉の奥に留まって動かせなくなり、そのまましぼむように消えていった。
壁面の蛍光管に似た灯りの放つ光で、取手の顔の右半分がほのかな紫色に照らされていた。垂れ落ちた前髪の滲むような影が、薄い眉の上へ淡い色をさしている。
右側が明るい分、光を鼻梁に遮られた左側はなおさら暗い陰に沈んで見えた。高い鼻筋の付け根から伸びた影が目頭まで届き、目のふちを取り巻く影と同化してその先にあるはずの瞳さえも覆いつくしている。扉の近くには光源が乏しいこともあり、塗りつぶしたように黒く、果ての見えない闇だった。
人間の肌の上にはひどく不自然に思えるそれを半ば呆然と見上げたのも束の間、奥の方で小さな光が揺らめいた。壁の灯りの切れ端を映し、濡れたように光る左目だった。墨木は悲鳴も凍りつかせて息を呑んだが、取手の視線は墨木の目や表情からは外れたところに向いていた。
その先を追うのと視線を逸らしたい気持ちとを半々に感じながら、再び視界の左側へ目を向ける。骨に薄い皮膚だけを張り付けたような細く長い指が、レンズの表面をワイパーのように動く。さらに人差し指を曲げ、こするように指先を何度か往復させる。かつ、と爪の当たる軽い衝撃が伝わった。
不意に、棒立ちの脚がかすかな地響きを感じた。葉佩がどこかの脆い壁を破壊したのだろう、と頭の片隅で考える。もう何分もこうしているような気がしたが、実際はずっと短い時間のはずだ。取手に関わるといつもこうだった。頭を使うことは苦手なはずの自分が、小難しいことをめまぐるしく考えてしまう。
あの夏の日もそうだった。額が触れそうなほど近くにありながら自分を見ていない目。そこには墨木が日ごろ他人の目に覚える、視界に入ることを拒絶する類の恐怖はなかった。ただ、引き込まれれば抜け出せない底なし沼のようだと思いながらも視線を逸らせないことが恐ろしかった。立ち去った後もその目が記憶にこびりつくほどには。
だが、取手はそれらの一切を知らず、おそらく興味もない。そうして墨木ではない何かを見たまま、吐息とほとんど区別がつかない声で「ああ」と呟いた。まばたきのたびに左目の光が明滅する。
「穴だ」
「穴……?」
「うん」
指先で示された箇所を凝視すると、確かにごく小さな穴が空いている。砂よりもやや大きい程度の小石がぶつかればこうなるだろうか。たとえば、先程の戦闘で壁から降ってきた破片のような。
取手の見ていたものがそれだと理解すると、思わずその場に座り込みたい気持ちになる。もとより勝手に抱いていた緊張感だったが、糸が切れればなおのこと持て余してしまう。
「汚れかと思ったんだけれど、これじゃあ僕にはどうしようもないね……。はっちゃんはどうだい?」
「んー、ガラスだろ? それは俺でも無理かなぁ」
取手の後ろからひょこりと出てきた葉佩が答える。いつの間に戻ってきたのか、取手の体に隠れてまったく気付かなかった。墨木の内心を知ってか知らずか、葉佩は向かい合うふたりを交互に見やり、笑いを含んだ声音で言った。
「鎌治、そろそろ放してやって。砲介が固まってる」
「えっ? ……あっ」
弾かれたように、白い手がレンズから離れた。それとともに体も一歩うしろに下がり、取手の顔も遠ざかる。距離ができたことにほっとした次の瞬間、その目が明確な意思を持ってレンズの内側を見た。
「ご、ごめん。驚かせてしまったね……」
墨木が他人の目を恐れることを、取手は知らない。知っているのは葉佩と、《宝》を取り戻す場面に居合わせた皆守と八千穂だけだ。知らないがゆえに無遠慮に向けられる視線を正面から見てしまい、墨木は大袈裟なまでの動きで首を左右に振る。
「いッ、いえッ! 全く何も問題ないでありマスッ!」
もちろん嘘だ。取手は自分の顔を認識しないものだと、ほとんど無意識に思い込んでいたのだ。その彼がはっきりと自分を見たことに、墨木自身も驚くほど動揺していた。あるいは、わすか数秒だけ合わせた目に何かしらの感情が浮かんでいたことに、かもしれない。
取手の目には、厭いも蔑みも憐れみも嘲りもなかった。怒りも失望も優越感も同情も、およそ墨木が恐れるものは何もなかった。それは時折かすめる葉佩の視線とも共通していたが、彼の持つ明るさやある種の苛烈さからは遠いものだった。たとえるなら、葉佩の眼差しは晴れた夏の空から降り注ぐ太陽を思わせるが、取手のそれは森の奥に湧く泉の波立つ水面のようだった。透き通った水の底には確かに何かが沈んでいるのに、やまない揺らぎがその正体を隠し続ける。
それが何かを捉えきれぬまま、取手の制服の襟元に視線を送った。そこより上はもう見られなかったが、彼が呆気にとられているらしいことはわかった。力強く答えたのが却って怪しかったようだ。
取手と墨木の間で、扉を背にした葉佩が「砲介」と口を開いた。
「実際、そのマスクでこの先も行ける? 駄目そうなら一旦引き上げるけど」
それが優しさばかりの問いでないことにはすぐに気がついた。葉佩はこの区画の最奥まで辿り着かなければならないのだ。足手まといを連れて歩く余裕はない。だからこそ、このまま作戦に参加し続けられるかどうか、その判断を迫られている。
こういうときの葉佩はいたってシビアであり、それが彼を理想的な上官と思わせる理由のひとつでもあった。
「レンズの損傷は軽微でありマスッ。よって、行軍にも支障なしでありマスッ!」
言われなければ気付かないほど小さな穴だ。毒ガスを防ぐという本来の機能はそれだけでも失われるが、墨木にとっては他人の視線から自分を守れることの方がより重要であり、そちらはまだ充分に可能だった。
その意図がどこまで通じたのか、ともかく葉佩は小さく頷き、ことさら軽い調子で返した。
「おっけー」
「……本当に大丈夫かい?」
取手の声が、ぽとりと零れ落ちるように降ってくる。どちらに向けた言葉かはわからなかったが、墨木が反応する前に葉佩が「心配性」と笑った。そのまま、親愛の情がこもった動作で彼の肩を軽く叩く。
「俺らに影響が出るなら『戻る』って言ってる。砲介は、そういう判断がちゃんと出来るヤツだよ」
伏せていた視線を思わず上げる。葉佩の顔は取手の方を向いていたが、わずかに見える口元は微笑んでいた。墨木は黙ってそちらを見つめる。己がどういう人間であるかを見てくれていたこと、そして軍人としての思考を認められたことが嬉しかった。だが、それはこの場で言葉にするべきではないように思えた。
取手もそれ以上何も訊かず、あっさり「わかった」と受け入れた。葉佩が言うなら、ということなのだろう。立場が逆なら墨木も同じようにする。今や葉佩の方が、ただ2年半同じ敷地内にいただけの墨木よりも取手のことを理解している。たとえ、あの暑い盛りに墨木を素通りした目を知らないとしても。
「んじゃ、壁の向こうに梯子あったからとりあえずそっち行こう。何もなかったらいよいよ円盤ね」
来た道を戻る葉佩に、ふたりも続いた。突き当たりを曲がると、壁に人ひとり通れる大きさの穴が空いていた。散乱する瓦礫を跨ぎ越しながら、ふと考える。
取手のあの目を泉とするならば、彼に見られることはその水へ入るのに等しいのかもしれない。足先を浸したまま、他人に怯えて身じろぐたびに水面には微細な波が立ち、底にあるものを見えなくする。本当に何かが沈んでいるのか、それとも映った自身の影なのかすらも隠してしまう。
いつか、その姿を正しく見極められる日が来るのだろうか。身を竦ませることなく他人の、少なくとも葉佩や取手のように見知った相手の視線ならば受け止められるようになる日が。
金属音を響かせて葉佩が軽やかに梯子を上っていく様を、取手は一歩さがったところで見ている。彼はいつも葉佩のすぐ後ろについているが、梯子を使うときは墨木に先を譲る。身体が大きいと、あとの人間に気を遣うものらしい。葉佩が上階に到達したのを見届けて、動かない墨木を怪訝に思ったのか、こちらへ目を向ける。
「墨木君」
先に、と促す白い手へ口早に詫びて、梯子の横木を握りしめる。上を見る勇気はなかった。階下の様子を窺っているであろう葉佩と、後ろで見ている取手。彼らの目を正面から見つめ返せるようになる日は、まだ随分と遠い。
墨木は溜め息を飲み込んで梯子を上り始める。機械の発する熱が空気を温めている区画にあっても、金属の骨組みはひんやりと冷たかった。