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前に書いた話と同軸
※葉佩が取手からプリクラを貰えなかった世界線
※最終話のネタバレを含むためクリア後の閲覧を推奨します
※取手が泣けないという俺設定が前面に出ています
皆守は取手が泣くのを見たことがない。
といっても、抱いているさなかに生理的な涙が浮くところは何度か見ているので、感情による涙を見たことがないという方が正しい。皆守にも泣いて嫌がる相手を無理やり犯す趣味はないからそれでも問題ないのだが、どんな話の流れだったか、最後に泣いたのはいつかと軽口に紛らせて訊いたことがある。取手の答えは明瞭だった。
「姉さんが死んでしまった時。それが最後だよ」
結果的にそうなったのか自らそう課しているのかは語らなかったが、どちらでも大して変わらないように思えた。淡々とした声は妙に説得力があり、納得したことを覚えている。大切であればあるほど、その相手がいなくなった世界で何も失わずにのうのうと生きている自分を許すことができなくなる。だから、取手は姉の棺に己の涙を捧げたのだ。ともに眠ることができないのなら、代わりに何かを差し出すほかない。そうした気持ちを、皆守は自分のもののように理解していた。
だが、埋めたものがいつまでも土の下で大人しくしているわけではないこともわかっていた。取手の元に姉の楽譜が戻った時のように、別の誰かが掘り起こすのだ。それを当人が望むか否かにかかわらず、乱暴なまでの強制力をもって引きずり出す。どれだけ抗おうともその日はいつか必ず来る。皆守はそれを半ば諦めのように確信しながら、往生際悪く目を逸らしその到来を先延ばしにしようと試みる。それでも、足掻くだけ虚しく既に来ているのかもしれないとも思っていた。
「葉佩君、最近ますます怪我が増えていないか?」
「あはは……まあね。やっぱり奥に行くほど警備が厳しくなるっていうかさー」
「君のことだから、止めても無駄なんだろうけど……やっぱり心配になるよ」
カーテンの向こうから声がする。彼らがいるということは、午前の授業は終わったらしい。窓から遠い方のベッドを使っていても、光の具合で外がよく晴れているのがわかった。
「じゃ、俺もう行くよ。またね」
上履きのゴムが床に擦れる小さな足音と扉の開閉音。ややあって、カーテンを細く開いて取手が顔をのぞかせる。寝そべる足元から身体を辿って見下ろす目は何を考えているのか読み取りにくい。もともと感情が顔に出にくい性質なのだ。それでも、声だけは僅かに怪訝そうな響きを含んでいた。
「起きてたんだから入ってくればよかったのに」
「気付いてたんなら声かけりゃよかっただろ」
取手はそのままベッドに近付き、後ろ手にカーテンを閉めた。皆守は体を起こし、枕を背もたれ代わりにして寄りかかる。葉佩が去った後の保健室は静かだった。煙の匂いもしないので、瑞麗は不在のようだ。
「にしても、よく起きてるのがわかったな」
「これまで何度、君の寝息を隣で聴いてきたと思ってるんだい?」
取手にしては露骨な物言いだったが、保健室で並びのベッドを使うのでも「隣で寝た」ことにはなる。突っ込むだけ徒労だ。アロマパイプをくわえると唇に冷えた感触が伝わる。ライターの炎が揺らめき、消えるのを待って取手がぼそりと呟いた。
「君は」
「ん?」
「皆守君は、大丈夫なのかい? 今もよく、葉佩君についていってるだろう?」
遺跡のことだ。葉佩はここまで順調に封印を解いている。当然ながら最奥に近付くほど《墓守》も道中をうろつく敵も強くなり、戦いは激化していく。取手が気付いた通り、葉佩が負う傷も目に見えて多くなっていた。そう、葉佩の受ける傷だけが。
「上手くやってるさ。あいつも俺らが怪我しないように立ち回ってるしな。それに、俺の身体に傷がないのは、お前が一番よく知ってるだろ?」
からかう声音に、取手は不快そうに目を細めたが、それも一瞬のことですぐに元の無表情にかえった。血の気の少ない顔色は、窓からカーテン越しに入る陽の光にはひどく不釣り合いに見える。
「傷があってもなくても、死んでしまう時は一瞬だよ。奥まで進むつもりなら、君も気をつけた方がいい」
皆守は口元を覆う掌の下で嗤った。こいつは何もわかっていない。遺跡を徘徊する敵がいかに手ごわくなろうとも、所詮は雑兵にすぎないものに負けるような戦い方を葉佩はしていない。ましてや罠にかかるなんてつまらない死に方をするなどもっとありえない話だ。葉佩の探索に同行することのない取手はそれを知らず、知る日はこれからも永遠に来ない。皆守はラベンダーの香りを吸い込んだ。わざわざ教えてやるほどの親切心は持ち合わせていない。
「お前、それ九ちゃんにも言っただろ?」
「うん」
「言ったところで、あいつは聞かないだろうがな」
「……うん」
葉佩が忠告を素直に聞くような男なら、取手は今も《墓守》の任から解放されてはいないだろう。本人もそれがわかっているので強くは言えないようだった。
「でも
――知っておいてほしくて。何かあったら悲しむ人間がここにいるということを……彼にも、君にも」
皆守はまじまじと取手を見た。いつもながら、表情からは何を考えているのか読み取りにくい。まばたきの少ない瞳には乾いた印象を受ける。不意にあの遺跡の、取手が任されていたエリアのことを思った。そこかしこがひび割れた、東雲色の石の壁。同じく石で出来た巨大な腕と、侵入者を押し流す砂。水の気配のまるでない区画は、あの頃の取手の在りようとよく似ていた。果たして今もそうなのだろうか。地の底に封じても、失くすべきでなかったものはいつか必ず戻ってくる。それをもたらすのはいつだって埋めた当人ではない第三者だ。楽譜と姉の記憶は葉佩が。では、涙は誰が思い出させるのだろう。
「お前がそんなことを言うとは意外だな」
「そうかい?」
「九ちゃんはともかく、俺には言ったことなかったろ」
「言ったって聞かないじゃないか。葉佩君の方がまだ耳を傾けてくれる」
どうだか、と口の中でだけ呟いた。聞くのと聞き入れるのとは違う。自分が聞き入れないのはそうだが、葉佩だってあれでなかなか頑固だ。
「……それでも、夜に寮から出て行く物音が遠くで聞こえると、いつも思うよ。みんな無事に帰ってきてくれ、と……」
皆守は再度ラベンダーの香りを吸った。そうしないと笑い出してしまいそうだった。やっぱりこいつは何もわかっていない。
どれだけ手ごわくなろうと、遺跡に棲むものたちも死に繋がる罠も、葉佩の足を止めるには力不足だ。今まだ残る《墓守》たちがその任を果たしてくれればいいが、確率としては五分といったところだろう。彼が《生徒会》に名を連ねる者をことごとく打ち倒してしまえば、最後は皆守の番になる。遺跡の奥深く、これまでどの《転校生》も立ち入ることのかなわなかった場所で、皆守は葉佩をあの墓地へと葬り去る。そうして、葉佩九龍は學園で数えきれないほど出てきた行方不明者のひとりに成り下がる。
――そうなったら、こいつは泣くんだろうか。
あるいは、と万が一のことを考える。もしも、自分が葉佩に斃されるとしたら。その時はきっと、そこが自分の死に場所になる。葉佩がこれまで《墓守》を誰ひとり殺していないと知っているにもかかわらず、確信めいたものがあった。副会長としての責務が、そうでないなら楽になりたいという願望が、皆守の身体を命尽きるまで動かし続ける。葉佩に対する友情も、取手へ向ける欲も、それを止める理由にはなってくれない。それで止まるような人間なら、阿門に選ばれるわけがなかった。
つまるところ、葉佩が遺跡の最深部に踏み込んだ時点で、ふたりともが無事に帰る未来はない。葉佩か皆守、どちらかは闇に消える。取手の前からは、きっと永遠に。
――そうなったら、こいつは泣くんだろうか。誰のために?
寮の部屋で、墓地の片隅で、ピアノの前で。あらゆるそれらしい場所で取手が泣くところを想像してみたが、どうにもリアリティーに欠けていた。イメージの中の取手は見慣れた真顔に近く、ただ見開いた目から涙の筋が頬を伝って顎の先へと流れていく。その唇が動く前に空想を振り払った。
「取手」
短く呼ぶと、小さく首を傾げた後で枕元へ寄ってくる。腕を掴み、近付いた顔は鼻先が触れ合うよりも遠い位置で止まった。視界の端で、皆守の腰のすぐそばに押し付けられた手が見えた。取手は長い腕の使い方をよく心得ている。特段動じた様子も色めく風もなく皆守を見下ろしたまま、声だけはそれまでよりもひそやかに響いた。
「まだ答えを聞いてなかったね。起きていたのに話に入ってこなかったのは、このため?」
――じゃないと、あいつはいつまでも出て行ってくれないだろ?
「さァな」
冬用の制服の生地は厚く、掴んだ腕の温度を充分に伝えてはくれない。取手にも皆守の掌の熱は感じられないだろう。近く失われるかもしれない体温。いつか訪れるその日も、取手は部屋で祈るのだろうか。
いっそ、葉佩が遺跡の奥に取手を連れてくればいい。ありえないことだと知りながら、そう思った。取手が葉佩と行動を共にしない以上、自分の役目を彼に知られることはない。皆守はそれを幸いだと確かに思っていた。しかし相反する欲求も同じだけ強く心へ訴えかけてくる。
最後の部屋に、取手を連れてくればいい。地下深くへ広がる遺跡の奥底の、皆守と葉佩が向き合うはずの場所。侵入者の身を焼く炎に包まれた灼熱の小部屋。あの熱気では、浮かんだ涙も流れる前に蒸発する。あそこなら、取手が涙を流すことはない。その眦が乾いたままでも、部屋の炎が奪ったのだと思うことができる。彼に涙を再び与えるのが誰かを突きつけられるよりは、その方がずっといい。
自分のために泣いてほしいわけではない。けれど、取手が長く封じていた涙を自分ではない誰かのために許す様はそれ以上に見たくなかった。自覚してしまえばひどく子供じみていて嫌気がさす。誤魔化すように、腕から離した手を白い頬に添えた。触れた肌から伝わる体温がゆるやかに混ざる。大切な相手の命とともに何かを失くしたまま生きている人間の温度だ。互いに何かが欠けているから、繕うように寄り添おうとする。
「お前が声をかけなかった理由と同じなんじゃないか?」
「いつもそうやって、明確な言葉にはしてくれないね」
それにどれだけの意味があるというのか。あってもなくても、皆守のすることは変わらない。それでもなお必要とするなら先に言えばいいものを、頑なに皆守から引き出そうとする取手も大概だ。ふ、と皆守の手を撫でた息は笑うのに似ていた。
「ずるい人だな、君は……」
お互い様だ。
人差し指の先が取手の目尻に触れている。まばたきに合わせて目元の筋肉が動く。その指先がわずかにでも濡れたなら取手の望む言葉も吐いてやれたかもしれない。だがそんな気配は露ほどもなかったので、発されることのない声は下りてきた唇に塞がれたふりで都合よく飲み込んだ。かち合った瞳の奥で、ふたりして身の内にくすぶる熱を持て余していた。