降り出した雨は十秒と経たずに酷い豪雨になっていた。傘は持ってきていない。目的地である寮にも出てきた食堂からも中途半端な位置で、皆守は小さく舌打ちした。これだから寮が遠いのは嫌なんだ。
どうせ同じくらいの距離ならさっさと寮に帰って風呂に入った方がいい。そう判断して駆け出した矢先、前方に人影が見えた。ひっきりなしに降り続く雨で視界が悪い。その中にあっても、前を行く影は皆守よりも長身なのがわかる。はっきりと心当たりのある相手の、その足取りがあまりにも覚束ないことが気にかかった。駆け足の皆守がふらふらと歩く相手の横につくのは簡単だった。
「取手!」
声をかけてから、らしくないことをしたと気付いたがもう遅い。呼ばれた方は立ち止まり、ゆっくりと首だけを動かして皆守を見下ろした。
「……皆守君」
やはり取手だった。皆守からすれば堅苦しくて着る気になれない半袖のシャツと大差ないような白い顔。その頬に雫の伝った跡が見えた。水を吸って普段より重そうに見える黒髪の先からも、ぽたりぽたりと垂れ落ちている。
「お前……」
寮に向かう道で「何してんだ」と訊けば返ってくる答えは予想がついた。どうせ皆守と同じなのだし、それが知りたいわけではない。聞きたいことはいくつもあったが、それを端的に凝縮して「大丈夫か?」とだけ尋ねた。
「……頭が痛いんだ」
「だろうな」
雨音にかき消されそうなその返答も、おおよそわかりきっていた。保健室で取手と話すようになってから、彼の頭痛が治まっていたことなど一度もなかった。だが、今日は一段と酷いのかもしれない。先程の危なっかしい様子を思い出す。寮への単純な道すら見失いそうな歩き方を。ここで別れたら、どこまでもあてどなく彷徨っていきそうな気さえした。皆守は取手の、顔と同じく白い手首を掴む。
「帰るぞ」
「え……?」
「寮に戻るんだろ? そのザマで放り出して、途中で倒れられでもしたら寝覚めが悪いからな」
手を軽く引くと、取手はそれ以上何も言わずについてきた。雨に打たれている時間は同じはずなのに、その肌がいやに冷たかった。
男子寮の入口に辿り着いても、雨は一向に大人しくなる気配を見せなかった。それどころかますます強くなっているようだった。まだ夕方といっていい時間だったが、空には黒く厚い雲がかかり、まるで夜のように暗かった。設置された照明は時刻だけで制御されているらしく、この暗さでも消灯したままだった。闇の中から、アスファルトの地面を叩きつける雨の音が聞こえる。雲の向こうでは雷の蠢く音がしていた。
立ち止まって話していた分もあって、軒下で歩を止めた皆守は完全なる濡れ鼠だった。Tシャツの裾を絞ると、大した力も入れていないのに水がぼたぼたと溢れ出た。その隣で、同じようにずぶ濡れの取手は外の暗闇を見つめていた。部屋に戻ろうとするでもなく、かといって濡れた服や体を気にする風でもない。心ここにあらずといったその様子は、頭痛のことを差し引いても不自然に思えた。
「なあ」
呼びかけたのと、視界が音もなく白んだのは同時だった。黒雲の奥にぐずぐずと留まっていた稲妻が飛び出してきたのだ。光はすぐに去った。だが、皆守の目にはそれで充分だった。あらゆる色が意味を失う白い光の中でこちらを向いた取手の、果ての見えない虚のような目と、頬を伝って顎の先から落ちる水滴。道端で呼び止めた時と同じく、それが本当に雨かどうか、皆守には判別できなかった。続く言葉が見つからない。取手はまだこちらを見ている。
また音もなく唐突に視界が明るくなる。壁の照明が点灯していた。ややオレンジがかった白い光が軒先を照らす。それを受ける取手の瞳は、もういつもと同じものだった。俯き気味で肩から離れた髪の先から雫が落ちる。時おり作り物めいてすら見える白い肌に、濡れたシャツが貼りついている。そうして透ける二の腕を見ると、その肌もまだ人間の色をしているのだと当たり前のことを思う。外の暗闇にしたように皆守を見ながら動いた唇も同じ色をしていた。
「君は」
その先は聞こえなかった。光に後れを取った雷鳴がようやくやってきて邪魔をした。その音が遠ざかる頃には取手の口も閉じていた。
「何だって?」
答えはなかった。言い直すほどのことではないのか、それとも皆守の返答は求めていなかったのか。ややあって、再び取手が口を開いた。
「君には、この雨がどんな風に聴こえる?」
「は?」
先程と違う問いかけだということはわかった。それ以外は何もわからない。質問の意図も、期待されている答えも。推測もできない以上は思いついた通りに返すほかなかった。
「通り雨にしちゃ、はた迷惑なぐらいうるさいな」
「……そうか」
表情は動かなかったが、あまり気に入る答えではなかったらしい。とはいえ特段言い足すことも思いつかなかった。雨は今なお弱まる気配なく降り注いでいる。間断なく叩きつける雨音は、講堂に響き渡る拍手の音に似ていた。こういうことを言うべきだったのかもしれない、と思ったが、取手が話し出す方が早かった。
「空から降ってきた雨の雫が、地面に当たって音を立てる。一粒が跳ね返る一度きりの音……。その繰り返しで、どれも同じだ。こんなに休みなく鳴っているのに、単調で仕方ない。……何の曲にもならないんだ」
理解など最初から求めていないような口調でそう言うと、取手はゆっくりと周囲を見回した。皆守から雨の吹きすさぶ外、そして寮の玄関。照明が点いた分、その範囲から外れた屋内も暗がりになっていた。そうしてまた皆守の方を向いた白い首に、濡れた黒髪がひとすじ残っているのがやけに目についた。
「僕はもう行くよ。こんなに雨に打たれては、いくら長袖でも寒いだろうから」
返事を待たずに取手は寮へ入っていった。白い背中が、狭く明かりの少ない廊下の奥へと消えていく。俯く黒い頭と、二の腕が覗く半袖のシャツ。
「……長袖?」
答える者のない疑問が空中に溶けた。雨はまだ止まない。雲の向こうから稲光が飛び出して視界をまた白く染めたが、その一瞬で見えるものは何もなかった。