空の食器を持った葉佩が保健室を出て行くのを見送って、ベッドへごろりと横になる。食べてすぐ寝ると牛になる、などというが、そういった迷信を俺は信じない。むしろ医学的にはこちらの方が体にいいという説もあるくらいだ。
掛け布団を引き上げるついでに、食事をした痕跡が消せているのを確認するべくあちこちに目を走らせる。と、入口の鴨居の近くというなかなかの高さに白い顔が浮かんでいた。迷信も幽霊も信じていないが、これは思わず二度見した。驚きを顔に出さなかっただけ上出来だ。
顔の正体はすぐにわかった。A組の取手だ。接点は全くないが、俺と同じくらいの上背の生徒はそうそういないのですぐに覚えた。部屋の敷居を跨がず、その場に立ったまま物言いたげにこちらを見る顔は不健康そうな青白さだった。これでも一時期よりマシになったと聞いたが、本当だろうか。
さすがにこの状況で寝る気にはならず、体を起こして声をかける。
「瑞麗先生は職員室だ。ただ、今からなら訪ねていくよりここで待った方が早いと思うぞ」
「うん……」
ここまで言ってようやく、取手は腰をかがめて保健室の入口をくぐった。そうしないと頭をぶつけるのだ。俺も身に覚えがあるのでよくわかる。
そうして室内に足を踏み入れた取手は、どこかおさまりが悪いように首を巡らせた。俺への対応に困っているのか、いつもこうなのかはよくわからなかった。
「隣のベッドなら空いてるが」
「あ……ううん、大丈夫。その、カウンセリングを受けに来ただけだから……」
「……そうか」
精神療法。それを受ける者には相応の理由があり、軽々しく他人が触れて良いことではない。しかし代わりの話題も特に持っていないので、会話はそこでぷつりと途切れた。
「……あの」
「うん?」
「なんだか、ステーキっぽい匂いがするんだけど」
食べた? と訊かれ、今度こそ顔に出して驚いた。それはビフテキの痕跡が消しきれていなかったこともそうだが、朝から學園内に蔓延っている甘い香りの中から肉の匂いを嗅ぎわけたことに対する衝撃の方が大きい。この保健室は他の場所より香りが薄まっている感じがあるとはいえ、大した嗅覚だ。
「はははッ、バレたか。どうにも腹が減ってな。瑞麗先生には黙っててくれ。それとも、先生にも気付かれるかな?」
「どうだろう。でも、先生も鋭い人だから……」
明言はしなかったが、気付くだろうと考えているのは伝わってきたし、俺も同じように思った。前に一度、彼女が夜中に墓地をうろついているのを見たことがある。その様子はどこか、この手のものを探ることに慣れているように感じられた。生徒会の人間ほどではないにしろ、彼女にも何か常人離れしたものがある。
「ただ」
考えを巡らせていると、取手が言葉を続けたのでそちらへ意識を向ける。
「今この學園に漂っている香りを入れるよりは、他の匂いがしている方がいいのかもしれないね」
俺は取手をまじまじと見つめた。向こうは窓の方を見ていて、目は合わなかった。見ないようにしているのは俺か、廊下か。校舎内に広がる香り。俺たちの頭から何かを覆い隠すような色づく靄。
「君は……何を知ってる?」
「……何も。ただ、あの香りはあまり良くないもののような気がするだけだよ」
嘘は言っていないようだった。悪意があるようにも見えない。勘が、というより感覚が鋭いのだろうか。そういえば、カウンセリングを必要とする人間は往々にして繊細なものだった。何と返そうか考えあぐねていると、取手の視線が入口へと動いた。
「ああ、ルイ先生が来るね」
そう呟いた数秒後に、引き戸を開けて白衣の女性が姿を現した。
「体調はどうだ、夕薙?」
「おかげさまで回復してきましたよ」
ビフテキのおかげで、とは心の中だけで言っておく。
「午後の授業にはなんとか出られそうです」
「そうか、それは良かった。だが、無理はするなよ」
生徒思いの校医はそう言うと、今度は取手の方を振り返って声をかける。
「すまないな、取手。待たせてしまった」
「いえ……」
ふたりは何事か話しながら、保健室に併設されたカウンセリング用の小部屋へと入っていった。ひとりになった室内で、廊下へ通じる引き戸を眺める。そこが開くよりも早く、誰が来たかを言い当てた取手。
「……なんでわかったんだ? 感覚が鋭すぎるのか?」
エスパーか? とは、俺の信条として絶対に言いたくなかった。