※葉佩が取手からプリクラを貰えなかった世界線
※最終話のネタバレを含むためクリア後の閲覧を推奨します
雨音が絶え間なく続いている。昼過ぎから降り出した雨は、夜になっても止む気配がなかった。寮の中にいても湿った空気がまとわりついてくる。
ドアを後ろ手に閉めたところで、携帯電話がけたたましく鳴った。メールだ。アロマの香気を吸い込みながら内容を確認していると、部屋の主がベッドの中から声を発した。
「葉佩君?」
「ああ。今日の探索は中止だとさ」
「そうか……。そうだね、それがいいよ」
取手は仰向けに寝そべり、曲げた右腕で両目を覆い隠している。肩から下は掛け布団の中に収まっていて見えない。すっかり慣れた光景だった。眩しいなら照明を消せばいいと言ったこともあるが、そういうわけじゃないと返された。重みが掛かるのが心地良いのだという。
「これから、もっと酷くなるだろうから」
「お前の頭痛がか?」
「……雨が、ね」
カーテンの向こうで雨が鳴っている。その音ばかりがあの時と同じだ。あれからそれなりの時間が経ったが、取手が自分に何を求めているのか、皆守は未だ理解できずにいる。
「雨が降ると頭が痛むんだ。よく『雨の日は古傷が痛む』なんて話を聞くけど、それと同じなんだろう。あの頃のように激しい痛みじゃないからまだいいんだけど。……でも、それは程度の問題なんだよ。弱いものではあるけれど、痛みの質は同じだからね。どうしても思い出してしまうんだ。気を失っていると思っていた間にしたことや僕が作り出した姉さんの虚像、本当の姉さんの動かなくなった細い指、あの日の病室の景色……。忘れてしまいたいこともそうでないことも頭に浮かぶ。忘れられないから思い出すんじゃない、逆なんだよ。ずっと思い出すから忘れられないんだ。何も考えなくても記憶の方からやってくるんだよ。忘れたくても忘れられないっていうのはそういうことなんだ。これは僕だけの話じゃない、誰にだってあることだ。どうしたって繰り返し蘇ってくる記憶のことだよ。ねえ、君にだってあるだろう、皆守君?」
その言葉に手を伸ばしたのは、青白い顔で縷々と呟き続ける姿が憐れだったせいか、心を見透かされたように感じた焦燥からか。おそらくはそのどちらもだろう。言葉の途切れた保健室で、降りしきる雨音がやけに大きく聞こえた。
取手は身体の上に乗られても抵抗しなかったし、その夜に部屋を訪れた皆守をすすんで迎え入れた。依然として顔色は悪かったが、絡めた舌は不自然なほどに熱かった。
そうして大した言葉もなく始まったふたりの交合は、大した言葉もないまま気まぐれに続いた。取手が皆守の部屋に来ることもあったが、雨が降る夜は決まって皆守が取手を訪ねた。雨の日は取手が部屋を出るのを嫌うからだ。それを彼のためだとは言いたくなかった。
申し訳程度のノックをしてから鍵のかかっていないドアを開ければ、取手はたいていベッドで横になっている。そして目を開け、喜びとも驚きともつかない声で「ああ、皆守君」と呟くのだった。
皆守がベッドの傍まで来たことを空気の流れで察したのか、取手はわずかに顔をこちらへ向けた。白いシャツとそれに続く骨ばった手。袖と前髪の擦れる音が微かに聞こえた。
「卑怯だと思うかい?」
「何がだ?」
「《力》を失ったわけでもないのに、葉佩君に手を貸さない僕のことを」
「……いや」
あの日、姉の楽譜と記憶を取り戻してくれた相手が《宝探し屋》だと知った取手は、それでも葉佩と共に行くことを選ばなかった。感謝する気持ちに嘘はないが、命を張って遺跡の奥までついていこうとは思わない。取手と葉佩の関係はその程度なのだろう。だが、それを咎める理由はどこにもなかった。
「いいんじゃないか、そういうのも。お前にはお前の人生があって、その優先順位は他人がどうこう言えるもんじゃないさ」
「……うん」
目元から離れた長い腕が皆守を引き寄せる。皆守の目には取手がどう動くかがはっきりと映っていたが、いかにも咄嗟にしたかのような動きでアロマパイプを唇から引き抜いた。枕元についた右肘と乗り上げた右膝を支えにして、横たわる身体を覗き込む形になる。掛け布団の端と白い首の境目が真下にあった。
「ったく……。危ねェな」
「ごめん」
あまり真剣さを感じない声だった。皆守の身体能力の高さを承知しているからだろう。
左脚を持ち上げて取手の身体をまたぐと、背に回っていた腕の先が首筋を伝い、後頭部を抱き寄せてきた。逆らわずに右頬を掛け布団へ押しつける。やや厳しい体勢になったが、何か言うことはしなかった。
「……ラベンダーの匂いがする」
「そりゃお前の頭のすぐそばにパイプがあるからな」
「この匂いを嗅ぐと、少し楽になる気がするよ」
万能精油と呼ばれるだけあって、ラベンダーの効能は多岐に渡る。皆守が頼みにしている精神安定だけでなく、頭痛の緩和もそのひとつだ。今の取手に効いているのがどちらの作用なのだろう。頭を起こし、アロマパイプを取手の口元へ運ぶ。
「お前もやるか?」
「それじゃあ匂いが強すぎるよ」
取手は薄く笑った。聴覚ほどではないが、彼の嗅覚は人より鋭敏なのだ。外界から入る情報が多すぎるのはさぞ面倒だろうな、と皆守は常々思っている。感知したものを取捨選択して、不要なことを適当に無視するという行為が、取手にはどうにも向かないように見えた。
「君から移るくらいがちょうどいいんだ」
そう言って、再び皆守の頭を引き寄せる。後ろ髪に指先を埋め、ゆるゆると撫でる。こうされるのは初めてのことではない。やわらかい癖毛の感触が、硬い直毛をもつ取手にはいつまでも新鮮らしかった。そうするときの取手は例外なくどこか満足そうなので、多少の間は好きにさせている。それを彼のためだとは言いたくなかったが、かといって自分のためだとは認めたくなかった。だが、それにも限界が近付いていることはわかっていた。
葉佩が遺跡の奥へ進むのに付き合い、わだかまる闇を切り拓いて無遠慮にもたらす暴力的なまでの光に当たり続ければ、自分が形をもった実体であると嫌でも認識してしまう。煙に巻いて誤魔化していた己の輪郭も。
皆守は、取手が葉佩の探索に同行しないことを咎めない。それどころか、心の奥底でそのことを歓迎すらしている自分に気付き始めている。
このまま葉佩が遺跡の奥深くへと踏み込んでいけば、そう遠くないうちに最奥まで辿り着く。そうなれば、皆守は本来の役割を明かして侵入者を排除することになる。だが、その場に取手が居合わせることは絶対にない。葉佩の行方がわからなくなっても、手を下したのが皆守だとは気付かないだろう。そう考えるときに覚える気持ちは、安堵に限りなく近い。
「なあ」
「何だい?」
「これはいつまで続くんだ?」
取手の指は変わらず後頭部を撫で続けている。その手は膝の上の猫をあやすように優しく、昔に埋めた宝物を探して砂を掻き分けるように執拗だった。
「君が嫌になったならやめるよ」
「お前からはそうならない、と言ってるように聞こえるが」
「そうだね。君の傍にいるのは落ち着くから」
頭痛が、あるいは気分が。そうなるだけのものを、意図してはいないが皆守は与えてきた。指先に逆らわないやわらかな髪、ラベンダーの香り、のしかかる身体の重み。取手が自分に求めているのがそのどれなのか、それともまた別の、もっと生々しい欲なのか、皆守は未だに理解できずにいる。
「別に、嫌になったってわけじゃないが」
「うん」
「いい加減、この布団が邪魔だと思ってな」
「フフッ」
取手はこらえきれないように笑った。そうしてようやく、頭から手の感触が去っていく。
「なら、どいてくれ。君が乗ったままじゃ、どうしようもないよ」
「お前が離さないからだろうが」
ベッドから降りて、アロマパイプを制服のポケットに仕舞った。これからしばらくは用がなくなる。左手が空いても、指先にはまだラベンダーの香りが残っていて、取手はそれを嗅ぎつけるだろう。掛け布団を剥ぎ取り、取手の身体に覆いかぶさる。これじゃあ随分がっついてるみたいだな、と頭の片隅で冷ややかな自分が嗤うが、あながち間違いでもない。
首の後ろへ、絡め取るように腕が回される。それを合図にして唇を奪った。シャツ越しの体温も皆守を受け入れる舌も、いつだって外見から想像するよりも熱い。張り出した喉仏や鎖骨にくちづけていくと、髪を掻きまわす手に力がこもった。
「皆守君」
囁く口はかつて、この學園に愛などないと吐き捨てた。それは、ある意味では真実なのだろう。皆守がそうであるように、彼の愛もまた灰となって冷たい土の下にある。死者と共に葬ったものは戻らない。だが、彼も葉佩がもたらす光に当てられ、失ったものも取り戻せることを知ってしまった。だから、彼は探しているのだ。失くしてしまった愛というものを。灰になったものが戻らないというならば、せめてその代わりになる、愛に似たものを。
取手が皆守に何を求めているのかは知らないが、愛かそれに似たものを抱けるかもしれない相手として自分を選んだというなら悪くないように思えた。彼が、そして皆守自身がそれを取り戻せるかどうかは別としても。
「もっと」
せがまれるままに唇を落としながら、シャツのボタンを外していく。露わになった肌の白さに欲望が刺激されるのを感じた。それは決して愛ではないのだろう。衝動に従って肩口に歯を立てると、取手は一度震えてしがみつく力を強くした。
荒くなる呼吸に雨音が上書きされる。いくら封じようとしても忘れられない記憶が浮かんでこないよう溺れてしまうには、目の前の身体が互いに一番都合が良かった。だから、これはきっと、愛ではない。
赤くなりはじめた歯形に唇を寄せ、顔を上げると白い手が頬に触れた。指先の優しさに何かを錯覚しそうになるが、夜はまだそれを振り払うのに充分なほど長かった。