言われた以上沖には行けないので、波打ち際ぎりぎりを歩いて砂浜を端から端まで横断してみる。ランダムな大きさで訪れる波はわたしのところまで届かずに引き返すこともあれば、わたしの足を乗り越えてもっと先まで濡らすこともあった。波が過ぎたばかりの砂は泥の一歩手前というぐらいにやわらかく、踏み込むたびに足の指の間からむにゅりと漏れ出した。その感触は今まで経験したことのないもので、気持ち悪さよりも新鮮さが勝った。
 端まで行って振り向くと、わたしまで続く足跡は浜の半分くらいまでで途切れていた。眺めているうちに波がそれを覆い隠して、去った時には足跡がふたつ減っていた。今度は駆け足で同じルートを戻る。ばしゃばしゃと賑やかな音がした。振り返るとさっきよりは多くの足跡が残っていたけれど、またすぐ消されてしまう。最初の足跡が消える前に端まで行くことはどうやっても無理らしいと気付いたのは、それから四回チャレンジしてみたあとだった。跳ね上げた水がふくらはぎのあたりまで濡らしていた。風に当たるとそこだけ冷える。上がろうかと歩いた足の裏に、乾いた白砂が一気にまとわりつく。そのまま歩いても落ちそうにない感触が嫌で、水の中へと舞い戻る。最初と同じ、足首までしっかり浸かる深さのところ。水をかきわけながらゆっくり歩く。足裏の感触を消すには砂浜の真ん中近くまで進めば充分だった。
 ネズさんはそれまでと同じように何も言わず、失礼にならない程度に、でもこちらを気にかけていることはわかるくらいのそぶりで、わたしの動きを目で追っていた。でも何を考えているかはわからない。ここに来る原因になった異常気象のことを真面目に考えているのかもしれないし、次に出す新曲のことかもしれないし、マリィがここにいた場合のイメージと言われたらそんな気もする。わからないことは寂しい。わたしは何かを話したくて言葉を探す。
「ネズさん知ってました? 海は暑い時に入るものってところがあるんですって」
「よその地方だとそうらしいですね」
「日差しが強くて、砂浜もやけどしそうなくらい熱くなるって……どんなところなんでしょう。砂塵の窪地みたいな感じですかね?」
 たとえばこの砂がとても熱くて、空もポケモンがにほんばれを使ったときくらいの日差しで、潮の匂いのする風もエンジンシティの動力から噴き出す蒸気みたいで。そんな様子を想像しようとしたけど上手くいかなかった。そこで行き来する波がどれくらいの温度なのかもわからない。
「きみはそのうち見に行けるんじゃないですかね」
「えっ?」
「チャンピオンなんですから、よその地方の大会やら何やらにガラル代表として呼ばれるでしょう」
「そうなんですか!?」
 初耳だった。
「少なくとも、ダンデはあちこちから招待されては出向いてましたよ」
「そう言われれば……」
 ホップがたまに「アニキは明日ホウエンで試合するんだぞ!」といった話をすることがあった。あれはそういう意味だったんだ、と今さら納得する。
「でもそんな話、わたしにはまだ一回も」
「きみはチャンピオンになったばかりですからね。向こうも計りかねてるんでしょう」
「……バトルの実力を?」
 絶対的チャンピオンのダンデさんを倒したのは運が良かっただけだと思われてる?
 まぐれで勝てるような相手じゃないけれど、ガラルの外に住んでいる人はそうは思わないのかもしれない。沈みかけたわたしの気持ちをよそに、ネズさんは淡々と言った。
「招待を喜んで受ける性格かどうかをですよ」
「え」
「ゲストに出席を断られると、主催の面子にも関わります。つっぱねるようなタイプならご機嫌を取らないといけない。それが必要かどうか、必要なら何で釣ればいいか、そういうのを窺ってる最中ってことです」
 まあ想像ですけど、と言い終えるまで、ネズさんの声は当たり前のことを説明する調子を崩さなかった。わたしは何も言えなくて、海の方に視線をそらした。ポケモンが留まっているだろうところに小さな泡が立っている。飛び跳ねるマンタイン。水柱が上がる。噴水みたいなそれが海面に落ちていく合間を縫ってネズさんの声が届いた。
「あのチャンピオンマッチを見て、きみの強さを疑う人はいないですよ。仮に今いたとしても、じきにわかります」
「……そうでしょうか」
「ええ。よそからの招待を受ければ、そういう失礼なやつらに認めさせるチャンスにもなります。ただ……」
 多分わたしはこのとき振り返るべきじゃなかった。あとからそう思ったけれど、そのときは声のトーンが変わったことに気を取られていて、他のことは考えつかなかった。
「こういう面倒なこと考えるよりも、素直に他の地方でのバトルを楽しみにする方がユウリらしいですね」
 ネズさんは笑っていた。優しい顔で、穏やかに。ステージやバトルで見せる不敵なものとも、人をからかった後に見せる力の抜けたものとも違う、ごくまれに見せる笑顔。眩しいものでも見るように細められた目。ゆるやかに両端の上がった唇。そう、いつくしむ、という言葉をそのまま表したような。
 そんな風に笑うひとだと知ってしまったからわたしはネズさんが好きで、それがマリィやホップにも向けられる笑顔だと知っているから望みなんか持てなくて、でも好きだから追いかけてしまって、そのたびに優しくされるからどんどん諦められなくなる。悲しいのに嬉しい。苦しいのに幸せ。恋をしている。わたしに何度もそれを確かめさせるひとは、そんなことも知らずに穏やかなままで唇を動かす。
「ガラルに閉じこもらず、世界の色々なものを見るといいですよ。これからもきみは……きみの世代は、おれには想像もつかないことを成し遂げるでしょうから」
 その声はやっぱり優しくて、わたしはどうしようもなく寂しかった。わたしがいつか熱い砂浜の海を見に行くとき、隣には誰もいないだろうと思ったから。ネズさんにそうするつもりがないって、これ以上ないくらいわかる口ぶりだったから。わたしはやっぱり何も言えない。
 また風が強くなってきた。ふくらはぎの冷えに思わず身震いすると、ネズさんはさっといつもの表情に戻って言った。
「いいかげん寒くないですか」
 寒い。けど、わたしは曖昧に笑う。恋やなにかよりも差し迫った問題に気付いてしまった。
「なんです?」
「いえ、あの、戻りたいとは思ってるんですけど」
「はあ」
「その、タオルを持ってなくて」
「ハァ?」
 信じられない、と言いたげな顔。シーソーコンビの事件ぶりかもしれない。
 正確にいえばタオルハンカチはあるのだけれど、大きさからして片足を拭ききれるかも怪しい。海を見ていたら考えるより先に体が動いていたので、タオルの有無にまで気が回らなかったのだ。ということを時々つっかえながらも説明すると、ネズさんは今日何度目かの溜め息をついた。
「それだけ立派なバッグを持っていてタオルがないとか、じゃあ何なら入ってるんです?」
 夢とか。とはさすがに本気で呆れられそうで言えなかった。
「すみません……」
「……仕方ないですね」
 もう一度大きく息を吐くと、立ち上がってこちらにやってくる。目の前まで来てかがんだ、ところまで捉えた次の瞬間、わたしの体は浮き上がっていた。
「えっ」
「足は動かさないでくださいよ」
 水が飛ぶので、という声が、いつもより近い。背中と腿の裏を、わたしのものじゃない体温が支えている。何より顔が。前髪に隠されていない左目が、すぐ近くにある。つまり、いわゆるお姫様だっこ、という体勢で。そう気付いたらもう駄目だった。
「きゃ――――――!!」
「ノイジーです。落ち着きなさい」
 体がさらに引き寄せられる。口をつぐんで動きを止めたわたしに、それでオーケーというように頷く。大人しくなったのは言われたからではなく動揺からだったけれど。
「誰か来たら、おれが人さらいだと思われるでしょう」
 右半身が熱い。それに気付かないことを祈りながら、なんとか口を開く。
「みんな、ネズさんはそんなことしないって知ってます」
 ネズさんが何も言わなくても、悪い人じゃないことはスパイクタウンの外の人にも伝わっていた。それこそ、わたしがジムチャレンジャーだったときから。でも、そのことを知らないらしい本人には「さて、どうですかね」と流されてしまう。わたしはもう一度繰り返す。
「しないですよ」
 あなたは優しいから。きっと、頼んだってわたしをさらってはくれない。
 ネズさんは例によって感情のわかりづらい顔のまま、探るようにわたしを見た。と思うとすぐ、諦めたように首を横に振って「移動しますよ」と言って歩き始めた。最初の一歩だけ、砂を踏むのと一緒に水の音が聞こえた。
「お、重くないですか……」
「荷物があってこれなら軽すぎるくらいです。本当にこのバッグ空なんじゃないですか?」
 さっきまで腰かけていた岩までわたしを運んで座らせる。砂に放り出されたローファーとソックスも拾って、岩の根元に置いてくれた。
「タオル持ってきますから、ここから動くんじゃないですよ。ソニア博士に報告でもしていてください」
 そう言い置いて、砂の坂道を上がっていく。その後ろ姿を見るまで、ネズさんのブーツの踵に細かい細工が入っていることに気付かなかったわたしはバカで、砂が入ったら困るはずなのに何も言わなかったネズさんは優しい。だからきっと、どんなに頼んだってわたしをさらってはくれない。


 スマホロトムを取り出してソニアさん宛てのメッセージを打つ。詳しいことは直接会って報告するから今回は簡単に。送信してアプリを閉じると、カメラを起動して何枚か写真を撮る。晴れた空と波の穏やかな海。遠くに見える岩壁と氷山。白い砂浜に消えかけている足跡。どこにもアップしない、自分のためだけの写真。
 いつかわたしは、この海とよく似た海や全く違う海、ガラルにはない景色を見ることになるんだろう。でも、ひとりで見るそれをここより綺麗だと思えるかどうか自信がなかった。好きなひとと一緒に見るものがどうとかだけじゃなくて、あられの降る音がないことに気付かなかったりバッグにタオルが入っていないことを思い出さなかったりしたみたいに、わたしはたくさんのものを取りこぼしてしまうから。ネズさんの世界はわたしが見ているよりずっと綺麗なはずで、それをわたしも見たかったし、叶わないなら教えてほしかった。ネズさんがいないと、わたしは世界の美しさすら満足に受け取れなくなってしまう。
 ピロン、とスマホロトムが軽やかに鳴った。ソニアさんからだ。メッセージは報告のお礼のあとに、ネズさんいるんだ、と続いていた。
『スパイクタウンって交通の便が悪いからおばあさまもなかなか出向けなくて、そっちの方のポケモンは未だにデータが少ないんだよね。元ジムリーダーに話聞けたらすっごい助かる! から、研究所までネズさん引っ張ってきてくれない?』
 最後の一文で思わず笑ってしまう。引っ張ってなんて、それじゃあまるでこっちが人さらいだ。そう思って、その言葉がすとんと胸に落ちた。
 そうだ。わたしがしていることは、すでに人さらいと変わらないんじゃないか。トンネルに似た町の奥まで踏み込んで、子供の我儘という名の特権でネズさんを連れ出す。ネズさんは拒まない。それはわたしが子供だからだろうけど、きっとネズさんと並べるような大人になってもわたしのすることは変わらず、同じようにネズさんのところに行く。確信にも決意にも近い強さでそう思った。要塞の一番奥で、子供の我儘が使えなくなったわたしは代わりに言うだろう。ネズさんが想像していないことを成し遂げにきました、と。
 あなたが好きです。一緒に見たいものがたくさんあります。だから、あなたをさらいにきました。
 言われたネズさんがどんな顔をするのか、今のわたしにはわからなかった。でも、できればあの優しい顔で笑ってほしい。そのためにやれることはなんだってしたいと思った。恋をしている。寂しくて苦しくてつらいと何度も思うのに、どうしてかこんなにも幸せだと思える恋を。わたしを強くしたり弱くしたりまた強くしたりと慌ただしいけれど、大人になる前に諦めるなんて出来そうにもなかった。
 やってみます、とソニアさんに返信したとき、後ろからざくざくと砂を踏む足音が聞こえてきた。すっかり覚えてしまった距離感。スマホロトムを仕舞ったわたしが振り向くより先に、ネズさんが真横からタオルを差し出した。空は青くて太陽も波も穏やかで、なんだか泣きそうになった。


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