※本編クリア後シナリオまでのネタバレを含みます
※捏造過多



 百年に一度の異常気象、とテレビは言っていた。
 それが災厄とされるムゲンダイナの目覚めたせいなのか、伝説といわれたポケモンたちが力を振るったせいなのか、その二体がホップとわたしのボールに収まってまどろみの森を離れたせいなのか、それともポケモンとは関係ない何かがあるのか、とにかく原因は全くわからないけれど、ガラルの気候は最近少しおかしい。ハロンタウンも含めて特に変化のない町もあるものの、キルクスタウンの雪は止んだし、バウタウンの空は雲に覆われっぱなしだし、エンジンシティでは強いにわか雨が毎日降っているし、ラテラルタウンは気温が下がってディグダ像がうっすら雪化粧するほどだ。
 どうしてこうなったのかは確かに不可解で、それぞれの町の人にとって困ったことなのも間違いない。でも、それは災害というほど深刻なものでもなく、人やポケモンの命を脅かすような事態にもなっていない。町の人たちも「天候が元に戻るまでは生活がちょっと不便になるわね」ぐらいの受け止め方で日々を過ごしているらしい、と、これもテレビで聞いた。そのニュースは当然届いているだろうけど、とわたしは飛び去るアーマーガアを見送ってから反転し、そびえる大きなシャッターを仰ぎ見た。
 スパイクタウンはいつも薄暗い。メインストリートとそれに沿って並ぶ建物をドーム状の屋根が覆う、トンネルに似たつくりの町。布で出来ているらしい屋根はところどころ破れていて、そこから多少の光は入るけれど、それも町全体を照らすには頼りないから、昼間でも街灯やネオン看板が光っている。ガラルのどこにでも行けるそらとぶタクシーも、この町には屋根の骨組みが邪魔して入れない。要塞みたいだ、とわたしは思う。穴あきではあるけど悪天候からも強い日差しからも守ってくれる屋根があって、ほとんど閉じた空間だからか気温も安定している。
 元々この地域は異常気象の影響をそれほど受けていないらしいけれど、仮に何かあったとしてもスパイクタウンの様子は何も変わっていないと思う。そんなトンネルの中、人工の光が点々と照らす細長い通りを、わたしは走る。スカンツの裾を揺らして、ローファーの踵を鳴らして、目指すのは要塞の一番奥だ。ダイマックスを使ったバトル、ダイマックスが出来る場所をもてはやす世間の流れに抗い続けたひと。
「ネズさん!」
 高い金網とネオン看板に囲まれた、スパイクタウンのジムスタジアム。今は誰もいないステージを正面から見られる壁際のベンチから、ジグザグマが白黒の毛を揺らしてぴょんと飛び降りた。その隣に腰かけた人がこちらを見る。足元を駆けていったポケモンに似た色合いの髪と、緑と水色の間で透き通るような色をした目。この町や家族や仲間のために戦ってきたひと。いつだって誰かのために歌ってきた優しいひと。わたしの好きなひと。
「おや、ユウリ」
「こんにちは!」
 近付くと、座っているネズさんはさすがにわたしを見上げる形になる。スタジアムの隅でエレズンたちが遊んでいるのが見えた。その様子をトレーナーらしい人たちが見守っている。もうすっかり見慣れてしまったスパイクタウンのいつもの光景。わたしが何か言う前に、ネズさんが口を開いた。
「マリィならいませんよ。エキシビションマッチに呼ばれたとかで、戻るのは夜だそうです」
「あー……そう、なんですね……」
 知っている。ついでに、マリィはわたしが来ることを三日前から知っている。絶対に口には出せないけれど。
 マリィはわたしの恋心にいち早く気付いて、それから何度もネズさんのライブチケットを用意してくれたり、ライブのない日に「ダイマックスなしでバトルしよう」と呼んでくれたりしている。今のこの状況も、わたしがスパイクタウンに行くことを伝えたときに「あたし予定入れるけん、知らずに来たふりしてアニキと二人になったらよか!」と言ってくれたからだ。
 そういう彼女なりのエールを充分に活かせるかはともかく、下心があって来たのは確かなのでなんとなく後ろめたい。思わず歯切れが悪くなった返事をどう受け取ったのか、ネズさんは口調を少しだけ緩めて言った。
「緊急ですか?」
「そういうわけじゃないんですけど……ちょっと、ポケモンの調査に付き合ってほしくて」
「調査?」
 眉をひそめたネズさんは何か考えこみそうに見えた。けれどそれも一瞬のことで、すぐに首を左右に振った。
「最初から説明してください。話が見えません」
 それはそうだ、と思った。どういう風に説明したらいいか、着くまでに頭の中で何回も考えたけど、ネズさんの姿を見つけた途端に全部吹き飛んでしまった。そもそも、いくらイメージしたところでネズさんとの会話が予想通りになったことなんて一度もなかった。悪そうな見た目の割にまともで、それなのに時々突拍子もない言葉が飛び出してきて、突き放すようでいて優しい。わたしが好きになったのはそういうひとだ。今だって、ちゃんと話を聞こうと待っていてくれる。わたしは頭の中で吹き飛んだ言葉を慌ててかき集めた。
「ええと、今ガラル地方のあちこちで天気が変になってるんです」
「異常気象ってやつですね」
「そうです。それで、特に大きな被害とかはないみたいなんですけど、細かいところでポケモンの暮らしぶりに変化が出ているかもしれないから調べてほしいってソニアさんに頼まれて」
「わざわざチャンピオンを駆り出すような仕事ですかね」
「ホップはラテラルタウンの方を調査してるので、人手が足りないらしいんです」
「おれがきみの立場なら、さっさと研究員の募集を出すようソニア博士に勧めますよ」
 はぁ、と一度、聞かせるためみたいな溜め息を挟んで続けた。
「言いたいことはわかりました。普段と何か違っているとしたら、そのエリアに住んでいるジムリーダーの方が気付きやすいってことでしょう」
「はい。他の町に長く住んでいる知り合いが他にいないっていうのもあるんですけど」
 頭のいい人だから、これで次にわたしが言うことの想像がついたらしい。一呼吸おいて「ネズさん」と呼んだときには、白い手袋をはめた左手を右肩にやっていた。考えを巡らせるときの癖だと、わたしはだいぶ前から気付いている。
「よかったら、調査に付き合ってもらえませんか。わたし、ネズさんにお願いするつもりで来たんです」
 三日前に用件を伝えたとき、マリィは一言目に「そういうのはあたしよりアニキの方が向いとるよ」と言った。それだけのことなのに、わたしはネズさんに会いたくてここまで来てしまうし、可愛く見えると思う服を選んでしまうし、少しでも長く一緒にいたくてこんなにも必死になってしまう。ネズさんは察しのいい人だけれど、その理由にはきっといつまでも気付かない。
「……二代続けて、人使いの荒いチャンピオンに当たっちまいましたね」
 不意に、わあっと歓声があがった。いつの間にか、コートでジムトレーナー同士のバトルが始まっていた。戦っている人も周りで見ている人も、お揃いのメイクをした彼らはみんな同じに見える。そんなわたしと違って、きっとこの距離からでもひとりひとりの名前を呼べるだろうネズさんは、コートをちらりと見てすぐに視線を戻した。
「まぁ、おれで済むならマリィを呼び戻す必要もないでしょう。行きますか」
「はい! ありがとうございます!」
 尻尾があればワンパチよりも激しく振っているだろう勢いで言うと「チャンピオンを手ぶらで帰すわけにもいきませんし」と立ち上がりながら返された。見下ろす側と見下ろされる側があっさり逆転する。
「スパイクタウンに住んでいる期間は、マリィよりおれの方が長いですからね」
 それはふたりの年齢差を考えたらものすごく当たり前のことで、三日前のマリィが言ったのと全く同じことだった。


 コンクリートが剥き出しの建物や錆の浮いたコンテナの間を抜けると、視界が一気にひらける。スパイクタウンに続く9番道路はいつも、雨こそ降らないけど他の地域より雲が多い。日差しが届きにくい空模様のおかげで、町から出るわたしたちは明るさで目を痛めずにいられる。ここが各地を襲う異常気象をかいくぐってくれていて良かった。
 ジムチャレンジのときにマリィが教えてくれた抜け道から町を出たわたしたちは、草むらをぐるっと回って正規の入口であるシャッターの前へ出る。ネズさんの目にも、草むらの野生ポケモンの様子は普段と変わりなく見えたらしい。
「今の時期にしては、気温はちょっと高いんですけどね」
 異常というほどでもないけど完全な通常ではない、とネズさんは最近のこの地域を評した。
「ただ、ここのポケモンはこおりタイプのくせに雪も水もないところで生きている変わり者ですからね。多少暖かくなったくらいでは動じないのかもしれません」
「……ってことは、変化があるとしたら海にいるポケモンの方が?」
「可能性は高いと思いますよ」
「行ってみましょう!」
 わたしはシャッターに背を向けて駆け出す。海へ抜ける下り坂。後ろから「転ばないでくださいよ」という声が聞こえた。
 ネズさんは走らない。ファイナルトーナメントの前、ローズタワーに行こうとするわたしたちに協力してくれたときからそうだったし、シーソーコンビが起こしたダイマックス騒動のときも、各地のジムへと急ぐわたしたちを後から歩いて追ってきた。わたしが走って通った道を、ネズさんはそれより少ない歩数で悠々と渡りきる。そうして簡単に追いつかれるたびに、ネズさんが大人でわたしが子供であることをまざまざと突きつけられるような気持ちになる。それは引っくり返しようのない事実で、悲しかったりもどかしかったりも当然するのだけど、気持ちではどうにもならないから開き直って子供の我儘という名の特権でネズさんを連れ出している。でも、いつか大人になってそれも許されなくなったら、わたしはどうしたらいいんだろう。早くネズさんと並べるような大人になりたいと思うけれど、子供じゃなくなるのが怖くもある。
 足下の芝生がだんだんまばらになって、踏みしめる地面に細かくさらさらとした感触が混ざり始める。スピードを緩めて立ち止まったときには、もう完全に砂浜だった。視線を上げると、思わず息をするのも忘れた。
 空が穏やかに晴れている。いつもなら広がっている灰色の雲はどこにもない。透き通るような空の色を映しているのか、海面の青もいつもより明るく澄んでいる気がした。珍しく誰もいない砂浜は、内側から輝いているようにさえ見えた。
 その色合いに、小さい頃にママが繰り返し見ていたドラマか映画かのワンシーンを思い出す。浜辺ではしゃぐ女の子たち。ハイスクールの制服のまま、裸足になって波打ち際で笑っていた。なんだかすごく素敵なものに思えたあの場所に、ここはよく似ている。
 違いは沖に壁のようにそびえ立つ岩があることで、その間から少しだけ顔を出した氷山のてっぺんが、太陽の光に白く輝いている。潮の香りを乗せて届く風は冷たかったけど、そのこともしばらく忘れていた。
 ざくざくと砂を踏む足音が聞こえて、わたしの右斜め後ろで止まる。隣に並ぼうとしないこのひとの距離感をすっかり覚えてしまったわたしは、ネズさんの方を正確に振り向くことができる。
「ネズさん!」
「なんです?」
「すごいです!」
「そうですね」
 マリィとポケモン以外のことでネズさんの感情を窺うのは難しい。それでも聞き流しているわけじゃないことはわかった。このひとがわたしにそうしたことは一度もなかったから。
「ここが晴れてるの、初めて見ました」
「そうですね。だからこそ異常気象というんでしょうが」
 ネズさんはゆっくりと首を左右に巡らせた。
「あられが降っていないだけで、ずいぶん静かになりますね」
 打ち寄せる波の音に混じって、沖の方でポケモンが跳ねたり勢いよく潜ったりする音がかすかに聞こえている。普段はそれに加えて、小石を投げ込むような音が時折する。ここに降る中でも粒の大きなあられが海面に落ちる音だ。言われて初めて抜け落ちていることに気がつくくらい小さくて存在感のない物音だったけれど、それはわたしにとっての話で、耳のいいネズさんにはそうじゃなかったんだろう。同じ場所にいても、まったく同じ音を聞いているわけじゃない。見えているものもきっと違う。それは誰とでもそうなんだけど、相手がネズさんというだけでわたしはこんなにも寂しくなる。同じように世界を感じたい。そんな単純な願いが、いつまでも叶わない。
 遠くでホエルコが大きく鳴いた。振り返ると、噴き上がる潮柱だけが見えた。音はしない。少なくともわたしの耳には。
「今の、聞こえましたか?」
 訊くと、ネズさんは重たげな瞼の下から不思議そうにわたしを見た。


 ついてきてもらっておいて自転車でひとり沖に出るわけにもいかない。なので、砂浜からマンタインの跳ねる様子を観察したり、タマンタやホエルコを何匹か釣り上げたりして海のポケモンの様子を見た。その結果、ぱっと見ではわからないものの、注意して観察すると跳ねが弱かったり防御力が下がっているように見えたりした。どうやらいつもよりちょっとだけ元気がないようだ、ということでわたしとネズさんの意見は一致した。
「晴れて気温が上がったからでしょうか」
 わたしが喋っても、口から白い息の塊が出ることはない。潮風は冷たいけれど、海岸の空気はやわらかい日差しのおかげで程よく暖められていた。薄手のカットソーにパーカーを羽織ってちょうどいいくらいだ。手頃な岩に腰かけて見守るネズさんにとってもそうらしい。
「どちらかというと水温の方じゃないですかね」
 水温、とわたしは繰り返す。青から透明になって砂浜にぶつかる水。見た目ではよくわからないけど、いつもより多少はあたたかいんだろうか。薄く広がっては帰っていく波を見ながら、思い浮かぶのはやっぱりあのシーンのことだった。はしゃぐ女の子たち。水着がなくて泳げなかったけど、足首までの水を裸足で蹴立てて、飛沫を上げて楽しそうに笑う。わたしは何故だかそれがものすごく羨ましくて、同じことをしたいと何度もねだってはママを困らせた。そのたびにママは「残念だけど」と眉を下げてわたしをなだめた。残念だけど、ガラルにはああいう場所はないのよ、ユウリ。
 ジムチャレンジでガラル全土をめぐった今なら、その意味がよくわかる。バウタウンは港町だけど砂浜はないし、ラテラルタウンも海に面してはいるけど山の上だから見下ろすことしかできないし、ガラルで唯一の砂浜はいつも曇っていてあられの止まない寒さ。そう、普段なら。だけど今は異常気象で、目の前にあるのはあのころ憧れた景色によく似た海だった。
 わかってる。どんなに似ていたってここはあの海とは別物だ。そんなことはわかってるのに、わたしの手は気付いたらソックスをローファーごと脱ぎ捨てていた。いくらも走らないうちに足元は水分を含んでぐにゃりと歪んだ。さらに一歩進めば、もう足首まで水に浸かっていた。立ち止まると、波が行き来するたびにくるぶしや足の甲が撫でられるようで少しくすぐったい。あたたかいといえるほどの温度はなかったけれど、いつもサイクリングシューズ越しでも感じる、あの刺すような冷たさはなかった。確かに水温は上がっていて、この差がポケモンの動きに影響している可能性も高そうだった。ネズさんの言う通りだ。
 振り返ってそれを伝えると、ネズさんは溜め息をついて岩に座りなおした。
「おかしくなったのかと思いました」
 そこでやっと、今さっきのネズさんが腰を浮かせていたことを認識する。いきなりの行動が心配をかけてしまったことも。
「ごめんなさい」
「わざわざ靴まで脱がなくても、手だけ突っ込むとかでよかったんでは?」
「ごめんなさい。でも、ずっとやってみたくて」
 そう言うと、ネズさんはなんともいえない顔をした。呆れと、疑問と、あとなんだろう、脱力感? それに興味とかその他いろいろなものがブレンドされたような表情だった。
「……満足しましたか」
「もうちょっとこうしてたいです」
 風は来た時より少し弱くなっていた。ネズさんは右肩に左手を持っていって、さっきより長く黙ったあとで「そこより沖には行かないでくださいよ」と言った。


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