※本編後の時間軸
※過去についての捏造が過多


「オマエちゃんとメシ食ってるのか?」
 田舎の母親みたいなセリフだ、と言ってから思った。もっとも、ナックルシティで生まれ育ったキバナにとって、それはフィクションの中だけの存在である。一方、スパイクタウンは世間から『田舎』の評価を下される町だが、ネズはかなり前に両親をなくしている。結局のところ、どちらにも縁遠い言葉だった。
 言われたネズは、ふたり分のさまざまな体液にまみれた身体をシーツに沈めたまま、億劫そうに首だけをキバナの方に向けた。
「いや、なんていうか、抱き心地がな。さっき乗せたときも前より軽かった気がしてよ」
 あけすけな言い方に、ネズは目を閉じて深い息を吐いた。壁の間接照明の投げかける陰影が、彫りの深い顔立ちを際立たせる。
「心配しなくても、ちゃんと食べてますよ」
「ホントか? また新曲作るのに夢中になってたとかじゃねえのか?」
「……否定はしません」
「ほらな!」
 キバナは上体を跳ね起こし、勢い込んで言った。ネズは相変わらず面倒そうな目で彼を見ている。とはいえ、ネズは大抵の場合そういう目をしているので、今さら気に留めるようなことでもなかった。
「ルームサービス頼むか?」
「食べませんよこんな状態で」
 白い右手が前髪を払う。細く筋張った指。
「これ以上痩せたら、ワイルドエリアに落ちてる骨と見分けがつかなくなっちまうぜ」
「そこを間違えるようならまず目と頭を検査してもらいなさい」
 淡々と返したネズは、ふと何かに気付いたように穏やかな抑揚で続けた。
「おまえは昔から、言うことが変わりませんね」
 昔? 首をひねりかけて、はっと思い至る。
 ネズが言っているのは、ふたりがほぼ同時期にジムリーダーに就任した頃のことだ。どちらもまだ少年といえる歳で、その頃からネズは今と変わらず痩せぎすの身体をしていた。ふたりの間で当時の話が持ち上がるのは初めてのことだ。ネズの声には懐かしむ響きがあったが、キバナは鉛を飲んだような気持ちになった。軋んだ心地のする喉から言葉を押し出す。
「……あのときは悪かった。子供だったなんて言い訳にもならねえけどよ」
 そう、子供だった。バトルで勝つことだけを考えて、ガラルの中心地とされるナックルシティとシュートシティ、そしてワイルドエリアだけを行き来していた。
「オマエしかスパイクタウンの人間を知らなかったから、あの町はみんな食うにも困ってるんだと思ってた」
 キバナがジムチャレンジに挑んだのは、ネズがリーダーになる三年前だった。その間に、パワースポットのない町からは人がみるみる離れていったと聞いていた。それはこんなにも深刻だったのかと、少年の体躯を見て本気で考えたのだ。
『オマエ細いな! スパイクタウンはみんなそんな風なのか?』
 そこに持てる者の傲慢が含まれていることを、キバナは自覚していなかった。だから、それがネズに届いたことにも、彼の誇りを傷つけたことにも気がつかなかった。
『おれたちは、おまえが思っているほど貧しくないです』
 キバナを睨み据えて言った、その意味を正しく知ったのはずっと後だ。
「スパイクタウンの人間は飢えに苦しんだりしてなかった。そんな身体してるのはオマエだけだった」
 痩せた身体のジムリーダーは、両親を失ってからの数年を、幼い妹とふたりで生きてきた少年だった。そのことを知ったのも、彼らが大人になり、その関係に色が付き始めた頃だ。
「オマエ"たち"は貧しくなかった。親をなくしても子供ひとりぐらいなら生きていけた。でもオマエたちはふたりだった」
 ひとりには充分だが、ふたりには足りない。そんな量の食事をネズがどう分けたのか、答えはわかりきっていた。細身ではあるが健康的に育った彼の妹を見れば一目瞭然だ。
「マリィのためだったんだな。妹が腹すかせないように、自分は小食なふりして。オレと同じで育ちざかりだったくせによ。……それで痩せたまま大人になっちまうんだから世話ないぜ」
 ネズは黙って聞いていた。重そうな瞼の奥の瞳からは感情が読み取れない。
「オレがオマエの食事を心配するのは、このせいかもな」
 妹、音楽、寂れていく町とそこに住む仲間。この男は自分ではない何かのために自分を削れる。おそらくは他の人間よりも遥かに容易く。それが一番早いと思っているからだ。その危うさに惹かれたのも事実だが、だからこそ削ぎ落とされるままにはしたくなかった。皮膚の下の骨に直接触れているような薄い身体を抱きながら求めたのは、彼自身がまだここにいるという証だったのかもしれない。
 キバナの話を相槌ひとつ打たずに聞いていたネズは、さらにしばらく沈黙したあと、いつもと同じように淡々とした声を出した。
「言いたいことは色々ありますが、まずおまえを責めるつもりはありません。確かに腹は立ちましたけど、昔のことです。今さらどうこう言うことでもないでしょう。それに、あの頃はおれも余裕がありませんでした。ジムリーダーになったばかりで、町が盛り下がるのを止められず、ダイマックスできるところに移れとうるさい元委員長とやり合い」
 元、を強調した発音だった。その恨みはまだ残っているらしい。
「そういうときだったので、気が立っていて噛みつきました。半分くらいは八つ当たりです。おまえには悪いことをしました。だから責めません。それから」
「それから?」
「水をください」
 サイドテーブルからボトルを取って渡してやる。ホテルに入る前に自動販売機で買ったものだ。こぼさないかと一瞬思ったが、さすがに起き上がって飲んだ。つけたばかりの胸元の跡が、白い肌にひどく目立った。喉を二回鳴らして返す。
「それから、おまえは色々と誤解してるようですが、これは体質です。肉がつきにくいだけで、食事に困るような暮らしは昔からしていません。シンガーとして名が売れてからは特に」
 ネズが音楽を始めたのはジムリーダーになってからだ。それより前はどうだったのか、とは訊かなかった。きっと彼は口を割らない。あくまで思い過ごしにしておきたいのだろうし、キバナ自身もその想像に確証があるわけではないのだ。
「昔は人前に出るの苦手そうだったのにな」
「慣れです。大体のことはそれでなんとかなります」
「慣れ、か」
 順応するために生来の性質を失うことをそう呼ぶなら、ネズはずっとそれを続けてきたのだろう。他人に変化を求めるよりも、自分がそうする方が早いと思っているからだ。
 キバナは水を一口飲んで、ボトルをテーブルに戻した。振り返るとネズがいつも通りの目つきでこちらを見ていた。体液にまみれて胸元に赤い跡の残る肌の骨ばった細く薄い身体。
「慣れてくれるのは嬉しいが、慣れと飽きは紙一重だ。オマエが飽きないように、オレさまは色々工夫しないといけないわけだな」
 伸ばした手が髪に触れたところで「これ以上は明日に響きます」と逃げられた。視線から言いたいことを読み取ったのか、呆れたように続けた。
「紙一重だと言ったのはそっちでしょう」
 滑るようにベッドから降りかけて、腰かけたまま首だけでキバナを振り向く。
「おまえと違って、おれは大して凝ったことできないですからね。おれが飽きるのはともかく、おまえに飽きられるのは癪です」
 そこまで言うと、普段よりも早足でバスルームに消えていった。間に合わなかったらしい白いものがカーペットに滴り落ちているが、優秀な清掃係がどうにかするだろう。ほどなくしてシャワーの音が聞こえてきた。その段になってようやく、キバナの肩から力が抜けた。同時に、腹の底から笑いがこみあげてきた。それは瞬く間に全身へ行き渡り、口から声となって溢れ出た。しばらくげらげらと笑い続け、声がおさまっても顔はからりと笑っていた。ひどく愉快な気持ちのまま、背中から枕に倒れ込みながら呟く。
「飽きる気がしねえな」




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