初めて心中を持ちかけたのは、非の打ち所がないほど穏やかに晴れた日だった。外の桜は半ば散りかけていて、つまりは窓からの景色が最も美しい季節だった。
そのとき帝統は人の寝床で人の本棚から取った文庫本を読んでいた。意外にも彼は活字を好んで読む。横になったままページを繰る様は行儀が良いとは言えないが、指摘するほど不快というわけでもない。むしろその姿が部屋にひとたび馴染んでしまえば心地よくさえあった。
「一緒に死にませんか、帝統」
帝統は栞というものを一切使わない。例によって本を無造作に閉じるとごろりと寝返りを打ち、畳に座る小生を正面から見た。驚くというよりは、ただ純粋に疑問であるという顔をして、それをそのままぶつけてくる。
「なんで?」
「作家を生業に選んだ者の最期はそうと決まっているんですよ」
帝統は傍らに置いた本の表紙をめくった。カバーには著者の略歴が載っている。
「こいつは結核で死んだって書いてあっけど」
「何にだって例外はありますからねえ」
「そっちの方が多いんじゃねえの?」
嘘に丸め込まれない帝統は珍しい。やはり春は人の頭の回路を少なからずおかしくさせる。
「はて、どうでしょう。小生もすべての作家を知っているわけではないので」
背後の本棚のことを考えた。並ぶ背表紙たちの作者は病死していたり自殺していたり存命だったりと様々だ。夢野幻太郎はまだ「存命」の枠にいる。明日には移っているのかもしれないが。
「ただ、かつて心中で死んだ作家がいて、今それに倣おうとする作家がいる。それだけの話ですよ」
「相手が俺でいいのかよ」
「こういうのは情婦とするものと相場が決まってまして」
正確には情"夫"だろうが、事の役割でいえばあながち間違いでもない。帝統は沈黙した。考える余地を奪い取るように言葉を滑り込ませる。
「無理心中は美しくないので合意の上が望ましい。ということで、ひとつ賭けをしましょう」
「へえ」
帝統はおもむろに身を起こした。射るような視線がまっすぐに投げかけられる。情夫に向ける目ではないな、と思った。根っからギャンブルのために生きている男だ。
「小生がサイコロを振って、帝統が丁か半かを予想する。外したらそうですね、手に手を取ってどこかの海にでも飛び込みましょうか」
「当てたら? 幻太郎ひとりで死ぬのか?」
「ひとりで『心中』が成り立つと思ってるんですか?」
そのときは諦めますよ、と言った小生がどんな表情をしていたのか、自分でもわからなかった。帝統は目尻を和らげて、口から溜め息を零した。笑っていたのかもしれない。
「なんだよ、どっちに転んでもお前は損しねえし俺には何もねーじゃねーか」
「命があることが何よりの報酬というものですよ」
「俺の? それともお前の?」
何も考えていないようなそぶりで、理屈の一番弱いところにばかり触れてくる。
「つべこべ言わずにサイコロを出しなさい。あなたの神に聞くんです」
そういうの好きでしょう、帝統?
問えば、帝統は笑った。ぞくぞくするような顔と声だった。
その賭けの結果は言うまでもない。小生と帝統が今も同じ部屋で朝食後の茶を啜っているのが何よりの答えだ。
あの日から、適度な間を置きながら何度も誘いをかけている。そのたびに小生はサイコロを振り、勝てないままに季節ばかりが移っていった。外では桜の蕾が膨らみ始めている。目の前の男との付き合いがこんなに続くとも、戯れの提案をここまで飽きないものだとも思っていなかった。
空には雲一つなく、窓ガラスをやわらかくすり抜けた日光が畳の上に小さな模様を描いている。風の音は聞こえない。小生は湯呑を置いて掌を差し出す。
「今日は良い日和ですね、帝統」
何をするのに良いのかなど、この言葉だけですっかり了解している。彼はいつも通り愉快げにサイコロを僕の手に落とした。
ツボ皿がないので畳にそのまま放る。座卓の天板が出目を遮るこのやり方を考えたのはいつだったか。蝉はまだ鳴いていなかったように思う。負けた回数は片手の指を越えてから数えなくなったので覚えていないが、二分の一を未だに拾えていないのは奇跡といっていいだろう。確率の概念を知っていれば誰でもわかる、驚異的な負け越しだ。きっと今回も負ける。それはもはや予想ではなく確信に近い。
なにしろこの男、大事なものを賭けるほど運が強くなる。小説よりもできすぎた話だが、ヒプノシスマイクを手に入れた経緯や今までしてきた大きな賭けの話から推測すれば確かにそうなのだ。その割に日々の食事にすら頻繁に困窮する有様なのは、帝統が金に重きを置いていないからだ。せめてスリルの三割くらいには価値を見出してくれれば、彼の生活は大分ましになるだろう。そんな日はまず来ないが。
それはともかく、この男の身体はディーラーの前に差し出したものが大切であればあるだけ、決して手放すまいと運命を自分の手元へ引き寄せるようにできている。彼が己の持ち物で最も大事にしているのは命だ。それを賭けるともなれば手繰る力は何より強く、ほとんど絶対的な勝利をもたらすに違いない。しかし当の本人はそのことを全く自覚していないらしい。腰に巻かれた命綱に気付かず身一つで崖の間を渡っているつもりでいる様は、可笑しくもあり哀れでもある。私を相手にしておいて、この賭け自体が嘘である可能性を考えない愚かさもまた同じだ。
こちらとて心中などしてやる気は欠片もない。小生がこの賭けに勝ったなら、すぐさま賭け自体を嘘にする。そう決めて、こんな非生産的なやり取りを一年近く続けているのは、ひとえに帝統の負けるところが見たいからだ。
生死を賭けたギャンブルで負けたことがない帝統。大事なものを賭けるたびに勝ちを掴む帝統。それが負けるということは、命よりも大事なものが出来たときか。いや、そう結論づけるのは短慮が過ぎる。話は賭けがどうという小さな枠組みのものではない。この男は己が望む結果を引き寄せてくる。常にではないが、望みが強ければ強いほどその力は大きくなる。自覚はなくとも、彼の魂がそうするのだ。
「半」
さして考えもしない様子で帝統が言った。前回も確か半だった。生きる上で役立てようもないのに、そんなことばかり覚えている。
帝統は今回も勝つだろう。そうして小生はまた死に損なった男を演じる。ああ、今日も負けてしまった。わざとらしく落胆もしてみせるが、その溜め息は永らえてしまったことに向けたものではない。今日も帝統の人生は僕と切り離されたところにある。さながら銀幕の役者と観客だ。スクリーンの向こうへは何の変化も影響も与えないと知りながら、私は座席から語りかける。
どうか、その運命に俺を巻き込んでくれないか。渦の中で浮き沈みを繰り返しながら漂うような人生の、水底へ行きつくまでの道連れでいい。どうかその魂で、俺の未来ごと引き寄せてくれ。たった一度でいいから、この男が自分の命よりも俺と共にあることを優先する瞬間が見たい。あの春の終わりから、俺はその日が来るのをずっと待っているのだ。
座卓の下を覗き込む。黒の目と赤の目。ヨイチの半。顔の右半分だけを見せた帝統が言った。
「幻太郎の誕生日じゃんか」
確かに一度だけそういう話をした。この男、小生の嘘を見抜くことも出来ないくせに、そんなことばかり覚えている。小生は目を閉じて、またわざとらしく溜め息をついた。