※TDDメンバーについての捏造過多
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拠点にしていた倉庫から真っ先に出ていったのは乱数だった。頭の回転と同じく切り替えの早い彼は、解散が決まったと同時に次の動きを考え始めたに違いない。象徴であった旗を燃やし、最強と呼ばれたチームが名実ともに消えた今、あとは行動するのみだ。その乱数を追うようにして一郎も立ち去った。チームという枠を失ってなお左馬刻と同じ空間にいることが耐え難かったのだろう。この場を一秒でも早く脱したかったのはむしろ左馬刻の方だったが、出口から遠い位置に陣取ったせいで出遅れてしまった。
下手に続いて道中で追い付きたくはない。必然的に留まらざるを得なくなった左馬刻は、おそらく同じ立場であろう寂雷を見やる。さびれた廃倉庫に持ち込まれた調度は色も形もばらばらだったが、彼はその中でひときわ座面の高い椅子に腰かけていた。開け放されたままの扉から暮れかけた陽の光が射し込み、コンクリートの床を照らしている。
「これからどうすんだ、センセイ」
埃にくすんだ黒いソファーに身を沈めた左馬刻を、晴れた遠浅の海に似た色の瞳が見下ろす。声をかけたことに大した理由はなかった。彼と特段親しくしていたわけでもない。乱数よりは静かで一郎よりは好感が持てる相手だと思ってはいるが、それだけだった。寂雷からみた左馬刻も同じようなものであるはずだ。
それを証明するように、彼の声音は平坦だった。乱数に向けるよりは険がなく、一郎にかけるよりは温度の低い声が、これから、と繰り返す。左馬刻は頷いた。彼の背後では、床と同じ色の壁が陰に沈んでいる。この倉庫は存在すら所有者に忘れられたのか電気が止められる様子もなく、天井の照明は常に点きっぱなしだ。だがその灯りは小さく、倉庫の隅まで照らすには至らない。弱々しい光を投げかける蛍光灯の下で、寂雷の肌は外にいるときよりも白く見えた。
「私はシンジュク・ディビジョンに戻るよ。君の質問が単なる行動のことか身の振り方のことかはわからないけど、どちらにしてもね」
愚問だった、と左馬刻は思う。日々ふらふらとバトルに明け暮れている自分や他のメンバーと違い、寂雷はシンジュクの病院でそれなりの地位を得ている。自宅もその近くだと聞いた覚えがあった。それらはチームがなくなったところで変わるものではなく、また容易に手放せもしないのだろう。誰の目から見ても医師を天職とする彼は、救いを求める者がいる限りその傍らにいる。
「左馬刻くんはどうするんだい? このあたり、住み続けるには危険が多いと思うけど」
それは左馬刻も承知していた。彼はこの倉庫にほど近い通りに住んでいる。中王区の目も届かず法の手もすり抜ける一帯だ。ほとんどスラムといっていいこの地区には大小さまざまなチームがひしめき合い、常にどこかでバトルが行われている。それゆえにたえず漂うひりついた空気を左馬刻は気に入っていたが、今となってはその全てが彼へ向けられる刃になるだろう。
乱戦の中で名を上げるには、強い者をくだすのが一番手っ取り早い。最強を冠するチームが解散したとなれば、後ろ盾を失ったとみてメンバーを狙う者たちが現れるに違いなかった。ここまで荒れ果てているのはごく限られた地域で、近付きさえしなければ賞金首のような扱いを受けることもないのだが、さすがに住んでいてはそうもいかない。
左馬刻の実力からすれば、有象無象に襲われたところで返り討ちにすることはたやすい。だがそれだけに、悪賢い連中が彼の妹へ危害を加える可能性は多分にある。己の身を守れない妹の安全を確保するために、一刻も早くこの街を離れなければならない。金も身分の保証もほとんどない者には難しいことだが、左馬刻には当てがあった。
「ちっと前から声かけてきてる奴らがいっから、ありがたく使わせてもらうわ。兄弟盃だのなんだのクソほどウゼェが、ゴミカスにまとわりつかれるよりゃマシだ」
「盃、ということは……暴力団、かな」
「さあな。『同じ手段で生活を豊かにしようとする者たちのちょっとした組合』だとよ」
使いを名乗った男の説明をなぞりながら、その服装と車を思い出して左馬刻は笑った。あれが真っ当な稼ぎで買えるものか。だが嘘はついていないのだから物は言いようだ。
煙草を取り出そうとして、すんでのところで止める。寂雷は嫌煙家だ。吸うことを咎めまではしないが、どう見てもいい顔はしない。左馬刻は彼のそういうところが苦手だった。ポケットの中でライターに触れていた指を遠ざける。それにもかかわらず、彼は複雑な表情で何事か考え込んでいるようだった。
「生きるため……か。それが君の決めた生き方なら、私にどうこう言えるものではないね」
会話の続きというよりも寂雷自身に言い聞かせるような調子だった。人を助けるために働く彼にとって、左馬刻の選ぶ稼業は受け入れがたいものなのだろう。文字通り「法外」な手で堅気の人間から搾取し、時には同業の人間と奪い合う。金を、権力を、命を。
しかし、寂雷はそれを正面から否定することはしなかった。他人を傷つけ、奪わなければ生きていけない者たちがいることを知っているのだ。そうして、善を貫いて死ぬよりも道を外れて生きる方を是とする。むやみに綺麗事を並べないところは、一郎よりも好ましかった。
「もし『仕事』で具合が悪くなったら、うちの病院に来るといい。治療の質は保証するよ」
寂雷はそう言うと、返事を待たずに立ち上がった。ほの白い顔がさらに遠くなる。左馬刻は小さく舌を鳴らした。大人と子供の高低差で見下ろされるのは嫌いだ。理不尽な暴力ばかり叩きつけてきた父と、為す術もなく耐えるしかなかった自分を思い出す。
彼の不快に相手は気付いていないようだった。あるいは気付かないふりをしているのか。寂雷は何も言わず、左馬刻に背を向けて歩き出した。先程の言葉は別れの挨拶だったらしい。そう思い至ったとき、左馬刻は不意に心のうちを冷たいものが通り抜けるのを感じた。それはたとえるなら、盛りの花からこぼれ落ちるひとひらの花弁を目にしたときのわびしさに似ていた。
左馬刻が彼らとのつながりに求めたのは実利だ。親もなく何にも頼れない子供がこの世界で生き延びるには力が必要だった。武力、財力、権力。左馬刻にとってチームとはそれらを効率よく得るためのものでしかなく、そこには依存も執着もない。だというのに今さら別れが惜しいというのも妙な話だったが、思えばあれほど忌々しかった父が死んだときも、胸の奥には空虚な穴が口を開けていた。それが僅かに残っていた親子の情のもたらした悲しみだったのか、いつか恨みと怒りをぶつけるはずだった対象をなくした空しさだったのか、左馬刻には今もわからない。そのあと母を喪ってさらに広がり、塞がることのないまま身を隠した虚ろの穴が、忘れた頃に声をあげる。いま、二度と戻らない何かが失われたのだ、と。
取り返すことも他から奪うことも出来ないものに縋りつくほど無様なものはない。左馬刻はいっそう深く眉根を寄せる。生ぬるい感傷とも戦いへの渇望ともつかないものに押し出された言葉は、不機嫌そのままといわんばかりの調子だった。
「テリトリーバトルからは手ェ引くのかよ」
寂雷の足が止まる。扉からの光はその目前で尽きており、まるで日の当たる場所へ行くことを躊躇しているようだった。彼はゆっくりと上半身だけで振り返る。感情のうかがえない、ひどく静かな左目が見えた。ほんの少し、思案するような間のあとに届いた声も、同じく淡々としていた。
「しばらくはそうなるだろうね。私だけじゃなく、ここにいた全員が」
「あ?」
「私たちは互いの実力をよく知っている。新たなチームを作るにしても、生半可な者では四人のうちの一人にすら勝てないとすぐにわかってしまう。組もうと思える相手は、そうそう現れないよ。私にも、左馬刻くんにもね」
聞きようによってはあまりに傲慢な物言いだが、否定することはできなかった。彼らにそれだけの強さがあったことは紛れもない事実だ。
バトルに名乗りを上げる者は星の数ほどいる。だが、その頂点に立つ者はおろか手を掛けられる者さえほとんどいない。並の人間にとってはあまりに遠い頂。ここにあったのはそういうチームだった。左馬刻たちは強かったのだ。これ以上のメンバーなど望めないと思うほどに。
「……つまんねェ奴と組むくらいなら、ひとりでやる方がよっぽどマシだろ」
「ひとりで出来ることには限りがある」
いつの間にか寂雷は全身でこちらに向き直っていた。わずかに強められた声が、左馬刻との間に重みをもって落とされる。それに動かされたのか、空中を忙しなく舞う塵が妙に目についた。
「左馬刻くん、確かに君は強い。だが、人間とは弱さを持つものだ。自分の弱さがどこにあるかを自覚しなければ、いつかそれに足をすくわれるよ」
「説教かよ」
「忠告だよ。君たちは大切な友人だからね」
そこに乱数も含まれているのか、聞こうとしてやめた。寂雷がここまで一郎の名を出さないのも同じ理由なのだろう。左馬刻は髪をかき上げるのに紛らせて視線をそらした。床には低いテーブルや椅子の影がうっすらと浮かんでいる。先程の塵はその中に沈み、もう見えなくなっていた。
「……『しばらく』っつったな。しばらく経ちゃ、俺らと張れる奴が出てくるって言いてェのか」
そうは思えない、と言外に滲ませた反論を、寂雷は「可能性は高いと思うよ」と受け流した。
「未熟なスキルの持ち主が成長するか、今はラップバトルとは無縁なところにいる者がこちら側に足を踏み入れるか。どちらにせよ、今日明日の話ではないけどね」
「待ちくたびれて隠居とかすんじゃねえぞ。強ェ奴に消えられちゃつまんねーからよ」
「しないさ。出来るわけがない」
二言目は聞き取るのがやっとだった。彼が戦う理由を左馬刻は知らない。きっといつまでも知らないままだろう。その必要がないからだ。彼がマイクを使えることと、これからも手放すつもりがないことを知っていればそれでよかった。
顔を上げて寂雷を正面から見据える。距離がある分、彼の顔は先程よりも低い位置に見えた。
「だったら、病院来いとか余裕かましてる場合かよ。俺ら敵同士じゃねえか」
「チームができていない限りはそうではないよ。テリトリーバトルと無関係のところで争っても、あまり得るものがないからね」
「馴れ合ってる限りはチームなんざ組めねえだろ」
「どうして?」
すぐには答えなかった。寂雷の問いは純粋な疑問ではなく、既に知っているものを確かめたがる響きを持っていた。これだから無駄に頭の回る奴はめんどくせえ、と左馬刻は内心で毒づく。短く息を吐くと、鼻で笑うような音になった。
「新しいメンバー探すってんなら、前に組んでた奴のこたァ忘れちまった方がいいんじゃねェのか」
その返答に寂雷は目を細め、唇の端をかすかに吊り上げる。彼が今日はじめて見せた笑みだった。予測が当たったことに満足しているようにも、聞き分けのない子供をなだめるようにも見える。
「望んでいてもいなくても、私たちに互いを忘れることはできないよ。何かを知れば、知らなかった頃には戻れないんだ。それなら、あえて関わりを断つ意味はないと思わないかい」
きわめて単純な理屈を遠まわしに説く教師を思わせる口ぶりだった。この手の人間を面倒に感じる理由のひとつであるそれを、乱数もよくすることを思い出す。指摘したところで、本人たちは決して似ているとは認めないだろうが。
「思わねえ。組んでやろうか考えるたびに、いちいち他のヤツ出てきたらウザすぎんだろうが」
「情が湧いて、それに左右されかねないという自覚があるなら良いことだ」
「あン?」
「蛮勇は早死にを呼ぶからね。若い友人にはそうあってほしくない」
何の話だ。そう返すより先に、表情を読んだのか「いつかわかるようになるよ」と続けられた。
「君が今日のことを忘れなければ、だけど」
左馬刻は眉間に皺を寄せて黙り込んだ。彼の言葉はやはり遠まわしだったが、要は覚えていろということだった。互いの主張はどこまでも平行線であるらしい。普段の左馬刻ならばそれを力づくで自らの方へ引きずってくるところだが、今日はどうにも難しかった。
沈黙をどう解釈したのか、寂雷はどこか満足気に頷いた。
「それじゃあ、私はもう行くよ。体には気をつけなさい」
左馬刻にもこれ以上するべき話はなく、止める理由もなかった。ふたりが話している間にも陽は傾き、扉からの光は今や金色と呼べるほどに明るい。その中を寂雷は悠然と歩き、今度こそ振り返らずに出て行った。ただでさえ長身の彼が連れる、彼の身体以上に長い影が視界から完全に消えるまで見送って、ようやく左馬刻は煙草に火を点ける。せいぜい一時間ほどの禁煙のはずだったが、数ヶ月ぶりに吸ったような気分だった。肺の奥までニコチンを行き渡らせながら、寂雷の言葉をぼんやりと反芻する。
あらためて言われずとも、何かを意識的に忘れるのが難しいことはわかっている。元から記憶の端にも引っ掛からないその他大勢はともかく、顔も名前もラップスキルまで認識した相手ならば尚更だ。ソファーに背を預けて天井を仰ぐと、黒い革と同じタイミングで胸中の穴が軋んだ音を立てた。左馬刻は再び煙を深く吸い込む。やはり覚えのある空虚だと思った。
いくら惜しもうと、かつてここにあったチームは二度と戻らない。戻らないものに縋るのは惨めだ。しかし左馬刻にとっての母がそうであるように、忘れえぬ面影が灯火となって道を照らすこともある。父のように、外れぬ枷となって歩みを妨げることもある。それらは縋る対象ではないが、生きていく上で背負わなければならない過去だった。
今しがた失われたものも、いつかそこに組み込まれるのだ。灯火にはならないだろう。そうするには苦い思いをしすぎてしまった。ならば、やはり枷だ。過去は重石となって振り上げた拳の勢いを削ぎ、蹴りつける脚を縫いとめる。抗い、進むことなど許さないというように。それは左馬刻に対する挑発に他ならない。
「上等じゃねェか」
今までだって行く手を阻むものは全てねじ伏せ、邪魔なものは切り捨てて生きてきた。過去と己の体が分かちがたく癒着するならば、枷のついた部位ごと切り落として這い進もう。代わりの手足はこれから見つければいいだけの話だ。
決めてしまえばもう留まる意味はない。灰皿がないので短くなった煙草は床に落とす。踏みつけて火を消すと、ポケットを探りながら出口へ向かった。まずは使いの男に連絡を取らなければいけない。ある程度の融通は利かせてやると言ってきたのは向こうだ。傘下に入る対価として当座の住処を要求するのは妥当なことに思えた。
男の組織は広い地域に勢力と拠点を持つという。別の土地に家を用意するなど造作もないはずだ。妹に危険が及ばないようこの街からは遠く、だが戦う相手には困らないところへ行きたかった。
できれば海の近くがいい。そうすれば、懲りずについてくる過去の足跡も、寄せる波や吹きすさぶ潮風が消してくれるだろう。
左馬刻が出て行き、誰もいなくなった倉庫には金色の光が射している。沈む間際にひときわ輝く陽光が、埃まみれの床を照らした。その上に刻まれた、同じ方向に向かいながらも重ならない四種類の靴跡は、陽が沈み扉から入る光が途切れても、いつまでもそこに残っていた。