シャワーを浴びて戻ってくると、待ちくたびれたのでしょう。仁王君はソファーで眠っていました。


「仕方ないですね……」


仁王君にブランケットをかけるとなんとなくその寝顔を見ていたくて、傍らに座り込んでみました。無防備な様は幼い子どもを思わせて、綺麗な顔立ちの仁王君ですが可愛らしく思えます。

仁王君が私の部屋に来て数週間。相変わらず彼の記憶は戻りませんが、私からすれば少しずつ元の生活に戻りつつあるのが実状です。仁王君自身が私との生活に慣れてきたというのもあるでしょう。私を“柳生先生”と呼んでいた彼は、今では以前同様に呼んでくれています。

これで記憶が戻ってくれれば言うこと無しなのですが──……


「……いけません。最近上手く行き過ぎていたせいか、逆にネガティブになっていますね」


仁王君の記憶が戻らないという点を除けば、以前と変わらない生活。それが私のマイナス思考を誘発する原因になっているのです。

それではいけないと頭では分かっているのですが、夜になると何故でしょう。不安だけが襲ってきて、こうして一人ふさぎ込んでしまうのです。

ふと手元に目を落とせば、そこに雫がこぼれ落ちました。
















煎れたての紅茶。湯気と共に立つ香りは高く素晴らしい。


「うん、良い香り」


しかし僅かに口にした途端、俺は眉根を寄せた。


「だから言ったじゃねぇか、お前好みじゃないって」


言いながらそのカップを自分の元へと下げるのはジャッカル。代わりに自分の元にあった手のつけられていないカップを、俺の元に置いた。


「ウバはストレートで飲んでも美味しいけどお前好みじゃねぇよ。ミルクティーなら大丈夫だから飲んでみろよ」

「俺は基本的にストレートの方が好きなんだけど……」

「ウバは特別。良いから飲んでみろって」


言われるがままに口にしてみる。すると口の中に広がったのは、上品な甘さのミルク。


「な? こっちの方がお前好みだろ?」

「そうだね。お前の言う通りだよ、ジャッカル。けどなんでコレが不良品なの?」


良い香りだし、美味しい上質の紅茶。けれどコレを、丸井の店に卸すわけにはいかないとジャッカルは言う。

だから俺に譲ってくれるらしい。それはありがたいんだけど。


「別に不良品じゃねぇよ。向こうの発注ミスでな、間違って送られてきたんだ。悪い品じゃねぇけどアイツが作るケーキとか店の雰囲気とは合わねぇからな」

「ふぅん……経営の事はよく分からないけど、そういうのも大切なんだね。それでさ、ジャッカル」

「なんだ?」

「お前と丸井ってどういう関係なの?」


途端に飲んでいた紅茶を吹き出すジャッカル。そんなに驚かなくても良いのに。


「な、なんだよ突然!!」

「えー……だって良い感じだし、もしかしたらそういう関係なのかなぁって」

「違うっての。お前が思ってるような関係じゃねぇよ」

「お前が自覚してないだけなんじゃないの?」

「はぁ? お前意味分かんねぇよ」


そう言ってジャッカルは話を濁らせたけど、たぶん違う。いや、本当にジャッカルは自覚してないかもしれないけどたぶん丸井は──……


「おい、内線鳴ってるぜ?」

「あぁ、ごめん。──はい」

『すみません、先生。今仁王さんがいらしてるんですけど……』

「仁王が? 今日は診察日じゃないだろ?」

『そうなんですけど……診察ではないけどお会いしたいそうで……どうしますか?』

「良いよ。通して」


突然どうしたんだろう──内線を切って溜め息をつけば、何か言いたそうにジャッカルがこちらを見ていた。


「……俺、帰った方が良いか?」

「いや、いてくれて構わないよ。嫌なら仁王の方から何か言ってくるだろうし。それにしても何だろうね、突然」

「記憶が戻った……とか?」

「なら一番に柳生のとこに行くんじゃないかな? で、俺には柳生から連絡が来る」

「じゃあ何だよ?」

「それが分からないから聞いてるんだろ?」

「──柳生の事じゃ」


ノック音もせず、突然開いた診察室の扉。そこに立っていたのは、見慣れた銀髪──仁王雅治。


「なんじゃ、コーヒー豆もおったんか」

「俺かよ!?」

「自覚しとるなら問題無しじゃな」


良くも悪くも変わった様子の無い仁王は、当然のように入ってくると適当に椅子を引っ張り出して勝手に座る。そしてこれも当然のごとくジャッカルの手からカップを奪うと、それを口にした。

それ、さっきジャッカルが吹き出したヤツなんだけど……まぁ良いか。


「仁王、柳生の事って?」

「おん。アイツ、何かあったんか?」

「何か?」

「仕事とか」

「……どうしてそう思う?」

「アイツ、泣きよるぜよ。気付いとらんち思っとるかもしれんけど、俺が寝た後に毎晩毎晩」

「……」

「じゃけ何かあったんかと思って」


お前だよ──小さく呟いたジャッカルの声は、たぶん仁王には聞こえていない。


「心当たりは?」

「あるわけないじゃろ。馬鹿かお前さん」

「ははっ、そうだよね。あるわけないよねー。ホント俺馬鹿だよねー」

「怒るなって、幸村……」

「用件はそれだけじゃ。なぁ、幸村」

「何?」

「俺、どうすれば良い? 柳生に何をしてやれる?」

「……」

「アイツが泣きよるところ、見たくないんじゃ。なんかな、よう分からんけど嫌じゃ。世話になっとるし」


仁王はらしくない、少し小さな姿を見せた。けれどその姿が、俺を僅かに安堵させる。

不意にジャッカルと目が合えば彼も同じように思っていたようで、互いに苦笑してしまった。

間違いない。仁王の中にはまだ、柳生がいる。


「無くした記憶、取り戻したいと思う?」


無言のまま、仁王は頷いた。


「じゃあお前はそのままで良いんじゃないかな? 仁王が笑ってればそれで良いと思うよ。ゆっくりで良いからね、少しずつ思い出そう。そしたら柳生もきっと喜ぶ」

「……そういうもんか?」

「そういうものなんだよ。難しく考えなくて良い。でももし柳生に何かしてやりたいって思うのなら、それもお前がやりたいようにやったら良い」

「そうだ、仁王。帰りにでも家に寄れよ。良い紅茶が入ったから持って行け。柳生、紅茶好きだろ?」

「好きみたいじゃな」

「ついでに丸井の店にも寄って行けば? 美味しいケーキがあるから」

「そうじゃな……うん、そうするぜよ」


少し不安が消えたのだろうか。僅かに笑った仁王は、柳生の好きなケーキって何じゃろ?、などと言いながら考えている。

それにしても……やっぱりと言うか、何と言うか。柳生は独りで背負おうとしているのだろう。こういう時は、真面目で極力他人を頼ろうとしない性格が仇になる。

愚痴を零すだけでも良いのに……とは思うけど、それはつまり、俺が柳生にとってその域に達していない証拠。俺だけじゃない。たぶんジャッカルも丸井も赤也も真田も、一番仲が良いはずの蓮二ですら。

そこが俺の腕の見せどころなのに、近すぎると難しいのが現実。


「へこむなぁ……」


意図せず出ていた俺の本音。それは仁王とジャッカルには聞こえていなかったようで、彼等は柳生の好きなケーキの話を続けていた。








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