突然、父が亡くなった。 不慮の事故とだけ聞かされていて、詳しい事は知らない。母は俺が物心着く頃には既におらず、周りに親戚等もいなかったため、俺は施設に入る事になった。 ちょうどその頃からだ。わけのわからない連中に追い回される事になったのは。 小学校の帰り道、突然現れた“奴等”は「チップを渡せ」とだけ言った。一体何の事だが分からなかった。 その旨を伝えて尚追ってくる奴等が怖くなって、俺は逃げた。とにかく逃げた。 けれど当時小学生だった俺が奴等に適うはずがなく、一旦は捕まった。ほんの一瞬の僅かな隙をついて奴等を振り切り、無我夢中で逃げ続けたのを覚えている。 気が付けば見知らぬところに来ていた。いや、まさかという思いはあった。 以前父に聞いた事がある。地図にも載っていない街がある、と。一歩足を踏み入れたならば死んだも同然だ、と。 廃ビルや荒れ地が広がり、行き場を無くしたホームレスやジャンキー、犯罪者など多くのならず者がはびこるその街は、歪んだ柵や錆びた鉄線、崩れ落ちたぼろぼろの壁が垣根を作り、街全体を取り囲んでいる。 この国唯一のスラム街であるそこでは、麻薬取引、人身売買などありとあらゆる犯罪が、そして死までもが日常。いつ誰かここに来て、いつ誰が死んだのかも分からない、常識から逸脱した街。 一般人はおろか、国家権力すら介入しようとはしない。本当に行き場を無くした者達だけが辿り着く街。 通称“第参区” 目の前に広がる荒れ地と廃墟群を見て、ここがそうだ、と本能で悟った。近付いてはいけないと、行ってはいけないと再三父に言われていた場所に、俺は来てしまったのだ。 「……どうしたんスか、柳さん?」 隣から聞こえた赤也の声に、ハッと我に返る。目の前にはこんな闇市には珍しい白イチゴ。 それを俺に見せるように差し出す老婆が、不思議そうに首を傾げていた。 「婆ちゃんがくれるって言ってるんスよ。白イチゴなんて珍しい物せっかくだから自分で食えって言ってんのに、自分はもう食べたからアンタ達にあげるって」 「……良いんですか、シズエさん?」 目の前の老婆──シズエさんがにっこりと笑う。皺だらけの顔が逆に優しさを彩っている、見た目通りの人だ。市場の入り口に住む彼女には、いろいろと良くしてもらっている。 「他人様の好意を無駄にしてはいけないな。赤也、頂く事にしよう」 シズエさんに礼を言って、俺達はその場を後にした。 赤也と並んで歩きながら周囲を見やって、俺は少し安堵した。今日は追っ手はいないらしい。あの日から追われる身となった俺は、相手の気配を読むというか、そういうのが僅かばかり感じ取れるようになった。常に誰かに狙われているという事、そして第参区という特殊な環境が必然的にそうさせたようだ。 「大丈夫ッスよ。柳さんは俺が守りますから!!」 赤也がいたずらっぽく笑い、俺に不意打ちのキスをする。 その言葉通り、赤也は出会ったあの日からずっと俺を守ってくれている。 第参区に迷い込んだ俺の最大の幸運は、赤也に出会えた事だ。迷い込んだ直後に出会ったため他者から何の危害も加えられる事は無かったが、そうでなければ俺は今頃生きてはいまい。 赤也は俺を気に入った──というより最初から俺の事を知っていたようで、すぐに雅治と精市の元に連れて行かれた。無論彼等も俺の事を知っていて、すぐに受け入れてくれた。三人とも父の知人らしい。第参区の事や生きていく術を教えてくれたのも彼等だ。 アジトは俺のせいで追っ手の奇襲を受けた事もある。それでも彼等は俺を見捨てる事も追い出す事もせず、俺も彼等に感謝しながら厚意に甘えて現在に至る。 「ありがとう、赤也」 「柳さん柳さん、御礼はキス──……」 「調子に乗るな」 「痛っ!!」 赤也の頭を小突けば、その顔が拗ねたようにむくれる。 ありがとう──その言葉に嘘は無い。 すぐにキスをねだるし何かにつけて「柳さん、柳さん」と煩いが、くるくると表情が変わる様はまるで幼い子どものようで可愛い。 俺は赤也が好きだ。俺に弟はいないが、いたとすればこんな感じだろうか。 「そういえば赤也、今日の夕食当番はお前じゃなかったか?」 「……あれ? そうでしたっけ?」 「俺の記憶違いでなければな」 「あの、柳さん──」 「手伝ってください──と、お前は言う」 「……違うッスよ。“手伝ってくれませんか、柳さん”」 「言葉を変えたところで同じだ。それに赤也、レシピならいくつか教えたはずだ。比呂士にも習っていただろう? いい加減覚えろ」 「レシピ通りに作ってんのに最終的には何か違うものができるんスけど……」 「確かに。お前はいつもそうだ。不思議なものだ」 「だからね、手伝ってくださいよ柳さん。ね?」 他人を上手く使う手を心得ている──とは思えないし赤也に限ってそれは有り得ないが、そんな風に頼られたら手伝わざるをえない。 そしていつも手伝って、「自分でやらせなきゃ赤也の為にならない」と精市に怒られるのは俺だ。 そう、いつもの事。まぁそういう日常でさえ、今は楽しい事この上ないのだが。 「……で、何を作るつもりだ?」 「カレー!!」 「……俺が手伝う必要はないんじゃないか?」 「だめッス。手伝ってくださいね、柳さん」 「なぁ、仁王知らねぇ?」 キッチンの入り口からそう声をかけてきたのは、ジャッカル。普段はブン太や拾ってきた子ども達と一緒にいるため、俺達がいるこっちにはあまり顔を出さない。 人参を切る手は休めず、俺は応える。 「雅治なら比呂士と一緒に見回りに行っている。直に帰ってくると思うが……どうした?」 「いや、迷い込んで来ちまったヤツがいるみてぇなんだよなぁ……」 「迷い人……?」 「あぁ。たまにいるんだよな、外部からの迷い人。お前もそうだったし……ただお前と違うのは記憶が無いって事か」 「記憶が無い?」 「そうらしい。何聞いても“覚えてない”しか言わねぇからどうしたもんか悩んでんだよなぁ。で、どうすれば良いか仁王に聞きたかったんだけど……」 「ならば待っていると良い。そう遅くないうちに二人共帰ってくるはずだ」 「悪いな、柳。そうさせてもらうぜ」 申し訳なさそうに言って、ジャッカルは通路に声をかけた。 キッチンの奥に広い部屋がある。皆が集まるリビングのような場所として使っているそこで待つつもりなのだろう。 人参を鍋に入れながら俺は迷い人の顔を一瞥した。 刹那。 「赤也、お前また柳に手伝ってもらってんのか?」 「へへっ。だって俺が作るより柳さんが作った方が美味しいし」 「幸村に叱られるぞ?」 「うぇぇ、それは勘弁。あぁ見えて幸村さんって怖いんスよ」 すぐ近くのはずのジャッカルと赤也のやり取りが、俺の耳には遠く聞こえた。あまりの驚愕に、俺は立ちすくんでしまう。 ジャッカルに続いて入ってきた“迷い人”を、俺は知っている。二度と会えないだろうと、ずっとそう思っていた。 「弦一郎……」 記憶を無くしているというのは本当なのだろう。目の前に表れた迷い人──俺の幼なじみである真田弦一郎は、眉根を寄せて訝しげに俺を見ていた。 |