自分が仁王君の事をどう思っているのか自覚してしまいました。 それでも彼と私は住む世界が違うのです。 所詮、相容れない存在なのです。 真夜中に例の304号室があった連絡通路の先にあるのは、精神科病棟。内科医である私がここに出向く事はほとんど無く、その際の理由は一つしかありません。 “第二診察室”と書かれたドアをノックすれば聞こえる、「どうぞ」という聞き慣れた声。 「あぁ……いらっしゃい、柳生」 ドアを開けて入った私を迎えてくれたのは、いつもの柔らかな笑みを浮かべた幸村君。私が精神科を訪ねるのは、彼に会うため以外に無いのです。 「今、お時間は?」 「大丈夫だよ。昼休みだし、次の診察までは時間があるから。柳生は午前あがりだよね?」 座りなよ──そう促した幸村君は一度診察室の奥へ行き、湯気立つカップを2つ手にして戻ってきました。 ハーブティーでしょうか。普通の紅茶とは少し違う香りが、漠然とした不安を取り除いてくれます。 「オレンジピールティー。レモングラスとのブレンドなんだけどね、美味しいから飲んでみなよ」 「オレンジピール……お菓子に使われる、あの?」 「丸井に教わったんだ。こんな使い方があるなんて知らなかったよ」 丸井君は病院の近くに店を構えるパティシエで、お茶にも詳しい方です。彼が作るお菓子や紅茶はどれも一級品で、特にケーキは絶品。お客さんからの評判も良く、わざわざ遠方から買いにくるお客さんもいる程です。 私や幸村君も気に入っていて、よく買いに行くうちに丸井君とは仲良くなりました。 カップを口にすれば、僅かな酸味が広がりました。初めての味でしたが、さすが丸井君というべきか、程よい口当たりが絶妙なハーブティーです。 「俺の最近のお気に入り。ローズヒップとも相性が良くてリラックス効果もあるみたいでさ、たまに患者さんにも勧めてるんだ」 で、柳生──と、幸村君は続けました。 「今日は何? もしかして仁王の事を聞きたいのかな?」 「その通りですよ、幸村君。改めて仁王君に話を聞きましたが……そうすると食い違う点が出てくるのです」 「うん」 「幸村君は仁王君自身に名前を聞いたとおっしゃいましたが、仁王君は幸村君に聞いたと言っていました。これはどういう事でしょうか?」 「簡単な話さ。俺が嘘をついたんだから。俺は最初から仁王の事を知ってたんだ」 「幸村君……」 「ねぇ、柳生」 席を立った幸村君に、後ろから抱きしめられました。突然の事に反応すらできずにいると、今度はメガネを取り上げられて視界が真っ暗に。 おそらくは幸村君が私の目元を覆ったのでしょう。耳元に幸村君の息遣いが感じられます。 「身体の力を抜いて」 「幸村君?」 「ゆっくりで良いから。そう……じゃあ柳生、今一番会いたいのは誰?」 言われるがままに不思議と力が抜けていく身体。ボンヤリとする中で、幸村君の声だけが鮮明に聞こえます。 今一番会いたいのは──…… 幸村君の取るカウントが、徐々に遠くなっていきます。その間私が考えていたのは、たった一人の事でした。 「……比呂士? おーい、比呂士?」 「え……?」 ハッとした私の顔を、仁王君と丸井君が不思議そうに見ています。 「どうしたんだよ、ボーっとして。俺の話聞いてなかっただろぃ?」 「すみません……」 「疲れてんのか? まぁいいや。試作のクッキー入れといたから二人で食べろよ。で、感想シクヨロ!!」 じゃあな──そう言って笑顔で手を振ってくれる丸井君。彼の店を後にして、私と仁王君は歩き出しました。 丸井君には本当に悪い事をしてしまいました。友人の話を聞かないなんて…… 「疲れとるようじゃのう、柳生」 「えぇ、まぁ……仕方ないですよ」 先日、勤め先の病院の医師が一人、亡くなりました。不慮の事故です。一人抜けただけでも診療に影響が出てしまい、内科医は総出で彼の穴埋めに追われる日々なのです。 連日の勤務に、私も疲れが出始めたのでしょう。 「今日は俺が夕食作るかのう……柳生は帰ったら少し眠りんしゃい」 「大丈夫ですよ、仁王君。私なら平気です」 「柳生、今日はこれから夜勤じゃろ? 寝れるうちに寝ときんしゃい」 「大丈夫です。突然の事で変則的な勤務とはいえ、病院でも仮眠は取りますし……」 「柳生が言う事きかんならエッチな事してもっと疲れさせて無理に寝かせるしかないのう」 「仁王君!!」 冗談とはいえ仁王君は場所を考えず平気でそういう事を言うので、周りの方に聞かれていないかハラハラしてしまいます。 幸い周りには誰もおらず、気付かれないよう私は胸をなで下ろしました。 「柳生が夜勤じゃなかったらのう……一緒に飲みに行けたんじゃが」 「おや、どなたかと飲み会ですか?」 「ジャッカル。丸井も時間ができたら顔出す言うてたのう」 ジャッカル君は丸井君の友人で、私達とも顔見知りです。丸井君の店で扱っている紅茶やコーヒーは全てジャッカル君が仕入れた物で、その味や香りは質の良い物ばかり。丸井君の店に花を添えているのは間違いありません。 ──と、その時です。鞄が震え出しました。中から取り出したケータイのディスプレイには、病院の内科部長の名前。 出るまでもなく用事は想像できてしまい、溜め息しか出てきません。 私が内科部長と話している間、仁王君は無遠慮に私を見ていました。端から見れば表情の無い、冷たい瞳にしか見えなかったでしょう。ただ仁王君とは友人以上の付き合いである私には、その瞳がそうでない事くらい分かります。 「誰?」 通話を終えた途端、開口一番に仁王君が聞いてきたのはその一言。 「病院からです。すみません、仁王君。これからすぐに行かなければならなくなりました」 「でも柳生、夜勤じゃろ?」 「ですからそのまま当直に入ります」 「内科部長も意地悪じゃな。柳生が当直なの知っとるやろうに……柳生以外のヤツは無理なんか?」 「皆さん忙しいんですよ、きっと」 「都合良く使われよるようにしか思えん」 「考えすぎです」 「……大丈夫か?」 「大丈夫です」 「本当に?」 「平気だと言ってるじゃないですか。口説いですよ、仁王君」 「無理は──」 「──無理しないとやってられない時もあるんですよ」 言ってしまってからハッとしました。つい突き放すような言い方をしてしまいましたが、仁王君はただ純粋に私を心配してくれているだけなのです。 これでは八つ当たりもいいところです。忙しさや疲れにかまけて感情をコントロールできないなど、言語道断。紳士にあるまじき行為です。 「すみません……」 「やーぎゅ」 自己嫌悪に陥りかけた私を包み込んだのは、仁王君の暖かさ。優しい囁きが耳元をくすぐり、真っ黒な心が洗われます。 「帰ってきたらブンちゃんがくれたクッキー食べよな? そん時は俺が紅茶いれちゃる」 「……仁王君」 私に触れるだけのキスをして、仁王君は笑ってくれました。 「……で、比呂士の様子は?」 「相変わらず。でもさすがに……矛盾には気付いたね」 「どうするんだ? 比呂士が気付いたところで何も変わらないだろう?」 「そうかな? 変わってくると思うよ……というより変わってもらわなきゃ困る。それが俺の仕事だからね」 蓮二が訝しげに俺を見る。 俺と蓮二の心の有り様はまるで違う。けれどそれさえも柳生の事を心配しているが故の事で、もっと深い奥底では同じ思いでいるはずだ。 柳生は俺にとっても、蓮二にとっても、大切な友人だからね。 「大丈夫だよ、蓮二。柳生は強い。ちゃんと現実を受け入れられる」 「受け入れられないからこんな事になっているんだろう?」 「結構ストレスも関係してるんだよ、こういうのって。聞けば柳生、夜勤と日勤の連続でまともに休む間も無かったって話じゃないか」 「あれは内科部長が悪い。比呂士に仕事を押し付けて、自分はしっかり休養を取って……比呂士だけじゃない。若手の内科医は皆そうだ。休んでいたのは上の連中だけのようだからな。上の協力があればこんな事にはならなかったはずだ」 一見すればいつも通り冷静に見える。けれど僅かに見える憤りが、蓮二の苛立ちを表していた。 こんな蓮二、久しぶりに見た。親しい友人が関わっているせいで少し冷静さを欠いているのだろう。 とはいえそれを見抜けるのは、俺を始めとした極一部の人間だけだろうけどね。 そんな事とは露知らず、簡易ベッドに横たわる柳生はぐっすりと眠っている。 内科医の不慮の事故からしばらく経ったし、勤務体制も見直されたとはいえ柳生が忙しい事に変わりはない。元来のお人好しな性格というか、正義感、自己犠牲の精神が強い柳生の事。人助けと称して他人がやるべき事まで請け負っているんじゃないかな? 「皮肉だよね、柳生の一件で事が露呈するなんて」 「全くだ。しかしこれで上の連中も──」 その時、蓮二の言葉を遮るように内線が鳴った。 「何?」 『すみません、幸村先生。警察の方がお見えです』 「警察?」 『いつもの方です』 あぁ、アイツか。何かあればこっちから連絡するって言ってるのに……毎日毎日ご苦労な事で。 「分かった。すぐ行くから待たせといて」 内線を切ると同時に、無意識に溜め息が出た。 それで察したのだろう。蓮二が俺を見て苦笑していた。 「弦一郎か?」 「あぁ、また来てるらしい。変化があればこっちから連絡するって言ったのに」 「まぁそう言うな。弦一郎は弦一郎なりに……」 「分かってるよ。さて、行って来なきゃ」 「いや、俺が行こう。比呂士の診察がまだだろう? 弦一郎には俺から話をしておく」 「そう? じゃあ頼むよ、蓮二」 蓮二が出て行って、診察室は元のように静まり返る。診察がまだ──なんて蓮二は言ったけど、患者が眠ってる状態じゃどうしようもない。 「……どんな夢を見てるんだろうねぇ、お前は」 できれば幸せな夢が良い。柳生を癒やしてくれるような、幸せな夢が。 そんな事を思いながら、俺は柳生の乱れた前髪を整えてやった。 |