夜に支配された真っ暗な通路を、私は懐中電灯の灯りを頼りに歩いている。こんな広い場所にたった一人というのは寂しすぎる──というより怖いです。恐怖です。


「しかしこれも仕事です。仕事なんです……」


──何が仕事なんじゃ?


「……ひっ!?」


──あぁ、悪い。驚かせるつもりは無かったんじゃ。


足を止めた私の目の前に、白い影が現れる。ゆっくりと形を成していったそれは、私のよく見知った姿になりました。


『俺じゃ、やーぎゅ』

「……君ですか。驚かさないでください」

『すまん。で、こんなところで何しとるんじゃ?』

「見回りですよ。空き部屋からずっとナースコールが鳴るもので、看護師達が怖がってるんです」


とはいえ普通ならこういう見回りは彼女達がしてくれますし、ナースコールだって彼女達が対応してくれます。それが例え空き部屋からのナースコールであっても一応は確認する決まりになっているので彼女達も確認したらしいのですが……部屋には誰もいない。それでも何度も鳴るナースコールに怖がってしまい、当直で詰めていた私に頼んできたというわけです。

他の先生なら断るのでしょうが、私は紳士ですからね。レディーの頼みを断るわけにはいきません。


『つまり体よく使われたって事じゃな』

「基本的に動じない彼女達が怖がっていたんです。仕方ないでしょう?」

『自分だって怖いくせに』

「……そういう君はここで何してるんですか?」

『柳生のところ行こうち思ったら柳生が見えたから来ただけじゃ。けどそういう事なら俺がいた方が心強いじゃろ?』

「君も幽霊なんですけどね」

『じゃって柳生。俺の事は怖くないじゃろ?』

「まぁ……慣れましたね」


そういえばそうです。彼も幽霊なのに、いつの間にか慣れてしまいました。

今もほら、こうやって普通に話せますし。


『当直の時はいつも俺と楽しい事しよるしのう』

「何の話ですか。あぁ、ここ……です、ね……」

『何じゃ。歯切れの悪い言い方じゃのう』

「ナースコールが鳴っていたのは303号室。それから向かいの棟との連絡通路の出入り口を挟んで、隣は305号室なんです」

『おん』

「304号室は存在しないんですよ」


ところが今、私達の目の前には存在しないはずの304号室の扉があるのです。本来は連絡通路があるはずの場所に。

そもそもこの病院には“4”の数字がつく病室は存在しません。“4”が“死”をイメージさせるせいか病院にそういう部屋が存在しないのは有名な話で、この病院もしかり。新しい病院なら気にしないところもあるらしいのですが、古くからあるこの病院には“4階”すら存在しないのです。


『けど304号室、たまに見るぜよ』

「え?」

『304号室、毎晩じゃないけどたまにある』

「……入ったらどうなるんですか?」

『さぁ? 残念ながら俺は入れんけぇのう……』

「入れない?」

『おん。304号室だけじゃない。本来ここにある連絡通路も、俺は通れんのじゃ』


言いながら彼は304号室の扉に手をかけたのですが、その手は何かに拒まれるかの如くドアノブをすり抜けてしまいました。


『連絡通路も行こうとしたら弾かれる。上の階からの連絡通路も同じじゃ。向こうの棟から拒否されとるんじゃろなぁ……じゃから俺はこの向こうの事は知らん』

「304号室とナースコール……何か関係でもあるのでしょうか?」

『さぁのう。行くんか?』

「一応は……確認しようかと」

『悪い感じはせんから大丈夫とは思うが……何かあったら呼びんしゃい。俺はここにおるけぇ』

「でも入れないんでしょう?」

『どうにかする』


ウィンクしてみせる彼は、なんだか心強い。幽霊なのに頼りがいのある彼に笑みを浮かべて、私は304号室のドアノブに手をかけました。

引き戸になっている他の病室とは違う様が、昔の病室を思い出させます。

そういえば幼い頃に祖父の見舞いにこの病院を訪れた際には、病室はこのようなドアノブだった気がします。幼い頃の話なので記憶が定かではありませんが。

ドアを開けて一歩中に入った時、後ろには既に彼の姿はありませんでした。やはり彼はこの場所に拒まれているのでしょうか?

少し気になりましたが、意を決して灯りを部屋の奥へと向けてみました。







『あ、いらっしゃい、柳生』

「え? あ、え? 幸村君!?」


扉の向こう側でにっこりと笑っていたのは、見慣れた綺麗な顔──幸村精市。精神科の医師である彼は普段から私とも仲良くしてくれていて、同僚としても尊敬できる相手です。基本的に穏やかで、患者からの信頼も厚いのです。

優しく微笑む姿はいつもと変わりません──ただ一つ、姿が透けているという点を除いて。


『まぁ座りなよ、ほら』

「え? いや、あの……本物ですか?」

『本物だよ。ちょっと半透明なだけで』

「えっと……」

『大丈夫、説明するから。赤也、お客さんだよ。お茶出して』

『人使い荒いッスね、アンタ……つーかココの主、俺なんスけど?』

『何か言った?』

『いえ、別に……』


どこから現れたのでしょうか。“赤也”と呼ばれたその少年は、突然姿を現してブツブツと文句を言いながらもお茶を差し出してくれました。

白い服を纏った彼は死人のように見えます。また別の見方をすれば──……


「天使……?」

『柳生にはそう見えるんだね? まぁ柳生は優しいからなぁ……赤也はね、見る人によって変わるんだよ。赤也の事を悪魔だって言う人もいる』

「彼は一体……というより幸村君、ここは? 貴方のその姿は?」

『うん、俺はただの幽体離脱。ただし俺の場合、自分の意志でそれができるんだけど』

「自分の意志で!?」

『ま、俺だからね』


普通なら考えられない事ですが……その一言で納得してしまうのは相手が幸村君だからでしょう。彼ならば可能である気がします。


『柳生、赤也が人間じゃないのは分かるね?』


それは頷くしかありません。にわかには信じがたいのですが、外で待っている銀髪の彼や今の幸村君の事を思えば、当然そうなります。


『赤也はね、この部屋の主であり番人であり……案内人でもあるんだ』

「案内人?」

『行くべき場所が分からず、さまよってる子達の』

「さまよってる……」

『そう、例えば……外にいる彼とかね?』

「彼の事を知っているのですか!?」


驚くばかりの私に、幸村君は優しく微笑んだまま頷いてくれました。

『彼の事、知りたい?』

「知りたいです。何故ここにいるのか……何故さまよっているのか……」

『ほとんどアンタのせいッスけどね、あの人がさまよってるの。アンタのせいで俺の仕事が増え──』

『うるさいよ、赤也。黙らないと約束の御褒美は無し』

『……っ!!』


御褒美というのが何なのかよく分かりませんが、赤也という少年はそれきり黙り込んでしまいました。

それを了承と捉えたのでしょう。幸村君は私に向き直ると、笑みを浮かべて続けました。


『彼の名前は仁王雅治。何故さまよっているのかは分からないけどね、少し前からここにいるみたい。その辺りの事は仁王から聞いてない?』

「いいえ。幸村君は何故それを?」

『俺は仁王本人から聞いた』

「本人からですか……」


そんな事、私には一切教えてくださらなかったのに。名前だってたった今知ったばかりです。彼本人ではなく、幸村君の口から聞く事になるなんて……

僅かに拳を握った時、幸村君がクスッと笑いました。


『仁王の事、俺の方が知ってて悔しい?』

「え? いえ、別にそんな事は……」

『大丈夫だよ、仁王はお前の事が好きだから。柳生だってそうだろ?』

「私、は……」

『違った?』


正直なところ、よく分かりません。彼と一緒にいて悪い気はしませんし……まぁ幽霊ですし、あんな事だってされてしまいますが……えぇ、やはり嫌な気はしません。それはつまり幸村君の言うように好きだという事でしょう。ただそれがどういう意味での好きなのかがよく分からないのです。


『良いんだよ、分からなくて。少なくとも嫌いではないだろう?』

「そうですね。嫌いではないです」


私の言葉を聞いた幸村君は何故か嬉しそうに笑い、それでね、と続けました。


『仁王を助けてやってほしいんだ』

「助ける?」

『行くべき場所が分からずにさまよってる子達のためにこの304号室はあるし、赤也はいる。今この部屋が存在してるのはたぶん仁王のためなんだけど彼本人は何故か部屋に入れない……そうだろ、赤也?』


──ま、そうッスね。お陰で俺の仕事が終わらないッス。


先程の“赤也”と呼ばれた彼の声だけが響きました。姿を見せずとも、どこかから見ているのでしょうか?


『だから柳生。まずは原因を探してほしい』

「原因を?」

『304号室に入る事さえできれば後は赤也が手助けしてくれる。ずっとあのままってのも可哀想だろう? もちろん、ここに来ずとも成仏できればそれはそれで良いんだけど』


幸村君はそう言うと、もう一度笑いかけてくださいました。







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