夕日も沈んだ後の真っ暗な室内は、不気味としか言いようがない。それが病院なら、尚更。けれどその闇が、今の俺には心地良かった。突っ伏した机の冷たささえ。

鬱々しい気分。同時に感じる、馬鹿馬鹿しい気分。闇はそれらをも優しく包み込んでくれる。

コツコツ、と足音がしたかと思えば突然止まる。ノックする事無く、扉が開く気配がした。


「寝ているのか、呼び出しておきながら」

「寝てないよ。ちゃんと起きてる」

「電気くらい──」

「──点けたらどうだ?……と、お前は言う」

「……真似をするな」


呼び出した蓮二を見やって笑えば、蓮二はあからさまな溜め息をついた。いつもの白衣ではなく、チェックのシャツにスラックスという少しラフな姿。


「何。蓮二はもう上がりなんだ?」

「お前は違うのか、精市」

「いや、上がり」

「なら良いだろう。今日はやけに突っ込んでくるな」

「蓮二もね。もしかして今から赤也とデート?」

「……で、用件は?」


長居するつもりは無いらしい。

仕方なしにデスクからそれを取り出すと、俺は差し出す。受け取った蓮二が、訝しげに眉をひそめるのが分かった。


「仁王が書いたものだよ」

「つまり……」

「うん、仁王は健忘なんかじゃない」


蓮二が改めて手元の画用紙に目を落とす。そこにあるのは、見慣れた仁王の字。クレヨンで書かれた、少し癖のある筆跡。





“オレ達の問題”

“これ以上首をつっこむな”





「騙されてたんだよ、俺達は。アイツは天性のペテン師だ」

「しかし、精市。いつから……」

「さぁね。昼間のアレがきっかけになったかもしれないし、もっと前からかもしれない……もしかしたら最初から演じていただけかもしれない。それは分からない」


だけど必ず理由があるはずなんだ。それがたぶん“オレ達の問題”で、いつか304号室の赤也が俺に教えてくれた事なのだろう。

あぁ、すると少なくともあの日まではやっぱり記憶は無かったのか。それか、そこまで計算済みで謀られたか……


「いずれにしてもやってくれたね、仁王。こっちは本気で心配したってのに」

「弦一郎は知ってるのか?」

「まだ。仁王が自分で行くって。どうせアイツは出張でしばらく戻らないしね」


とはいえ事故前後の記憶は相変わらずらしい。以前から口にしていた強い光と大きな音、それ以外で思い出したのは誰かの足元、靴のデザイン、ボンヤリとした背格好と、走り去る車──その全てが曖昧。

不意に仁王が書いたそれが目に入る。画用紙を俺に差し出した時、確かに仁王は笑っていた。ピエロのような、不敵な笑み。


「茶色、か……」


仁王の筆跡──それはチョコレートを彷彿させるシックな色合いで成り立っていた。
















「んっ、ぁ……っ」

身体の奥に、仁王君の熱が広がる。奥を穿つと同時に果てた私のソレが、仁王君と私自身の腹を汚しました。

いつもの行為。けれど、いつもよりちょっとだけ優しい──気がします。

荒い息を整えながら仁王君を見やると、仁王君は笑いながら額にキスをしてくれました。それが少し寂しくてなりません。仁王君が行為の後にキスをしてくれる場所はそこではなくて──……


「柳生?」

「何か?」

「どうした?」

「どう、とは?」

「今、一瞬何か考えたじゃろ?」

「……鋭いですね、仁王君は」

「柳生の事ずっと見とるだけじゃ」

「大した事ではないですよ。明日のお昼は何を食べようかと」

「普通こういう時にそれ考えるかの?」

「いいじゃないですか」


笑って誤魔化しながら、こっそりと溜め息を付いてしまいました。やはり私の勘違いだったのでしょう。相変わらずの、仁王君です。


「やーぎゅ」

「……何ですか?」

「やーぎゅ」

「だから何ですか?」

「やーぎゅ」

「……本当にどうしたんですか? 今日は機嫌が良いですね」


隣に寝転んだ仁王君が、私を腕の中に閉じ込めてしまいました。振り払う気力も無く、むしろ嬉しいとさえ思う気持ちが、されるがままにしてしまいます。

それを良い事に、仁王君は私のいたるところにキスをしました。目蓋、目頭、頬、鼻の頭、耳元、それから……唇。

瞬く間の事です。

驚きに動けなくなった私には構わず、仁王君はもう一度、今度はゆっくりと、しっとりと重ねてくれました。

ただそれだけ。

ただそれだけの事なのに嬉しくて、同時に寂しくて、悲しくて──消えてしまいたいと思いました。

どんなに足掻いても、私の知る仁王君は帰ってきてくれません。だったらいっそ──……


「俺は柳生が好きじゃ」


真っ白になっていく世界の中で、仁王君の声だけが響きました。答える私の唇は、ただ声にならない声を発するだけ。

そんな私を、優しい、けれど力強いぬくもりが包み込んでくれます。


「柳生は?」

「……」

「柳生が思ってる事、全部聞かせて」

「……仁王君が、好きです」

「おん」

「元より私は……私と仁王君は、恋人同士でした。信じられないかもしれませんが」

「……」

「こうやってまた抱きしめてもらえるのも嬉しいです。幸せです。だからこそ……苦しいです。だって仁王君には、私との思い出は、全部、無いんですよね?」

「……」

「ごめんなさい、消えてしまいたいと思ってしまいました」

「やりすぎたのう……やーぎゅ」


苦笑しながら頭を掻いた仁王君が、改めて私を抱きしめます。


「もう一度、俺とやり直してくれんかの?」

「もう、一度……?」


途端に色付いた世界。

混濁の中にいた思考を無理やり働かせて仁王君を見れば、そこにあったのは少し寂しげな微笑み。


「おん。もう一度」

「にお……くん……」

「騙してごめんな、やーぎゅ」

「仁王君……?」

「俺のエゴじゃ。押し付けて、ごめんな」

「何の……話ですか?」

「こっちの話じゃ。柳生はやり直してくれるかの? ……いや、その前にやるべき事があるのう」

「やるべき事?」


私を抱きしめる仁王君の腕が、一層強くなります。

苦しい。

けれどそれを口にする事すらはばかられて、私は仁王君の次の言葉を待ちました。


「柳生が、全部思い出すんじゃ」

「え……?」

「全部思い出そう。どんな結果になっても良いから、全部」


そうして仁王君は私を抱きしめたまま、言葉を紡ぎ始めました。








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