海中をゆっくり進む、静かな船内。
真夜中に私は一人、寝ているクルーたちを起こさないよう足音を消しながら、彼の部屋へと向かう。
ノックをせず、そっとドアを開けて中を覗くと、予想通り彼は医学書をめくっていた。
「ナマエ。入るなら入れ」
こちらに目線をやる訳でもなく、本に目を落としたまま船長はそう言った。
ドアを閉めて中に入る。読書の邪魔にならないように、私は船長の机にマグカップを置いた。
真剣な横顔に思わず笑みがこぼれて。もう一つ自分用に持ってきたマグカップを手に、私は彼の後ろにあるソファに座った。
淹れたてのカフェオレは、まだ温かかった。
「お前が淹れたのか」
船長が振り向き、マグを持ちながら私に問いかける。
「はい。船長、ブラックですよね」
「あァ」
私と違って、彼はブラックコーヒーしか飲まないから。
読書を中断したらしく、船長は椅子の背もたれに片腕を預けながら、横向きに座ってコーヒーを飲んだ。
「お前もブラック飲んでるのか?」
「まさか。苦すぎて飲めません。カフェオレです」
「甘ェの飲んでんな」
船長は立ち上がって、私の隣に腰掛けた。ブラックコーヒーの香りがすんと鼻孔をくすぐった。
「ナマエ」
「、船長?」
すっと私の毛先を指に巻き付けながら、彼が私を見つめた。
「何故その呼び方をする?」
「、っ!」
「他のヤツがいないんだ。いいだろ」
ゆるりとその口が弧を描く。その意味が分かって、私の心臓が音を立て始めた。
彼と私は、最近、その、恋人になって。クルーの手前、あまり馴れ馴れしくするのが嫌だったので、妥協案として二人きりのときは名前呼びにする、と決めたのは。私だ。
「、...ロ、ロー...っ」
「ん?」
う、わ。
なんだか気恥ずかしくて小さい声で名前を呼ぶと、彼は私との距離を少し詰めてきた。
ああ、ワザとやってるんだ。
「...ロー、んっ」
今度は大きめに言うと、私の視界は一気に彼でいっぱいになって。気づいたときには、もう唇に柔らかい感触が残っていた。
「な、そんな急にっ」
「どうだ?」
「へ、」
目と鼻の先に彼のニヒルな笑顔。私の思考はほぼ停止していて、自分でも分かるほど、赤面していた。
「甘いだろう。ブラックコーヒーも」
「は、」
「もう一回、味わうか?」
「え、」
ようやく彼の言葉の意味を理解した頃には、もう遅かった。
コーヒーを口に含んで飲み込んでから、また降ってきた彼の唇。
「ん?」
「あ、甘い、です...っ」
なんてこと言わせるの。
沸騰寸前の私をローは楽しそうに見つめた。
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