きっと今日は、あたしにとって人生最悪の日だ。

北の海のとある冬島。此処で生まれ育ったあたしにはどうってことない寒さだが、珍しくいつも降っている雪は舞っていなくて。

モヤモヤした気持ちを抱えたまま無意識に辿り着いたのは、島の淵、海の見える海岸だった。


「あー......来ちゃったよ」


すとんとしゃがみこみ、あたしは目の前に広がる海を見た。何度此処からの景色を見ただろうか。吐いた溜め息は白く目に見えたが、すぐに冬の空に溶けていった。


「ばーか。バカファルガー、」


誰に言うわけでもなく呟くと、あいつの顔が浮かんできて。いや、朝からずっと、もっと言えば毎日思い出す顔だ。


「やっぱり此処にいたか」


だから、ついにあいつの声まで脳内で聞こえるようになったのかと思って、あたしは頭をわしゃわしゃとかいた。


「おい、ナマエ」

「......え」

「え、じゃねーよ。無視してんな、馬鹿」


はたと振り向くと、そこには紛れもない、本物のあいつがいた。


「ロー......」


名前を呼ぶと、ローは盛大な溜め息をついてあたしに歩み寄ってきた。その場に立ち上がると、ローはその前に対峙して。


「お前、なんで来ねえんだよ。シャチがうっせーんだよ、ナマエが来ねえって」

「......」


ローから目をそらし、あたしは斜め下を見る。そう、今日はロー、シャチ、ペンギンの3人が海へ出る日だ。幼い頃からいつも一緒にいた彼らだから、見送りに来いと言われていたのだ。でも、あたしは行けないでいた。彼らがいなくなるのが、認められなくて。


「ほら、行くぞ」

「ねぇ、ロー」

「なんだ」


少し苛立った声のロー。その顔を見ると自然にあたしが見上げるような形になった。いつの間にこいつは、こんなに背が伸びたんだろう。


「......あたしも、連れてってよ」


数え切れないほど言った台詞。そのたびに返ってくる言葉はいつも同じだった。


「無理だって言ってんだろ」


ほら、また今日も。


「何回言わせるんだ。お前は連れていけねぇ。諦めろ」

「......なんでっ...!?」


歩き出したローの背中に声をかけると、その足を止めてその端正な横顔をこちらに見せた。


「ねぇ、なんで!?あたしが女だから!?そんなに足手まといになるの...!?」


あぁ、これでローの顔を見るのは最後かも知れないのに。こうやってあたしは、張り合うしかできないんだ。

体をあたしに向けたローは、いつものように感情のない顔で真っ直ぐ見てきた。それが余計に腹が立って、あたしは止まれなくて。


「どうしてよ!?あたし、ペンギンよりも馬鹿だけど、シャチより喧嘩強いじゃん!あたしだって、鍛えれば戦えるよ!」


何も言わないの?いつもそうだ。ローはあたしが言うことに、無駄な口出しはしない。でも、今みたいに、ちゃんと受け止めてるんだ。


「ずっと一緒だったのに......!あたしだけ置いていくなんてひどいよ!ねぇ、ロー、連れていきなさいよ!あたしにも、あんたが海賊王になるところ、見せ............!?」


声を張り上げていたあたしに近づいてきたと思ったら、急に奪われた視界。目の前にはローの黄色いパーカーがあって。


「ちょ、何、してんの!?離してよ!ちょっ」

「うるせえ」


あたしの背中に回ったローの腕が、力を加えて。あたしはいつの間にか彼の腕の中だった。


「お前、こんなときくらい静かにしてろよ」


頭の少し上でする声。あたしが抵抗をやめてじっとすると、ローは片手をあたしの後頭部に当てた。


「......なんで」

「あ?」

「なんで、こんなことすんの」


本当は今、すっごく心臓が煩いんだ。幸せで、悲しくて。ずっと、ローに近づきたかったから。でもあたしはやっぱり、素直になれない。


「んとに馬鹿だな、お前」

「バカファルガーに、馬鹿って言われたくない」

「俺は医者だぞ」

「......っ、医者だから何!?あたしの気持ちも知らないくせに!」

「......」


ローのパーカーの裾を少し掴んで。


「あたしは......ずっとローの近くにいたいの!」


その胸に向かって叫ぶ。


「4人でずっと、一緒にいたいの......!」


泣きそうなのが、自分でも分かる。


「置いてかないでよ......ロー...」


でも、涙は見せたくないから。

きっと声が震えてるのは、こいつも分かっていて。あたしが強がってることも、分かっていて。短く息を吐いたローは、あたしを更に強く、抱きしめた。


「ナマエ」


ローが呼ぶ、あたしの名前が好きだった。


「俺はもう決めたんだ。この島を出て、ペンギンとシャチと、海賊をやる。だが、危険が多すぎる。だから俺は、お前を置いていくことにした」


暫しの間を置いて、またローが言葉をつなぐ。


「怖いんだよ。まだ俺は、力がない。何が起こるか分からないこの海で、お前を守り抜ける自信がない。なぁ、ナマエ。俺はお前と本当は一緒に行きたいと、そう思うんだ。でも大切だから、連れていけねぇんだよ」

「......ロー...?」


黙りこくった彼を見上げると、視線がぶつかった。ローは横にそらして海を見る。


「ナマエ、俺はお前を、幼なじみとしてだけじゃなくて大切に思ってんだ」

「へ......?」


視線をまた交わせて、ローはあたしの頭をその胸に押し付けた。


「分かれよな。俺だって、辛ぇんだよ。お前を置いてくのは」


耳元でする声が、あたしの涙腺を弱めていく。

ずっと、あたしはこいつのことが好きだった。小さい頃から一緒にいたあたしたちは、家族みたいなものだった。

気付いたらあたしは、シャチやペンギンに対するものとは違う感情をローに抱いていた。でもそれはずっと言えなくて。

怖かったんだ。気持ちを伝えたら、あたしたちの関係が崩れてしまいそうで。だからずっとずっと、押し殺していた。


「......ロー」


泣くな、泣くな。


「あたし、馬鹿だからさ......。そんなこと真剣に言われたら、信じちゃうよ...?」

「馬鹿は頭使わねえで、そのまま受け取っとけ」


だめだ、もうこれ以上、強いあたしではいられない。必死に声を押し殺して泣くあたしの耳元で、ローはふっと笑った。


「ナマエ」


体を離される。間近で見る顔は、あたしが恋い焦がれていた奴の、初めてみる顔だった。


「絶対に俺は帰ってくる。だからお前は、ずっと待ってろ」

「......うん」

「どこにも行くんじゃねぇぞ」

「......うん」


ローはあたしの目元に唇を当てた。顔に熱が集まるのが分かって、どうしようもなく恥ずかしくて、嬉しくて。


「必ず、お前の所に戻ってくるから」

「帰ってこなかったら、あたしが地獄まで追いかけていってやる」

「勝手に地獄送りにしてんじゃねえよ」


ロー。あたしはずっと待ってるよ。
あんたの気持ちが聞けたから。
あたしの思いが届いたから。
もう、辛くない。
絶対絶対、帰ってくるって信じてるから。


いつの間にか降り出した雪は、ローたちの船出をあたしと見送っているようだった。

またこの白の世界で、逢える日まで。


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