0に至る話
 ──三年前。言峰綺礼の手に聖痕が浮かんだことにより、遠坂時臣と顔を合わせた日からさらに数ヶ月を遡る。聖堂教会が新たな聖遺物の存在を掴んだことにより、綺礼の実の父である璃正はイラクへと足を運んでいた。
 璃正らが所属する第八秘蹟会は聖遺物の管理と回収を主な役割とする。回収に当たる際、聖遺物を儀式に重用しようとする魔術師と少なからず衝突するため、八極拳において指折りの実力者である璃正が先立って回収に赴くのは至極当然のことである。しかし、今回ばかりは璃正が出向かなければならない理由はそこにはなかった。
「情報では杯だと」
 頷く構成員を璃正は一瞥する。璃正が出向いたのは他でもない、聖堂教会が掴んだ情報が、かの英雄王に関わるものだとの内容だったためである。
 三年後に執り行う聖杯戦争に備えて、遠坂時臣は条件を満たす触媒を探し求めていた。神のいた古代に遡るとなると、現存する聖遺物はそう多くはない。金銭でどうにでもできたならば時臣も苦労はしなかっただろう。
 時臣が自身の財を擲ってでも欲した聖遺物の情報が聖堂教会に転がり込んで来たため、知己である璃正は回収を買って出たのだった。遠坂家に協力体制を取ることを内々に決めた聖堂教会も、璃正の申し出に異議は唱えなかった。
 ただ、璃正は同時に訝しくも思えていた。英雄王が治めたウルクの地、現在のイラクで発見されただけの杯が、どうして璃正らの思惑に叶う聖遺物であると言えるだろう。もし真実かの王のものであるならば、これまで所在が知れなかった理由は何か。まるで機を図ったかのように姿を現したのは何故なのか。
 夏の非常に乾燥した空気を吸い込んで誰ともなく咳込む。これで冬は風が吹きすさび南の湿原地帯から湿った空気を運び、神々による災害に常に脅かされてきた地であるのだと言うから当時の民は相当に強かだったことだろう。日除けの布を被り直し、厳重に現地の人払いを行いながら歩を進めた。
 聞き及んだ場所に辿り着いた璃正らは、まさに威光そのものを目にしたと言って良かっただろう。まばゆく輝く金の杯、それには傷一つも見受けられず長い時を経たものだとは到底思えない美しさであった。遠目からでも杯の放つ荘厳さは確かなものであり、英雄王に縁あるものに違いない。
 さらに距離を詰め杯まであと数メートルに差し迫ると、杯の輝きは一層増したようであった。聖遺物という神秘に触れる事実、そして時臣の勝利が成就するビジョンに喜び震えた璃正は増しゆく光輝を不審に思うことなく進む。
 だがあまりにも眩しいと足を止めた瞬間、その場の構成員は光に包まれ視界を奪われたようにして意識を失った。時間としては十数秒にも満たない間であったが、次に目を開いたときには黄金の輝きは失われていた。金の杯が鎮座していた場に、一人の少女を残して。




 見慣れぬ景色に少女は困惑を隠せない瞳で瞬いた。つい先程まで眠っていた少女は、たっぷりと時間をかけて目を擦り、ゆるやかな思考速度で「ここどこ……」と口にしたが、璃正の顔を見るなり飛び起きたのだ。
「目が覚めたかね」
 あの、いや、と言葉にならない言葉を紡ぐ少女に、水は必要かと璃正は訊ねた。乾燥しきった気候の中、大口を開けて寝息を立てていた少女への配慮である。まるで気づきもしなかったかのように喉に手を当てると、少女は何度も頭を縦に振った。
 器に果実水を注いで渡すと、少女はこくこくとそれを飲み干した。璃正と同じ日本人であることは明白だ。年は一六か幾ばくか、いや幼く映るだけで日本人の体格で考えれば二〇前後かもしれない。少女を見ながら、内心で璃正は頭を抱えていた。
 目の前の少女に聖遺物の行方を訊ねたところで、何の情報も得られないことは大方予想がついていた。だが全くの無関係とも言えないため、仕方なく璃正は本来の目的とは別に少女を保護することにしたのである。少女を保護したことで事に進展があれば良いが、なければ聖遺物探しは振り出しに戻るわけである。
「私は言峰璃正だ」
 少女の瞳が自分を見据える機を図って話を切り出した。躊躇いがちに「咲田柊香です」と名乗った少女に、璃正は話を続ける。
「まだ混乱しているだろうが、早急に確認しなければならないことが二つある。君は意図してここに来たのか?」
「い、いえ」
「君は誰かの意図でここへ来たのか?」
「いいえ……」
 柊香は質問の意図がわからないという顔をしていた。
「誘拐……とかではない……ですよね?」
 確認するように柊香が訊ねる。璃正の質問はどこをとっても誘拐犯の口から出るような内容ではないが、柊香にそこまで頭を回せと言うつもりはなかった。反応からするに魔術師ではない、ただの一般人であればこのような事態に巻き込まれて正確な状況判断を行えというのも無理からぬ話だからである。
 璃正は首を振って否定し、柊香が現れてからここに至るまでの話をしてやることにした。聖堂教会や聖遺物、神秘など一般人が本来知り得ない事実については詳細を伏せて。

 柊香にとってはどれも突拍子のない話だった。いくら自分が見知らぬ土地で目を覚ましていたとはいえ、聖遺物が消えると同時に現れたと説明されてもはいそうですかとは言えない。
 襲われた記憶はなく、言ってしまえば意識を失ったことすら自覚しなかった柊香からすれば、現状はまるで夢のようである。
「我々が探し求めていたのはとても古い時代のものだ。聞いたところ君は神秘はおろか異国にさえ縁のない出生のようだが、それが消える代わりに君が現れた事実に何の因果もないとは考えづらい」
 果たしてそうだろうか、と柊香は疑念を隠しもしない。璃正は聖遺物が消えたことについて柊香を責めるつもりはなかったのだが、話を進めるために「そういうものなのだ。因果に依らない奇跡を起こせるものというのは限られている」と念を押した。
「可能であれば、我々は君が現れたことによって失われたものを手に入れたいと考えている。そのためには君自身が必要不可欠となるだろう。よって、君の身柄は私が保護させてもらう」
「……具体的には……」
「いくつかの調査に協力してもらうが、何、乱暴なことはしないと約束しよう」
「はちゃめちゃに怪しい」
 素直な感想を述べる柊香に思わず璃正は笑い声を上げる。
「君は言わばブラックボックスだ、簡単には手を出せない。それに……柊香くん、仮に私の手から逃れてどこへ行こうと言うのだね?恐らく帰る場所はなく、不法入国同然の君には自由な行動すら許されない」
 璃正の口から飛び出た「不法入国」の言葉に、柊香は動揺を示した。戸惑いと驚きが入り混じった声を漏らすと、横たわっていた寝台から足を下ろして室内を小走りに駆ける。駆け寄った窓から外の景色を眺めると、砂丘と見慣れぬ木々が生い茂っている異国の景色を見て呆然とした。
「自分がどこへ来たのかも知らないのだったか。ここはイラク、日本からは遠く離れた中東の国だ」
 途方もない事実に柊香は再び眠ってしまいたい衝動に駆られた。夢だと思いたくなるほど、理解に苦しむ出来事が自分の身に起こっている。
 そもそも理解と納得は別物だと柊香は捉えていた。璃正の話がどれほど柊香の現状説明にふさわしいものであろうが、受け入れるにはあまりに実感が足りない。だが寝台へ戻ってもうひと眠りしてみても、現状が変わりそうにないことも分かっていた。
 璃正が下した決定が覆ることもなさそうならば、せめて多くを見聞きしてから身の振り方を考えるべきなのだろうと柊香は深いため息を吐いた。
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